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2017年3月の映画鑑賞 『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』『モアナと伝説の海』

一応エリートオタクを自称する私としては、大学を卒業してもなお、文学士としてのほこりを持ち、映画鑑賞、文芸をチェックしていくことを怠ることはない。
といってもすべてを完璧にこなすことは、『アバウト・タイム』に登場する父さんのように、なんども時間を往復して作品を味わい尽くすことができるわけでもないので、仕事も忙しく自分の時間のもてないなか、限られてはしまう。

ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険
ネットでも話題となっているようである。私はそれらにまで時間を割いている余裕がないので、ネットでどのような批評が繰り広げられているのかしらないが。
モアナを見に行ったところで、時間に都合があったので、その時間にやっていたドラえもんをみることになった。ドラえもんの映画を劇場でみるのは、ほんとうに久しぶりだ。小学生の時にかなり話題になった「ワンニャン時空伝」を見て以来だから、ほんとに13、4年ぶりくらいではないだろうか。
ワンニャン時空伝は、大山のぶ代がドラえもんの声を担当した最後の映画ということもあり、今思えば一つの時代の節目だったような気がする。
一応ドラえもんとクレヨンしんちゃんの劇場版は、旧作はすべて一度は目を通している。
ワンニャン時空伝以降、声優が交代して以降の作品は次の通りだ。
のび太の恐竜2006
のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜
のび太と緑の巨人伝
新・のび太の宇宙開拓史
のび太の人魚大海戦
新・のび太と鉄人兵団 〜はばたけ 天使たち〜
のび太と奇跡の島 〜アニマル アドベンチャー〜
のび太のひみつ道具博物館(ミュージアム)
新・のび太の大魔境 〜ペコと5人の探検隊〜
のび太の宇宙英雄記(スペースヒーローズ)
新・のび太の日本誕生
旧作時代だからのドラえもんファンとしては、あたらしい声優は、というややアンチめいた感情をもたないでもないが、それでもすでに彼女たちも10年もやっているのだから、そういうことをバカにはできないし、そういうのをいつまでもバカにする態度は老害的態度といわざるをえない。
だが、地上波アニメも声優が交代してからしばらくはみていたが、原作者の不二子・F・富士夫がなくなったということもあり、ストーリーは以前のものの作り直し。私のなかでは記憶があるから、なんだ焼き増しじゃないかと思わざるをえなかった。劇場版についても、きちんと見ていないが、「新」がつくように、それらは過去の名作たちの作り直しでしかない。
新劇場版のほうで見ているのはのび太と緑の巨人伝と新・のび太と鉄人兵団 〜はばたけ 天使たち〜か。鉄人兵団は、加藤浩次が声優を担当したということで話題になっていたのを記憶している。鉄人兵団は、コンスタントに旧作とみたため、その差異があきらかとなり、20年の年月が経つと、どのように表現が変わるのかということを感じた作品でもあった。
新~がついている作品と旧作との比較、というのは、この二三十年での子供向けアニメにおける表現の変容としては、非常に参考になる資料だ。私はいまのところそれらの研究をする精神的な体力も時間もないが、よい視点だとは思う。大学生レベルでもできる比較研究だろう。

今回のカチコチは、完全オリジナル作品というわけであるが、ドラえもんはしばしば自然や科学(科学技術や科学倫理)についての視点を子供たちに提供してきたように思う。
たとえば、私が生まれた年である92年の名作 のび太と雲の王国では、行き過ぎた環境保護(きわめて過激的)は、結局人類をリセットするというノアの箱舟的なところまでいってしまい、一見いいとされるはずの環境保護でさえも行き過ぎはよくないというきわめて啓蒙的な、批評的な作品であった。
今回のカチコチは、とある星での科学技術がきわめて発達したために、その科学の暴走をおさえられなかった人達の悲劇が描かれた。それは日本のアニメが70年代くらいからずっと追い続けて来たテーマであり、そういう意味でこの作品はテーマとしてはとても古いものを取り扱っているということができる。たとえば行き過ぎた科学などで自分の星をほろぼしてしまった、というようなのは、銀河鉄道999や、宇宙戦艦ヤマト、マクロスなどに何度も登場するテーマである。
また自分たちの作り出してしまった兵器がコントロール不能に落ちるという点で、ナウシカの巨神兵を思い起こさせられた。こうした過去の日本のアニメ史へのオマージュが今作は非常にあったと思う。

さすがに2017年という時代だけあって、ドラえもんの映像はきわめてうつくしかった。
セル画的な雰囲気を残しつつ、おそらくデジタルで描いているのだろうけれども、昨今の不自然さがぬぐえないようなCG作品とはことなり、手が書いたような線描がとても温かみを帯びた絵であった。
ドラえもんといえば子供向けであるはずであるが、大人の私がみてもそん色ない作品であったことは確かだ。満足はした。

モアナ
モアナはさすがディズニーという感じであった。これは私のなかで、五段階評価で5の満点を獲得する作品である。
去年一月仕事を休んでハワイでバカンスをしていたということもあり、ポリネシア、太平洋文化といったものを下敷きにしたこの作品に思いを寄せることはいくつかあった。
たしかに今と違ってどこにどんな島があるともわからないなかで、立派な船をつくれるわけでもないなかで、あの広大な大海原へとでていく人間たちの心理はやはりすごいものである。

これまでディズニーはプリンセスが主人公で、そのプリンセスがいかにイケメンの王子様のハートをしとめて「幸せ」になるか?ということを描いてきた。シンデレラ、白雪姫、アリエル、美女と野獣(はややテーマ性がことなるけれども)すべてにおいてそうだった。
それが、70年代ころからはじまる女性解放運動、フェミニズムの台頭によって、痛烈に批判され、それがようやく作品をつくる人間にまで無意識のところまで落とし込んできたのがようやく2010年代ということで、『アナと雪の女王』では、恋愛関係ではなく、人間と人間としての姉妹愛があればそれでいいじゃないか、というフェミニズムにのっとった作品になっていた。これまでの自分の歴史を反省するということをディズニーという巨大な組織ができるようになったのが、やはり時代として意味があるのではないか。
ディズニーに買収されたルーカスフィルムの『エピソード7』もまた女性が主人公であるという点で、フェミニズム的な視点に基づいた作品だったと思う。

今回のモアナもまたそうである。女性が主人公であり、主に登場するのはモアナという少女と、半神半人のマウイという男性のみ。ふつう男女が二人いたらそこには恋愛が自動的に発生しそうなものであるが、そうではないと、たとえ男女二人組であったとしても、性的な関係以外の関係も構築できるだろう、恋愛がすべてではないでしょう、という文化的多様性を見せたのが今回の作品である。

話しはいたって簡単であった。かつてあった調和がとれた世界。そこからマウイというトリックスターが大事な宝を持ち去ってしまう。それが世界の混沌のはじまりで、世界に新しい秩序をとりもどすために、それを元に戻すというそれだけの話だ。話としては非常にふるめかしく、なにか新しいことがあるというわけではない。
話しもきわめて簡単で、モアナという少女がその宝を返しに行くという一点のみ。
日本のアニメのなかで動線がもっともシンプルでわかりやすいのは、ジブリのラピュタのような作品であるが、それ以上にシンプルであるという点で、さすがにディズニーだなと思わずにはいられない。動線がシンプルということは裏返せばストーリー性はないので、へたをするとつまらない、軽薄な内容、となり得ないことはないのだが、それにもかかわらず非常におもしろさを感じるのは、やはり往年のディズニーといったところであろうか。
それと引き換え、日本のアニメーションはというと、2016年に大ヒットした『君の名は』からつづき『声の形』『この世界の片隅に』そして今回の『ひるね姫』、あるいは3・24に金曜ロードショーにで再び再放送された『おおかみこどもの雨と雪』など、もう動線がぐちゃんぐちゃんで、なんなのかよくわからない。そういう技巧をこらさなければならなくなってしまっている、というのは日本のアニメ映画界での衰退ではないかと私は危惧する。『君の名は』はたまたまマーケティングがうまくいっていたので大ヒットしたものの、はっきりいって難しいだろう。よくわけがわからないまま、なんとなく感動したということになっているのではないだろうか。

ひるね姫
ひるね姫には期待していたものの、うーん、日本アニメ映画界のわるいところをそのままトレースしてきてしまったかという感じがして、3点台後半というところだろうか。
やはり動線がごちゃごちゃしているのがいけないと思う。
というか、二つの世界が徐々に近づいてきて交差するというのは、どう考えても村上春樹的(世界の終わりとハードボイルドワンダーランドや、1Q84など)すぎて、日本の文芸は、そういう物語が好きなんですか?といわざるをえない。『君の名は』にしても、二つの世界が徐々に近づいてきて交錯するという点で、この傾向を逃れられない。
瀬戸内海を舞台としているという点で、どうしても私としては『ももへの手紙』や『崖の上のポニョ』と絵のイメージが重なってしまった。

そして語られる夢の物語の主人公が実は自分ではなくその母であった、ということなど、謎解きとしてはとてもおもしろかったものの、結局その二つの交錯する世界の関係を最後まで説明できなかったのは非常に残念である。それを読者にまかせるというのはひとつの手ではあるけれども(村上春樹も謎を回収しないままなんとなく終わってしまうということで、それは読者へ対して失礼ではないか、と散々批判された)、あまり気持ちのいいものではない。シンゴジラのように、解釈合戦をひきおこさせたい、そうした謎にみちた、本編で解決しないというのは、いかにも春樹の『風の歌を聴け』庵野の『エヴァンゲリオン』的であるといえなくもないが。

結局あの魔法が使える国のおはなしは、なんだったのかということがよくわからない。
世界が同時並行的に存在していて、その二つが密接につながっており、まったく違う論理、ひとつは我々が住んでいる現実、物理法則にのっとった世界と、もうひとつは非科学的な法則、魔法の法則が通用する世界がある、という解釈もできる。
あるいは、魔法の国の物語は、いわば「象徴」なのだ、現実をそういうふうにたとえて、比喩をしているのだ、ということもできる。
まあその二つの世界が密接にむすびついているとして、いったいあの「鬼」という存在はなんだったのか、というのは最後まで謎が尽きない。渡辺という人物があやつることができたようであるが、それは魔法の国の話であって、あの鬼が現実世界のなにに相当するものなのか。
おそらくそれは、現実における、あの会社が負うであろう、社会的な負の力というようなものだったのだろう。オリンピックの開会式で車が制御できずに、世界中からバッシングを受け、ひとつの会社がつぶれてしまう。ひとつの会社が国と置き換えられる象徴世界においては、その国をつぶすだけの、ひとびとの想いは鬼ということになるのであろう。それを言葉巧みにあやつって、会社をつぶす、ダメージを負わせるというのはたしかにできたのかもしれない。



2月鑑賞目録

『子どもの「おそい・できない」にイライラしなくなる本』(PHP研究所2009)
『今どきの大人を動かす「ほめ方」のコツ29』(文響社、2016)
立石美津子『「はずれ先生」にあたったとき読む本』青春出版社 (2014
山口 敬之『総理』(幻冬舎、2016)
朝日文庫編集部 (編集)『ぐでたまの『資本論』 お金と上手につきあう人生哲学』(朝日新聞出版、2017)
青木仁志『一歩前に踏み出せる勇気の書』(アチーブメント出版、2016)

『劇場版 ポケットモンスター 結晶塔の帝王 ENTEI』(2000)

1月 鑑賞目録

『華麗なる微狂いの世界』(洋泉社2016/11/24)
『文学としてのドラゴンクエスト 日本とドラクエの30年史』コアマガジン (2016/12/2)

『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(1998)
『幻のポケモン ルギア爆誕』(1999)
『野獣死すべし』(1980)
『名探偵コナン エピソード“ONE” 小さくなった名探偵』(2016)
『劇場版 カードファイト!! ヴァンガード ネオンメサイア』(2014)
『探偵オペラ ミルキィホームズ ファンファンパーリーナイト♪~ケンとジャネットの贈り物~』(2016)
『野性の証明』(1979)
『スティーブ・ジョブズ』(2013)
『バイオハザードIV アフターライフ』(2010年)(再)
『バイオハザードV リトリビューション』(2012)

『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(2016)
『バイオハザード: ザ・ファイナル』(2016)
『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(2016)

『聖闘士星矢 黄金魂 -soul of gold-』(13話、2015)
『マジきゅんっ!ルネッサンス』(13話、2016)
『亜人』(26話、2016)
『ドリフターズ』(12話、2016)
『ガーリッシュ ナンバー』(12話、2016)
『終末のイゼッタ』(12話、2016)
『ジョジョの奇妙な冒険 Part4 ダイヤモンドは砕けない』(39話、2016)
『夏目友人帳伍』(11話、2016)
『舟を編む』(11話、2016)


ローグワン/バイオハザード/ファンタビの感想

年末年始と忙しく休みが取れなかったのだが、ようやく休みが取れたので、三本連続通しで見て来た。今回は2016年も最後というところで立て続けに公開された、ビッグネームの映画たちの傾向など、簡単に感想程度に書いていこう。

スターウォーズといえば、もちろん1977年に公開されたエピソードⅣ、新たなる希望から連なる一連の壮大な物語だ。もはや知らない人はいないだろう。
二十台中盤の私は、学生時代に新三部作が徐々に公開されるという時間のなかで育ち、しかも私は割と原理主義的なところがあったので、旧三部作も後追いで勉強して、という人間だった。
そういう人間からして、主なる物語がすでにあるなかで、それを補完するような物語が出てくるのは、とてもうれしいものだ。日本では、冨野監督のガンダムシリーズなどが、そういう主なる歴史を補完する形でどんどん広がっていくという作品展開をしているが、まさしくそれと同じことである。
新三部作で育った私にはもちろんうれしい作品だった。いわんや、旧三部作を若い時代に見た、今の60前後の人達にとってはなおさらであろう。
ただ、ここまでの大作になってくると、なかなか現代人というのは、情報があふれすぎていて、ただでさえ作品の数も増えていることだし、いまからローグワンを見ます、そのために、旧三部作、新三部作、そして去年公開されたエピソード7、を勉強します、ということにはなかなかならないだろう。
私はもうすでに知識として知ってしまっているので、ジェダの町で、エピソード4ででてきた、オビワンに腕をきられてしまう二人組とか、反乱軍の評議会、モンモスマなど、最後のレイア姫などに、もう感極まってしまったところだったが、これをいきなり今の中高生に見せるとなると、なかなかその奥深さや感動が感じられないかもしれない。
その点、やはりこうしたシリーズ展開をしてしまった作品の強さでもあり、弱さをも感じる。強さとは、いままでのファンが一定見に来てくれるので興行収入が予測でき回収できるという点、弱点とは、新規参入者に厳しい、ハードルが高いという点である。

エピソード7が、戦う女性ということで、フェミニスティックな香りをそこにかいでしまった私であったが、今回も、女性の主人公が戦うという構図は同じであるが、とくにフェミニン的なものを感じることもなく、違和感なく鑑賞することができた。あまりイデオロギー、主義主張の強い作品ではなかったので、はなにつかなかったのかもしれない。

今回感じたのは三点。一つは組織の上下関係。二つ目、統率のとれた社会があるなかで、そうではないアンダーグラウンド的な社会。三つ目が人は希望のために命を賭す。
ひとつづつ見ていこう。
一つ目は上下関係。
私も社会人になって学生の時には見えていなかったものが見えてくるようになった。やはり社会というのは縦関係が重要(それが大切かどうかということではなく、厳然と存在しているという意味において)なのだ。
今回は皇帝は一度も姿をみせなかったが、ウィルハフ・ターキン総統をはじめ、ベイダー卿、クリニッツ長官、と高位の人間たちのやり取りがキャプチャアップされている。
帝国軍は皇帝をトップに置く、完全上下社会、縦社会の組織である。もとめるのは秩序だ。
それに対するのは、そうした右脳的な整理、秩序、といった右的なものに反対すべき左的な反乱軍、同盟軍である。
だが、今回みてておもしろかったのは、反乱軍側も反乱軍側で、最高評議会があり、そこに出席しているのも将軍だったり議員だったり、とけっこうちゃんとした上限関係があるなあということだった。
特に偉そうな上官も出てきていたりして、ルールにしばられている帝国軍ではそういう横暴なことはなかなかできそうにないような、昭和上司的な存在が反乱軍にはいたような描写がおもしろかった。

帝国軍、と、それとアンチの場所にいるかと思いきや、やはり組織であるからこそ上下関係の実はしっかりとある反乱軍。これは、アンチテーゼにはならないのである。では何がアンチテーゼになるのかというと、冒頭で破壊されてしまうジェダイの聖地ジェダだ。あれこそがアンチテーゼになりうる。
図式化すれば
帝国軍≠反乱軍←アンチテーゼ→ジェダの人々
1970年代のアメリかSF映画は、2017年にはその二作目が公開されるブレードランナーや、エピソード4のモスアイズリーの酒場などによってできた、ありとあらゆる種族がそこにいて、いろいろな言葉が飛び交っている、という雑居とした未来像を描いてくれた。(スターウォーズは厳密には遠い昔なんだけどね)
これはもちろん1960年代後半にベトナム戦争への反対から生まれたヒッピー文化や、草の根運動などから影響を受けた、映画製作者たちなりの、組織化、秩序化される社会への反対の意味を含めて描いたわけなのだと思うのだけれど。
もんだいは、どれがいいというわけではなく、秩序だった世界もあれば、それに反対する世界もある、さらにそれらともおかまいなしになんとなくごちゃごちゃしながらも生きている連中もいる、というそういう前提を認めることだ。
個人の幸福に限った話であれば、自分はそれらのなかでどれが自分にあっているのかということを探して、その世界で安寧して生きればいいのである。

まあそうした世界観の異なる人々が、やはり広大な銀河であるからなんとなくすみわけをしていたり、そこが被ると戦争になったりしているわけである。
ここで話はさらに個人の生きる意味や生きる価値、目的、といったものにしぼっていきたいと思うが、今回のローグワンは、とにかく「希望」の物語だった。
私もまあ子供を持つことが可能な年齢などになってきて、いろいろ考えるようになってきたのであるが、ようはバトンタッチなわけで、いろいろなものを後世に残していかなければいけないと。
もし、自分さえよければという世界でいきていればわれの欲望のままにいきればいいだけであるが、ローグワンに登場する人物たちはそうではない。後ろ暗いこと、手を汚さなければならないことを、反乱軍の戦士たちも当然しなければならないのである。それをあまり描かなかった旧三部作は、よくもわるくも娯楽SFだった、それを描かなければいけなくなったローグワンはよくもわるくも現代的である。
みなその任務を、仲間が殺されたり、いつ自分の命が絶えるともしれない、あるいは仲間であるはずの人間を殺して自分は生き残らなければいけない、そんなことをしつづけて生きていられるのはやはり「大儀」があるからである。
「大儀」がある生き方がいいのか悪いのか。あれば、戦いになるし、なければモスアイズリーやジェダの町の人々のような生活になる。そこには正解はない。
しかし、その大儀に希望を託すということ、その希望を託し続けることによって、人、社会、というのは存続しているのかもしれない。人は人のそうした思いや情念によって、それを引き継いで生きているのかもしれない。
そういう意味で、結局は登場人物のほとんどは死ぬという、まったく希望もない映画だったが、なぜか感動的に、希望のためならば、という映画になっている。
この映画がもし不発に終わるとすれば、希望のためにならば、自分の命を賭してもいいという価値観、より崇高なものが自分の命よりも上にあるのかどうか、という点で、感じ方が変わってくることであろう。
この映画が示したのは、希望を持った生き方がどのようなものかということだった。それはそれで、数十年越しの希望を見せつけられた私としては感動にたるものだったが、それを簡単に感動していい、人命を軽視していないか?という疑問符と共に共有しておきたい映画ではあった。


バイオハザード・ザ・ファイナルの感想
奇遇なことに、バイオハザードでも、最後には、スターウォーズと同じ人はより多くの大きな使命の前には自分の命を捨てることができるか?ということがテーマになっていた。
まあさすがにこの状態、世界が全滅して残った人間は4000人程度、自分をも殺す抗ウイルスをばらまくかどうか、という選択肢だったら、さすがに僕でもばらまくので、これはそこまで難しい選択しではなかったようには思えたが・・・。
スターウォーズ、ハリポたは展開中のなかで、長年続いたバイオハザードはようやく、ファイナルということになり、回収を見せた。
ひろがっていく分には構わないけれども、それをいかに回収できるかで、後世の評価はだいぶ左右されることになるだろう。起承転結も、やはり結が一番難しいのだ。下手をすると、シンゴジラで去年話題になった庵野監督のように、エヴァンゲリオンとかのようになにがなんだかわからなくなって回収できません、ということになりかねない。それもまたそういうスタイルとしてあってもいいが、やはりものごとにはどこかでピリオドをうつ必要もあるし、終わらせる、片付けるという引き算の哲学も必要になってくる。今回はそれをなんとか無事にやり遂げたということで、私はこのシリーズの完結におめでとうといいたい。

さて、ではどのようにしてひろげていった話を回収するか、というこれはなかなか難しい話なんだけれども、あさっての方向にとんでいってしまって終わっちゃうという、投げやりな方法もある。猿の惑星なんかがそんな感じがしないだろうか(詳しく見てないのでしらないのだけれど)。
もう一つの方法としては、一応納得感の得られやすい、原点回帰型。ユニコーンガンダムでも、結局はもといた場所に全部あったんじゃねえか、いままでの中間の5話の旅はなんだよ、ってつっこみたくなるあれなんですけど。今回も結局ラクーンシティの最初の研究所に特効薬があって、それをばらまけば終わりみたいな、じゃあいままでの旅とかほんとなんだったの、ありす、最初から元の吉攻撃しつづければよかったやん、というなんともな感じになってしまってはいる。
まあそんなことをいったって、私がいざ作者になったらとてもじゃないけど、回収なんて無理だから他人のことをとやかくいうのははばかられるけれども。

最後にちょっとヒューマンスティックな話をしておけば、たんなるゾンビの話で戦って終わり、ということかと思っていたけれども、その戦っているアリス、彼女自身はというと、ゾンビ、それからコピー、それからオリジナル、などなどと対比されるなかで浮かんできたものは、人間を人間たらしめているもの、人間性、のようなものだったのには、ちょっとだけふーんと思った。まあ後付けと言えばそこまでなんだけれども。
レッドクイーンは最後にアリスにあなたは私達の予想を超えて、人間よりも人間らしくなった、人のために自分の命を捨てられる勇気を評価した。アンブレラの自己のことしか考えない人間たちは、浄化された新しい社会には必要ないということなのだ。
そして人間としてもうひとつ大事なこと、それは記憶。
人間を人間たらしめているのは、やはりそれまでの記憶なのだ。それが間違っていようが、ねじまがっていようが、とぎれていようが、それがやはり人の心を形成する重要なものになっている、そんなメッセージが最後に伝えられた。


ファンタビの感想 ヘンな子たちの物語
もともとの正史扱いされる7部作からもその片鱗は見えていた、というかまさしくそれがテーマだったのだが、今回もそのテーマが色濃く引き継がれていると感じた。7部作のほうは子供時代に鑑賞したので、そんなことは意識もしなかったのだが。
テーマというのは、この作品が、弱者やコミュニティのなかにうちとけない子、風変わりな人、ちょっと変わった人、そうしたマジョリティーとは異なる性質を持った人々に対する暖かなまなざしである。
もともと人間という大多数のなかでの魔法を使える存在、ということで魔法使い、魔女たちは差別、偏見の対象であった。それはハリーポッターの初期からよくみてとれる。ダドリー家では、階段下にした部屋を与えられないなど、およそ常人とはあきらかにことなった差別を受けて来た。
物語後半では、魔法使いの世界の中でも変わり者であったスネイプ先生の少年時代の話とか、あるいはかなりあからさまではあるが、ルーナのようなキャラクターが登場し、それらの登場人物が物語の中で排除されるのではなく、むしろあたたかく迎えられているところに、この作品の、あるいは安易に作者の、思惑が意図されているように思われる。
そのテーマはこの作品にも引き継がれていると私は感じた。
というのも、この作品する四人の主なメンバーがそろいもそろって変人ばかりだからだ。
主人公のニュート・スキャマンダーは好奇心というか探求心旺盛なフィールド学者タイプ。一つ気になってしまうと周りのことが見えなくなり、とんでもない状態になってしまう。魔法で壊れたものが直せるからといって、あまりといえばあまりである。学級にいれば、ADHDや多動性と見誤られてもしかたがないレベルである。
ティナ・ゴールドスタインもまじめなタイプ。だがハーマイオニーのそれとはやや違う。実直すぎて規則にしばられているタイプだ。本当は融通を利かせたいのだけれどもというところでもでも規則は規則で、と規則にしばられてしまう、こうした原理主義的な人は、発達障害に多い。
物語の主軸はこの二人にかかってくるのだから、なんとも堅苦しい感じがする。お気楽を担当するのは、クイニー・ゴールドスタインとジェイコブ・コワルスキー。
クイニー・ゴールドスタインはフェミニンムンムンという感じのお色気お姉さん。ジェイコブ・コワルスキーは小太りで、フェミニンと双璧をなさなければならないイケメンとは相反するダメンズボーイ。
ところが、このファンタビがいいな、というかやや思想的にやりすぎなところはあると感じはしたが、作品の方向性となっているのは、ハリポタ7部のような、学生同士のイチャイチャラブラブではないというところだ。イケメンと美女がということではなく、美女が、イケメンではなく、小太りだけど優しくてユーモラスがある男性にひかれて恋に落ちるというところが、2010年代を生きているなという感じをさせてくれる。
ようはポリティカルコネクトネスのような思想がはいってきているわけである、物語りの舞台はおもいっきり1920年代なのではあるが。
アメリカの映画をけん引してきた、さらにはここ10年、20年少年少女たちの心に涵養を与えて来たハリポタシリーズが、このような恋愛観、美女でもイケメンに惚れるのではなく、むしろぶおとこであってもひかる個性があれば、それは十分に愛するに足る、チャームポイントであるということを大々的に広告してくれるのには、ぶおとこの私としては、ついに私達の時代も遠からずと思わなくもないところである。

ただ、総括として、スターウォーズ、バイオハザード、ハリポタと、ここ10数年で人々のコモンセンスとなってきた大衆作品の最新作、あるいは最終作としては、この三作品、それほどおもしろくはなかったなというのが感想だ。
2016年は夏ごろの、君の名はとシンゴジラの影響が強すぎた感がある。このふたつの作品は、その後もずっとニュース番組で取り上げられるなどし、話題を博した。ところが、この三作にいたっては、その後まったく音沙汰がない。音沙汰がないということはやはりおもしろくなかったのかな、ヒットしなかったのかなというところで見に行ったが、まあそこそこおもしろいものの、とてもおもしろいわけではなく、どれも評価は3といったところだ。全部で5000円近くの金を払ったのだけれども、ちょっと高すぎたかもしれない。




12月鑑賞目録

片田 珠美上手に「自分を守る」技術: かわす、はね返す、やりこめる
三笠書房 (2016
田中 康雄 (監修) 『大人のAD/HD 』(2009、講談社)
榊原 洋一 (著), 高山 恵子 (著)『図解 よくわかる大人のADHD』(ナツメ社 (2013)

『ルパン三世ファーストシーズン』(再)(23話、1971-72)
『ナジカ電撃作戦』(12話、2001)
『ユーリonアイス』(12話、2016)
『天使と悪魔』(2009)
『この世界の片隅に』(2016)
『老人Z』(1991)

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