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哲学、究極の問いに対する僕の答え

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 忘れもしない、4月30日の深夜、つまり29日をすぎてから二時間ほど経った時のこと。私は夜寝る前にトイレにいくのですが、そのトイレに入ったところで、はっと今までこの二年間ほど悩み続けてきた一連と問いに対する答えがひらめいたのです。
 まずその問いというのは、哲学の世界では「第一の問い」とか「究極の問い」とか言われるもので、どんな問いなのかというと、「なぜ私は存在しているのか」「なぜ私は生まれたのか」「なぜ私は生きているのか」といったものです。
これは根源的な問いで、いままで多くの哲学者が挑んできた問いです。いまだこれといった答えもない。またこれらの問いは、そのあまりのむずかしさや危険さから、「混乱を呼ぶ悪名高き問い」、「解答不可能な奇問」、「愚かな問い」、「問うことが危険な問い」などと言われて、敬遠されてきたというのも事実です。
 こうした問いは「形而上」であるとして、カントなんかは問うこと自体がいけないんだ、なんて断罪しているのですから、おもしろいものです。
 私も一時期この問いの魅惑というか、なんというか、この問いから離れられなくなっていた時期があって、もしかしたら自分は意味がないのではないか、生きることに意味はないのではないかとだんだん鬱的になってきていた時期もあったのです。ですが、それがなんとつい先日、ふっとわかったような気がしました。

 言葉で書くといかにもチープですが、私が達した答えはこうです。
 この問いが問えるようになった時点ですでに答えは出ている、というもの。
 補足説明しますと、「なぜ私は生きているのか」「なぜ私は存在するのか」といった問いは、その問いが生まれた時点で完結しているということなのです。
 手塚治虫が書いた有名な漫画『鉄腕アトム』にはこんな場面があります。アトムが人間のこころを持ちたいと願う場面なのですけれども、しかし、実はその人間のこころを持ちたいと思った時点で、すでにこころを持っているのです。
 私はこの一連の問いも、この問いが生まれた時点で完結しているのではないかと思うわけです。つまり、なぜ私が存在するのか、なぜ私が生きているのかという問いが生まれたということは、究極的な「私」の存在に気が付いたからなのです。
 もし、自分が他人とかわらずに、自分は歯車だ、自分が死んでも何もかわらない、他人と交換可能だという考えであったならば、おそらくこれらの問いは生まれてこないのだろうと思います。私は、この問いが自分のなかで生まれたというときにすでに、私は私であって、それ以外のなにものでもないということに気が付いているわけです。
 実にシンプルでありますが、しかし真実というものはこのくらいシンプルなものなのでしょう。私は私であって、代替不可能で、オリジナルでユニーク(かわりがないということ)な存在なのだということにやっと気が付けたのです。こんなことは、今迄ずっと言葉では聞かされて、頭ではなんとなくわかってきたことです。しかし、これが心のレベルではっとわかる。この感覚がきっとこの問いの答えなのだろうと思います。
 この数か月、私は自分は自分以外のなにものでもなくて、本当にユニークなものなんだ。こんなにすばらしいことはないと次第に気が付いてきていたのですけれども、それがやっと地についたというのか、翻って、この一連の問いと結びついたのです。

 なぜ私は存在するのか、なぜ私は生きるのか。これらの問いというのは、おそらく、その問いを問い続けていくことにはあまり意味がないのではないかと思います。もちろん、きっとこの問いを問い続けていっても、何かしらあるとは思います。もしかしたら、やはりまだ発見されていない何かがあるのかもしれない。
 しかし、私が数日前に体感したのは、これらの問いが問えるようになったその時点で、すでに自分は自分であって他人ではない、このあまりにも当たり前で、しかしそのためにみんな忘れてしまっている事実が、この問いの発生であるこの事実が、一番重要なのではないかということなのです。
 今回の体験は、言葉にすればこんな感じです。はっと頭のもやもやがゆっくりと晴れて行った感じ。こころのなかから少しずつ少しずつ湧いてくる、充足感、幸せのようなもの。
 私たちは、なぜ「なぜ」と問うのかということなのです。どうして、なぜ?と思うのか。実はこのなぜ?と問えるということ自体にかなり意味があるのではないでしょうか。
 どの授業でもそうですが、先生に質問出来る子というのは、自分の頭で考えている子です。ところが、自分の頭で考えている結果、なぜ?そうなるのかがわからない、というところがでてくる。自分の頭で考えることをせずに、ただ聞いてノートを書いているだけでは、なぜ?という疑問は湧いてきません。
 哲学の問い、とくにこの一連の問いについては、なぜ?と問える状態になった時点で、私は私であるということが本質的にわかったということなのではないでしょうか。
 もちろん、これは私にとっての私の答えなのです。ですから、これが全員に通用するなんてことは思っていません。おそらくこの文章を読んだからと言って、誰もが、ああそうかと納得するとは思えません。無理でしょう。ただ、この答えというのは、私にだけ意味を成すことであり、他の人に意味をなすとはとても思えません。ですが、まあ他人の思考の痕跡を見るということもまた、何かにはなるのではないかと思い、またこの感動を誰かと共有したく(おそらく無理ですが)、今回記事にした通りです。

ベジタリアンとまではいかないけれど、できるだけ暴力的でないものを食べる生活

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 最近は私もようやく資本主義の幻想から抜け出すことができまして、自然に帰らねばならないと思うようになりました。そして、革命は下から、一番弱いと思われているところから行うものです。自分が変えられない人間が何故他人を変えることができるでしょう。
 私は最近ガンジーに代表されるインドの思想などに触れ、いいなあと心から思いそれらを受け入れています。このブログでもよく登場するサティシュ先生もその代表ですね。
 そしてやはり私たちは「生きている」のです。言葉で書いてしまうとなんということもありませんが、私はここ数か月、やっとこのことに何か本質的に気が付けたような気がします。ああ、私は紛れもなく、この世界に生を受けたのだ。こんな奇跡的なことってないじゃないかと思い始めました。
 それ以来、自分はなによりにもまして特別な存在であり、代替不可能であり、ユニーク(ほかにかわるものがない)な存在であるということに気が付かされたのです。この自分がかけがえのない大切なものだと思うのと同時に、周りにいる人達もみな大切な、かけがえのない存在だということにも気が付きます。自分だけが大切というのは、エゴであって、それは本当の大切さをわかったとは言えないでしょう。

 私はガンジーの言った「非暴力、不服従」の精神が大切だと思っています。最近では、その思想がどんどん自分のなかに根付いてきて、食に対する考え方も変わりました。
 サティシュ先生は「全体食」ということを言っています。全体食というのは、たべものをそのままの形で食べることです。全体食というのは、仏教の「一物全体(いちぶつぜんたい)」という考えに拠っています。Wikipediaから引用すると、「生物が生きているというのは、丸ごと全体で様々なバランスが取れているということであり、そのバランスのまま人体に摂取することが人体内のバランスを取るのにも望ましいという考え方から、人間が食物を摂取する際、穀物を精白したり、野菜の皮をむいたり、動物の肉や魚を部分的に食用にするのではなく、できるだけ丸ごと食べるのが健康に良いとする考え方。 栄養学の観点からも、植物の皮や葉、小魚の骨は栄養が豊富である」というわけです。
 私はまだこの「全体食」にまではたどり着けていないのですが、しかし最近ではできるだけ暴力的につくられていないものを食べるように心がけようと思うようにはなりました。

 一時期ネットでフォアグラを作る際の過程が映された動画が話題になりました。かなり暴力的で、精神的な衝撃を与える動画なので、心の準備がない方は御覧にならないでください。
http://www.hopeforanimals.org/animals/foiegras/00/id=224
 私はこうした動画を見て、やはりこれは違うと思いました。何が違うって、動画が違うんじゃありませんよ。動物をこのようにして暴力的に、食べることだけに育成して食べるというのは間違っていると思うようになりました。
 フォアグラなんてなくたって私たちは生きていけるわけです。だからフォアグラにはノーを突きつけていく。みんなが食べなくなれば、必然、売れなくなるのですから作るのをやめざるをえない。暴力は少なくなります。
 そんなことを言ったら何も食えなくなるじゃないかと、多くの方は言うかもしれません。しかし、そんなことはない。
まず、私たちは穀物だけを食べて生きていくことなんて十分にできるのです。しかし、反対に肉ばかり食べるとなると、それは地球全体で考えても無理だということになります。現在地球には70億という、あまりにも増えすぎてしまった人間が住んでいます。しかし、なんとも地球は偉大なもので、これだけの人間が食べるだけの食料を大地はつくってくれるのです。ところが、これに足して肉をつくるとなると状況がかわります。1キロの肉をつくるのには、10キロの穀物と、水20トンになると言われています。世界中の人々が肉を食べるようになれば、あっという間に地球の資源は枯渇しますから、やはりどう考えても全体的にはどんどん肉から離れて行かなければならないということになるのでしょう。
 まあ、しかしそんな理論的な、あるいは壮大な話はやめましょう。こういう話をすると、どうしてすぐに地球と考えてものごとを考えるんだと人から言われるのですが・・・。私は地球と結びつけて考えないからこんなに乱暴なことを人間はしてきてしまったんでしょうといいたいのですがねえ、まあ喧嘩になるからやめておきます。

 それとは別に、もっとパーソナルな部分で、半径数メートルの話をしましょう。
 もし、心の準備が整った方はフォアグラの動画を見て頂ければより理解が深まるのですが、食用のための家畜というのは、本当に乱暴で暴力的につくられたものなのですね。できるだけ少ない餌で太らせようとするわけですから、運動もさせられなければ、満足な場所も与えられない。効率的でないからですね。
 さて、食用のための家畜を生産している現場では暴力に満ち満ちています。記憶というものが脳以外にも残るということが判明して久しい今日、そんなに乱暴に、暴力的に育てられたものを食べている人間がおかしくならないとはっきりと言い切れるでしょうか。
 現在社会というのは「科学教」という宗教が蔓延している世界です。この世界では、科学的に「正しい」ことが、すべてにおいて「正しい」のであって、仏教的に「正しい」とか、心理的に「正しい」とか、日常的に「正しい」とかいったことは、すべて「非科学的だ」といって軽んじられてしまいます。しかし、私は科学教の皆さんにとっては残念なことに、科学教の信者ではないのです。ですから、科学的に「正しい」と言われたことが、「正しい」ことだとは私は盲目的に信じません。科学的に正しいからといって、それがどうして私にとって正しいことになるのでしょうか。私はそれゆえ、非科学的なことは正しくないことだと軽んじることもありません。私は自分がよく理解できない数字上のことが正しいからといって、それを盲目的に信じるのではなく、より広い視野からものを見たいと考えています。いくら科学的に「正しい」からといって、それが間違っていたということが歴史を振り返ればいくらでもでてくるわけで、経験的にも、日常的にも、心理的にも照らし合わせてみて総合的に「正しい」ものを見出していきたいと思っています。
 科学においては、暴力的に作り出された食品を取り続けることによって出る影響というものを計測することは、仮に出来たとしてもまずこの数十年では無理でしょう。おそらく計測できないと思いますが。
 私はアニミズム的な感覚を持っているし、それが悪いことだとは、ナンセンスなことだとはちっとも思っていません。やはりモノにさえもこころは宿るものだと信じていますし、植物にも当然こころがある、ましてや動物にはもっとこころがあると思います。そうしたこころあるものを乱暴に、暴力的に扱ってできた食べ物を食べて、そして私たちが幸せになるはずがないと思うのです。
 多分影響は出てくると思いますよ。こんな話をいくつかの本で読んだことがあります。ネズミか何かだったかな、ある光を出して、その後に電撃を与えるという条件付けを行ったそうです。そうすると、そのネズミは光を浴びると痛い目にあうのをわかっているから、怯えた行動を取るようになる。そのネズミを殺して、もう一匹のネズミにエサとして与えたところ、条件づけ、光を浴びた後に電撃をくらったことがないネズミでさえ、光を当てたところ怯えるようになったという実験があるそうです。
 これは大変乱暴な実験ですし、またあまりにもよく出来すぎているお話なので、そんなにうまくいくわけはないだろうと思いますが、しかし、記憶が脳以外にもあるということはもう今日では自明の理なのではないでしょうか。骨にも記憶があるそうですし、内臓器官にも何かしらの記憶があるらしいということがわかりはじめています。それだけではない、きっと筋肉からなにからなにまで、おそらく記憶とまでいかなくとも、何かしらのものが残っているでしょう。それを私たちは毎日毎日体内に摂取するのです。
 本当に私たちは口にするものと身に付けるものだけは注意しなければなりません。
 そのような暴力によって生み出された動物たちが、自分の身体にどのような記憶を残しているかわかったものではありません。それを常日頃食べ続けることによって、私はきっと何かしら人間は罰を食らうとおもうのですね。

 ですから、最近ではできるだけ私はそうして暴力によって生み出された食べ物は食べないようにしています。もちろん、できるだけですから、出てきたら食べます。出されてしまったのに食べないということは、さらにその動物に対して失礼だと思うからです。でも、できることならあまり食べたくない。
 しかしベジタリアンというわけではありません。自然の世界を泳いでいてたまたまつかまってしまったお魚は食べさせていただくことにしています。これも養殖のものはあまり食べる気になりませんね。
 ベジタリアンといっても、何もそんなにおどろくものじゃありません。私たちはベジタリアンと聞くと、野菜しか食べてはいけないのかと思いますが、そんなことはなく、要は肉を食べないということだけなのです。ですから、ラーメンだって食べられるし、そば、うどん、パスタ、パン、御飯、いくらだっておいしいものはあります。今まで食べていた肉を減らすだけ。ぜんぜん難しいことじゃありません。別にこれを強要しているわけではありませんよ。ただ、私は最近そういう考えになってきているというのを書いているだけであって、みなさんにそうしなさいなんておこがましいことを言うつもりはありません。
 あとは、あまり科学的なものも口にしたくありませんね。科学的というのは、ひとつは農薬などです。もう一つは遺伝子組み換えという、あまりにも生命に対して乱暴なこと。これだけは私は許せませんね。そうしてもう一つは、自然的でない食べ物です。コンビニにいけばいくらでも売っている、一体なにからつくったのかわからないような食品。
 やはり食べることというのは、生きることの根本になると思うのですね。だから、生きているものを食べるということが、自分の生に直結する。ああ、自分はこうして、動物なり、植物なり、生きているものを食べて生かされているのだなと感じる。だから「いただきます」なのですよね。でも、それが何によって生み出されたかわからない、化学調味料をふんだんにつかったゼリーとかなんとかだと、ちっとも命を頂いている気にならない。ある意味気楽なのです。命を頂いているという罪を背負わなくていいので。しかし、それは一見すると気楽でいいですが、自分が生命を頂いて生かされているという、一番大事なことを忘れてしまうことになるのではないでしょうか。だから、なんで生きているのかわからなくなる。どんどん生命から見放されていくのです。
 きちんと食事をする際には、自分が食べなければ生き続けられたかもしれない生命をいただいているという感覚を持って、それをありがたいことだと感謝しながら、食べなければ失礼だと思います。最近はそういう基本的なことからどんどん遠ざかっているために、自分の生きている意味がわからなくなったりしてきているのではないかと考えたりしていました。

5・3 「特定秘密保護法に反対する学生デモ」に参加して

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写真は毎日新聞社のウェブ記事より。私が左下に映っています。ちょうど水を飲んでいるところですね(笑)

はじめに
 去る5月3日、憲法の日に私は東京・新宿で催された「特定秘密保護法に反対する学生デモ」に参加しました。
 Facebookには、デモ参加からそれほど時間の経たない、まだ感情的にもデモの中にいる時に書いた一文があります。
 「法律のことも政治のこともよくわからないこのちっぽけな僕には何ができるだろうか。僕には何ができるのか、何を していいのかさえもわからない。わからないから、僕はこのデモに参加してみた。何をしたらいいのかわからないからという消極的な理由でしか参加できなかったことを残念に思うが、しかしこれしか僕には僕の考えを主張する方法がない。」
 これが、正直な私の声です。
 冷静にならぬうちに出た言葉ですが、一日時間を置いた今でもこの気持ちになんら変わりはありません。


 今回の記事は、別に難しい法律や憲法のお話をしようというわけではありません。そうした法律や憲法の難しいお話は、専門家が沢山していますし、研究者たちがいろいろ書いてありますからそちらを読んだら良いでしょう。もちろん、そうした勉強をすることも重要なのですが、私はそれとは別の次元で、私が主張できることをしていかなければならないと思います。

 このデモの内容については、毎日新聞社がウェブ上に記事として掲載していますから、そちらを参照してください。
憲法12条は警告する 「権利守るため努力必要」学生ら400人デモ
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014050402000112.html


まずは感想から
 Facebookに投稿した文章の通り、私は法律についても憲法についても、政治などまったく知らない平凡な一市民です。ですから、これまで国が政府がどんどん、私の、私たちのやってほしくないことをやっていくのをただ指をくわえてみていることしかできませんでした。
 せいぜいTwitterで自分の考えをちょっとつぶやいてみたり、そうした内容のツイートをリツイートしてみたりするのが関の山です。やはりTwitterには友人もいますから、そうした人に政治的意見を見られるのが、なんとはなしに歯がゆいというか、にが苦しい思いがどこかにある。日本人は政治の話を日常でできないとは、よく言われることですが、これだけ政治的な局面にきているときに、やはりそれは文化だからとか言っている場合ではなくて、何度も議論していかなければならないのだということにようやく気が付きました。
 私も未だに友人に向かってそういう議論をふきかけようなどとは思いませんし、そうした発言をするために、すこしくうるさがられてはいます。ですが、それでもいい。仕方ないと、踏み切れるようになりました。
 こんな臆病な私ですから、これまでにこうした実行を伴う行為は何も行ってきませんでした。ですから、今回のデモは私にとって人生初のデモでもあったわけです。

 一番最初に感じたことは、何よりもまず「デモって楽しい!」ということでした。
 近現代の文学が専門なので、村上春樹の本などを読んでいると、60年代70年代の学生運動の描写などがあり、一通りそうした知識は得ています。ですから、デモなんていうと、催涙ガスとか、警官隊とのぶつかりあいとか、そういう大変な、とても「楽しい」とはかけ離れた場所でおこなわれている、非日常だと思っていたのです。
 ところが、今回参加してみて、そのような勝手な思い込みから解放されました。そこには、時代的な違いというものがあると思います。ただ、それを論じる前に、ただ単に今どきのデモというのはとても楽しいものなんだ、この感覚を少しでも多くの人に知ってもらい、そして一度デモに参加してもらいたいと、心から思います。

時代的差異
 今回のデモは、60年代70年代の学生運動を間接的に知る私にとっては、かなり異色でした。反原発のデモが行われた時、ひたすらそのデモの仕方が報道されていたのを思い出しました。いまどきのデモは、正当なことを正当な手段で主張するだけ、極めて穏当で、実に正統的、まったく何一つも悪いことをしないというつつましやかさ。私はここに共感を得ます。かつての学生運動には、敵がフェアでないことをしているのだから、こちらもフェアでなくてもいいじゃないかという論理があったと思います。しかし、いまどきのデモはそうではない。相手がフェアでないことをしているのにもかかわらず、こちらはせめてフェアでやりましょうという、こういう実に大人なデモなのですね。そうして考えると、フェアでないかなり暴力的な法律を通すまでのやり方や、既成事実をつくっていこうとする政府のやり方は、実に幼稚で、子供子供しい行為のように思われてきます。
 今回のデモは、学生デモということで、一応若者が中心となるデモでした。しかし、きちんと説明もされましたが、大人も参加可能。けっして学生デモだからといって学生だけと排他的になるのではない。ただ、今回は学生が主役なので、大人の方も参加していただいてよろしいのですが、大人の方は後ろの方でお願いしますというやり方なのです。
 そしてデモ行進のやりかたも実にユニーク。まあ、今から約130年前に幕府ができるとかなんとか騒いでいた時には、自由民権運動だとかなんだとかで、お囃子や演劇を使ってデモのようなことをしていたわけですから、回帰しているといえばそうなのです。今回のデモはいまどきらしい、なんとラップに乗りながら「特定、秘密、保護法、反対」「民主主義ってなんだ、なんだ」とこういうノリだったわけですね。
 ですから、憎しみ敵意むき出しで大声でどなり散らすというようなやり方ではない。実に「ゆとり」的ですね。主催者の1人も皮肉ですが言っていました。「僕たちはゆとりと馬鹿にされているけれども、ゆとりがあるおかげでデモができました」って。おもしろいことを言うものです。私達には精神的にも「ゆとり」があります。大人たちは馬鹿にしますけれどもね。それに対してなにくそと目には目をせず、受け流しているこの「ゆとり」さ、「よゆう」さ。誇らしく思います。
 私たちのデモは怒りに任せたものではなく、音楽にあわせながら、ノリながらのデモ。主催者の人は、これはデモではなくて、イベントだと言っていたのは、言い当て妙だと思いました。

今後の課題
 私たちが何をしなければならないかということについて、私はこう思います。つまり雰囲気づくりなんだということです。
 これは敵、すなわち政府や政府の息のかかったメディアが用いた手法ですが、今度は逆にそれを利用してやりましょう。私たちはなんだか、憲法を改憲するのが当たり前、そうしなければ中国が今にも攻めてきそうだ、そのためには特定秘密保護法を通さなくてはいけない。それから経済発展のためには、原発も再稼働しなければならない、そうでなければとんでもないことが起こる。このように少しずつ少しずつ洗脳されてきています。そうしなければならないと思わせるような雰囲気をつくっているのですね。
 ですから、これからは反対に、実はそれは作り出された幻想で、そうした雰囲気を打破すると同時に、国民が主権であるということや、一政党が勝手に憲法を変えたり、多くの国民がやめてほしいと思っていることをやる権利なんてものはないんだという雰囲気をつくっていかなければならないと思います。
 そうした雰囲気づくりが成功すれば、かならず今の政府は方向をかえざるをえませんし、次の選挙のときに彼らを当選させないようにさせればいいのです。まずは、多くの、選挙に行っていない人達の興味関心を惹き、私たちからしあわせを奪う政権を取らせないという雰囲気を広めることが重要です。

 そして、私から多くのブログの仲間たちに伝えたいことは、そうした雰囲気を広めるのを手伝ってくださいということです。私はできるだけブログの仲間たちのもとを訪問するようにしています。私が訪問するのは、偉そうでなんなんですが、とてもすばらしいと思っているブログばかりです。数行の日記とか、そういうくだらないところには訪問していません。
 私が訪問するブログの皆さんは、実に聡明な方が多く私も毎日勉強の連続です。そして、そのようなよい記事をかける、そもそもものを書ける人というのは、それなりに中身があり、頭も良い人達です。ブロガーの人というのは、基本的に他の人と比べれば頭が良くて、意見も持った人が多いように感じられます。ですから、そうしたブロガーの方には、この問題を実に詳しく考えたり、論じたりしている人もいます。そうした仲間たちとともに、どんどんこうした知識の共有や、危機感だったり、感覚の共有をしていかなければならないと思います。
 私たちがそうした記事を書き続け、ひろめていくことによって、普段ブログをかかないような人達にすこしでも興味、関心を持ってもらうように、危機感を強めていってもらえるようにしていかなければならないと思います。
 私が今回デモに行って感じ、考えたことはこのようなことです。

「はだしのゲン」をめぐる表現規制についての一考察

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 「はだしのゲン」をめぐって様々な問題がありました。ある授業でその問題についてリポート課題が課されましたので、その際に作成したものを多少わかりやすくして、掲載します。

1発端・経過
 発端は2012年ある市民から松江市教育委員会に寄せられた陳情だった。「市教委化暗部らは、旧日本軍の洗浄での行為にかかわる描写について問題視。同12月と今年1月、小中学校の各校長に閉架措置を求めた。」 8月、閉架措置が朝日新聞・朝刊で大きく報道された。その後、表現の自由を擁護する立場や、思想の抑圧、検閲になってはいないかという論が新聞やインターネット上で盛んに叫ばれた。それに呼応するかのように市教委はわずか十日で制限の要請に「手続きの不備があ」ったとして閲覧制限を撤回した。これで一件落着したと思われたこの問題であるが、問題が騒がれていたころから図書館司書の問題についての言及があり、また下火となった現在においては産経新聞が内容不適切として閉架措置を再び強く主張している。その結果、歴史認識をめぐる問題や左か右かというイデオロギー間の対立問題にも発展しつつある。(429字)

2私の意見
 結論から述べると、私は「はだしのゲン」に閲覧制限を設けてはならないと考えている。読売、朝日新聞等は問題を慎重に扱いつつ、内容の激しさ、また不適切さを認めつつも全体としてはそうした歴史観の排除をすべきではないとして、検閲に反対している。日本経済新聞社は前二社より、検閲であるとして自由に読ませるべきだと論を強めている。それに対して、産経新聞であるが、もはや開架にすべきか閉架にすべきかという論を超えて問題となった10巻の表現を指摘しつつ「三光作戦」はなかった 、「日教組の反日的なイデオロギーがふんだんに盛り込まれ、日教組の教師によって学校に持ち込まれた」 テキストだとして、10月11月にかけて極めて強い語調で「はだしのゲン」そのものが教育現場にあってはならないとしている。
 経過の部分に記したが、この問題は開架にすべきか閉架にすべきかという問題から大きく逸れて、今やそれぞれの社の右か左かというイデオロギーの対決になってしまっている。特に産経新聞は最も右翼的で、自分達の考えにそぐわない考えを排除しようという気概のようなものまで漂わせている。
 ポストモダン、多様性の重要視される現代においてはそのような考えはどうだろうか。もちろんそのような考えもあってしかるべきであるが、排除しようという暴力的な言動は良くない。この問題は本質的に左か右かという論にすり替えられる危険性があるため慎重に取り扱わなければならない。
 私は「表現の自由」とともにそれを知る権利を侵してはならないという基本的な人権に則って、開架にすべきであると考える。だが確かに描写は刺激的であり、小学生に適切だとは言い切れない。そのため、これを教材として生徒に強制的に読ませるのではなく、読む準備のできた生徒が自分の力で読むようにすべきだと考える。(748字)

 最近は、めっきりテレビも新聞も目を通さなくなってしまいました。いけないことだなと思いながらも、文学や映画などの作品にあたりっぱなしで、現実の問題に対して目を向けていなかったなという反省はあります。今回は、情報のリテラシーを教える授業を受けていたということもあり、様々な新聞の比較なども初めて本格的にやってみました。
 そこで驚いたのが、今迄新聞はもう少しまともで、中立的な報道をしているだろうと思っていたのですが、そんなことはない。これが情報を伝える人間の仕事かと目を疑うような酷い記事が多々みられ、私は本当にびっくりしてしまいました。読売新聞や朝日新聞はまだ比較的良い方です。しかし、これらの社の記事のなかには、ごくわずかですが、右や左といった思想が感じられなくはない。
 特に「はだしのゲン」の問題は、単にグロテスクや性的な表現という表現問題を通り越して、戦争をどうとらえるのかという歴史観の問題までを内包した、複雑で大きな問題です。これが単に性描写やグロテスクさの問題だけであれば、話しも簡単だったのですが、戦争が絡むと、どうしてもややこしくなる。
 とくに酷かったのが、産経新聞。もう、これはとても記事とは言えません。まるで小学生が書いたような内容です。問題の核心はこの図書をどうあつかうかという点に関して、閉架にするか開架にするか、その参考になるのが表現の規制、知る権利の侵害になっていないかということだと私は思います。他の多くの社の新聞や記事でもそのように捉えられているのが多いです。が、産経新聞は、書かれている内容がすでに誤りだとして、論点をずらしたうえで、単なる誹謗中傷をしているのです。歴史の問題については難しいですが、産経新聞は「三光作戦」などなかったと論断しています。
 私は歴史についてはまったく門外漢なのですが、本当にそんなに簡単に「三光作戦」はなかったと言い切れるのでしょうか。
 私には、大の大人が顔を真っ赤にして、怒り狂って主張しているだけに見えますが、本当のところを見極めていくためには、常に冷静で、もしかしたら自分が間違っているかもしれないという反省の心を大事にして見つめて行くことが大切だと思います。 




引用資料
「閉架」で萎縮する恐れ 学校図書館「はだしのゲン」問題の本質 .2013-09-04,朝刊,文化1面,聞蔵Ⅱビジュアル,http://database.asahi.com/library2/main/start.php.(参照2013-11-26)
【解答乱麻】元高校校長・一止羊大 問題の核心に蓋をするな,2013-11-16日,東京朝刊 オピニオン面,産経新聞ニュース,http://webs.sankei.co.jp/search/page.do?mode=2&paperNo=1&publishDate=20131116&newsId=201311161000049d4d&keyword=%82%CD%82%BE%82%B5%82%CC%83%51%83%93, (参照2013-11-26)
検証「はだしのゲン」閲覧制限問題 「閉架措置は当然だ」「語り継ぐべき作品」,2013-09-24,東京朝刊,社会面, 産経新聞ニュース,http://webs.sankei.co.jp/search/page.do?mode=2&paperNo=1&publishDate=20130924&newsId=20130924100001e72c&keyword=%82%CD%82%BE%82%B5%82%CC%83%51%83%93, (参照2013-11-26)

大2病という言葉と戦う 

5808e84f96f7527c0a6e-1024 (1)
画像の引用はhttp://jiniusxjinius.seesaa.net/article/324336262.htmlさんから。

はじめに
 一時期Twitterで拡散された記事で、甚だ不快に感じた記事がありました。今回は、どうしてその記事が不快に感じたのか、自分の心と対話しつつ、論じてみたいと思います。
 最近特に感じるのは、ネットという匿名の空間のなかで非常に攻撃性が増していることです。だからネットはいけないと断罪しようなどとは思っていません。私は私なりのメディアリテラシーを有していますから、ネットが全て悪いなどと言う人はネットを使用していない人ぐらいだろうと思います。ネットは現に多くの人々に多大な利益も与えましたし、また、現在ネットという仮想空間のみが自分の居場所となっている心の弱い人もいるのです。そうした人たちからネットを奪うということはできません。
 今回問題にしたいのは、「大2病」という言葉。ならびにその背後に見え隠れする現代の攻撃性と、この記事の筆者の有するジェンダー規制です。ひとつひとつ丁寧に見て行きましょう。

大2病というレッテル
 大二病の女子にありがちなこと・7選
http://howcollect.jp/article/4120
 私が問題にしたいのはこの記事。この記事のリンクを掲載したツイートが最近よく見かけるようになりました。
 大2病という言葉をしらない方のために、少し説明しておきましょう。もちろんこんな言葉を知らない方が、いいと私は思っています。この言葉は新たな差別語ですから、この言葉を知ることによって、新しい差別の考えがその人の体の中に入ってきてしまうわけですから、知らないに越したことはありません。
 中二病という言葉はご存知の方も多いと思います。知らない方もいるかもしれませんが。中二病というのは、中学二年生時に多くの学生がかかる傾向といえばいいようなものを総称してこう述べたものです。中学二年生、14歳となると、新たな自我の目覚めが生じ、様々な人格が試行錯誤のうちで形成されます。この際に、自己の認識が過大になると起きることを中二病といっているのです。例えば、自分はどこかの国の王族だといった古典的でかわいいものから、自分は何かの能力を有している、いずれそれが開眼するといった妄想などが挙げられます。こうした妄想癖を持つことが中二病の代表的なものとして現在では認識されているようです。他にも、自分が特別だと思うことはこうした妄想にいかなくてもあることですし、別にそれほど特別なことではありません。数年間をかけて、自分はそんなに特別じゃなかったと段々通常の状態に戻っていきます。中学二年という最も変化の著しい時期の変化を指して、中二病と名付けたのが、ことの発端です。
 この中二病という言葉が市民権を獲得するようになると、この23年で新たに高2病、大2病といった言葉も生み出されました。中二病という言葉に便乗して作り出されたものです。それぞれ、高校2年生、大学2年生あたりで、見られる傾向を羅列的にあらわしてそれらに「高2病」「大2病」というレッテルを貼ったのです。
 高2病にもいろいろありますが、今回は大2病を主にテーマにしていきます。
 大2病と言われるもののなかには、なるほど、大学生ならしそうだなと思われるものが多々あります。

http://matome.naver.jp/odai/2134001017267391301
このサイトからいくつか引っ張ってきましょう。

講義さぼっちゃった自慢
突然カプチーノを飲み出す
美術館にやたら行きたがる。実際行ったら五分で飽きる
急にギャンブルを始める
タバコとか吸ってみちゃう
日本酒とか飲んでみちゃう


 どうでしょうか。筆者は大学生まっさかりなので、まあよく当てはまること。しかし、それぞれをひとつずつじっくりと読み説いていけば、果たしてこれが大2病と呼べるのかという疑問が生じるでしょう。
 私が一番問題にしたいのは、大2病という言葉のなかに、蔑みや嘲りの意識が垣間見れることです。私が今回この記事を書いたのは、そうした不当な蔑みや嘲りから自分達を守ることと、そうした攻撃をしている人に対して警鐘を鳴らすためです。
 確かに、こうした大2病のなかには、同世代の人間であっても、「この人イタイな」と思ってしまうようなことがあります。講義をさぼったことや、何日徹夜したとか、忙しいことなどをアピールしてくる人は見ているこちらが恥ずかしい。日本にはそうした見ているこちら側が恥ずかしくなるようなことを、「片腹痛し」という言葉で表現します。こうした古語が存在していることからも、日本人は相手の恥ずかしさというものを敏感に取ることができる文化を持っていることがわかります。
 確かに講義はさぼるでしょう。美術館にも行くし、喫茶店にも行く。お昼はちょっとおしゃれにパスタを食べる。ギャンブルをする。煙草を吸い始めるし、お酒も飲む。しかし、これらのどこが、果たして蔑視の対象になるのでしょうか。

垣間見られる攻撃性
 「中二病」「高二病」「大二病」といった言葉を盾にこれらを攻撃するのは、極めて卑怯なことだと言わなければなりません。なぜなら、それはこの言葉が示しているように、これら蔑視の対象となるものは、すべて病気なんだという前提から始まっているからです。
 しかも、現在我々日本が病気という言葉に対して抱くイメージは西洋的な医学の概念が強く、病気は悪いもの、無い方がいいもの、直すべきものという考えに繋がっていると思われます。これが東洋的な概念だと、病気はどこかバランスが崩れたしるしで、できれば直したほうがいいものであるけれど、それと共に生きていくという考えもないわけではないということになります。
 この言葉を使っている人間は、無意識かもしれませんが、これらを軽蔑しています。すべてのことに、美術館なんかにいって「馬鹿じゃないの」、お酒なんか飲んだりして「馬鹿じゃないの」といったように、嘲笑している感じが伝わってきます。
 人のことを馬鹿にすること自体も問題です。まず何かを馬鹿にした時には、なぜ自分はそのことを馬鹿にしたのだろうという自分の気持ちをよく見つめる必要があります。そういうように自分のこころを見つめられる人は次第に人の事を馬鹿にしなくなるはずです。馬鹿にする行為は確かに気持ちがいい。なぜなら、優越感に浸れるからです。こいつらを馬鹿にしているという行為のなかには、馬鹿にできるから立場が上だと感じられるものがあるのです。だから、小学生は、中二病をおそらく馬鹿にしませんし、高校生も大二病を馬鹿にしないでしょう。小学生にとっては中学生が上に思われるし、高校生にとっては大学生は上に思われるからです。
 百歩譲って人を馬鹿にするところまでは、なんとか許しましょう。本当はいけませんが。しかし、その上で考えるとさらに卑怯なことが判明します。人を馬鹿にする、あるいは攻撃する場合、それをする側の人間がきちんと自分の行為に責任を持っているのならば、まだ公平性があります。自分はこれこれこういう考えを持っている、その結果こういうことが言える、だからこれは間違いだ。こういう攻撃の仕方ならば、まだ許しようがある。きちんと自分がどういう立場から、ものを言っているのかもわかります。しかし、「中二病~」につづく言葉には、攻撃する側には絶対危険が及ばないような仕組みができているのです。
 これは現代のいじめにもつながる問題でもあると私は思っていますが、いままでのいじめというのは、まだ目に見えるものだったのです。ガキ大将や、意地悪っ子がいじわるをしたり、なぐったり。確かにこれも大きな問題ですが、しかしまだ目に見えるだけわかりやすいものだった。しかし、近年ではそれがどんどん陰湿になって、目に見えないものになった。ずるがしこくなったもので、決して担任の先生にはばれないようにやるのです。
 この「中二病~」に類する言葉もそれと同じです。ここにはあきらかにこの言葉を使用する側の嘲笑や、攻撃があるのにもかかわらず、その攻撃している側は絶対的に安全な立場から一方的に攻撃しているという構図が浮かび上がります。「~病」という言葉を使用することによって、「こんなことやっているお前たちばーか」という言葉を、「こんなことをやるのはその年代特有の悪いことだ!直さなければいけない」という正義にすり替えているのです。そこには、「病」という言葉が持つイメージを悪用していることがうかがえます。
 あるものを攻撃する場合、「これは駄目だ」と言えば、なぜ駄目なのか説明しなければいけなくなりますし、ダメだと言った側には責任が付きまといます。しかし、「これは病気だ」と言えば、なぜ病気なのかとなかなか咄嗟に考える人はいません。そうか病気なのか、じゃあ直さなければならないことなんだなと思うのがおちなのです。
 「~病」という言葉を使用して攻撃する人間は、自分が絶対に傷つかないようにしたうえで攻撃しているという、人間として極めて卑怯な行為をしているということをよくよく考えるべきでしょう。

ジェンダー規制
 この記事からいくつか例をとってみましょう。
 「今までの飲まなかったスターバックスが大好きになります。講義中も机の上に置いたり、新作を出るたびTwitterでトイカメラ風の加工を施した写真をつけてレビューを書いたりします。
 もちろん勉強もカフェで行います。実際は狭いテーブルでやるより、ファミレスでやったほうが捗りますが、勉強という何気ないこともオシャレカフェでやっちゃう自分ってステキ女子、と思っています。また、裏メニューや自己流トッピング自慢も通ぶりたい気持ちの表れ。ぱっつんボブ森ガール系に多いタイプです。」
 今まで高校生までの環境で、果たしてスターバックスのコーヒーを飲んでいた学生がいたでしょうか。日本の高校までの学校現場は非常に閉塞された空間で、かなり軍隊的な面があります。学校からは出ていけませんし、そのようななかでスターバックスを買う人間はいません。できることをして、何が悪いのでしょうか。確かに、トイカメラ風の写真をとってTwitterにアップロードする人もいます。しかし、なかにはかなり上手い写真もあり、一概に馬鹿にできるものではありません。

 「いかがでしたでしょうか?大二病は、素敵なキャンパスライフを送る上で大事な要素です。しかし、モテる女性でいるためには、サブカルに手を出してはいけません。スイーツを好きになってください。それができないから困っているんだろと言われてしまっては、仕方がないのですが。(白武ときお/ハウコレ)」

 この記事の最後にはこのような文言があります。同じネット上で表現をする人間として、よくもまあこのような記事が書けるものだと個人的には思っています。
 引用元のサイトはいずれも「モテる女子」を育成するという一貫したテーマをもって記事にしているように見られますが、しかし何よりも問題なのは、この記事の筆者、白武ときを氏が古典的な家父長制度の香りを残した思想を引きずっていることです。
 同サイトのライター紹介では、最後に
http://howcollect.jp/user/index/id/2936
「みんなが知りたいアレコレを、男性目線でご紹介していきたいと思っております。」
 という言葉が明記されています。この男性目線というのは、古典的家父長制度の視点と書き直した方がいいでしょう。この「男性にモテるという」言葉を使用して、あたかも女性の得になりそうな記事を書いていながら、その内実は男性の理想像を押し付けているだけという点が問題です。というのは、「サブカルに手を出してはいけません」といった行為を禁止することからも、強く伺えます。
 私の個人的な男性目線で言えば、私が女性を好きになることに関して、別にサブカルをしていようがしていまいが、特に問題はありません。あまりホモやBLといったものをしている人に近寄りたくないという気持ちはありますが、サブカル程度であれば、むしろ何かに夢中になっているということはとてもいいことだと思います。

 今回私がこの風潮に対して怒りの記事を書いたのは、ほかでもなく、この記事によって傷ついた女性が私の友人にいたからです。彼女はこの記事を読んで、これに当てはまっていない自分のことを考え、悩んでいました。だから、私はこのような家父長制度のおしつけを今でもする人間によって傷つけられるのはおかしい、不当であると思ったわけです。
 世の中には、まだまだこうした記事を読んで素直に受け取ってしまう人が沢山います。私の周りの、大学で高等な学問を受けている人間でさえ、こうした記事を真に受けてしまう人もいるのです。メディアに対するリテラシーがまだ発達段階にある多くの学生などにとっては、ネットの情報は予想以上に存在感を増すものです。ネットに書いてあったからという理由は彼等にとってはかなり大きなものなのです。
 私はこうしたジェンダー規制を蓑にまとい、さらにそれを「病気」という正義を盾にして言葉を発しているこの記事と、この筆者に対して非常に不快感を抱きました。この記事が「~病」というレッテルをはられ、苦しんでいる人のわずかな救いになればと思い、書き記します。
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