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本を読むことについて/人格形成/幸せとは別の尺度で


ふとこんなことを考えた。
まえまえからぼんやりと小さな小見出しで折に触れ考えていたことがらではあったが、私は結論ありきで、あるいは頭の中で答えをだしてから論理展開をできる人間ではなく、こうやって書いていくなかで、話していくなかでなければ論理展開ができない人間であるから、いっそのことぐじぐじ考えてないで考えながら文章にしてみようかと思ったところである。

本を読むことについて考える。
以前にも本を読むとはどういうことか、言葉の力を獲得するとはどういうことか、またそれをしないとどうなるのか、といったことを考え、ある程度答えはでていたのであるが。しかし、ここにきて、すこし考えが変わったというか、いろいろ思うことがあった。
というのも、私は一部上場企業の海外駐在員の息子に生まれた。まことに残念なことではあるが、この世界のなかでもっとも社会主義国として成功している我が国日本においても、格差というものはどうしようもなく俄然としてある、これは認めなければならないというか、これを格差といわずしてなんというのか、というところである。そんな生い立ちであり、私は幸運なのか不幸なのか、年間百万学費がかかる私立の中高を六年間通い、大学も奨学金を借りることなく出た、金銭的には何不自由ないこれまでの人生だった。
そしてさらにこわいことは、それぞれの階層というは、よほどの才能や運、めぐりあわせがないかぎりなかなか変動したりしないということである。残念なことではあるが、我が、中の上流とでもいうべきプチ上流階層は、その階層でずっとかたまっているのである。
地域のどんな家庭の子でも来るという公立の小学校時代を除き、私は社会に出るまでの、人格形成の大半がなされる思春期の時期を同じ階層の人間たちと共に暮らしてきてしまった。だから私の知識や価値観には相当それが色濃く、根強く出ているといっていい。
小学生といっても、地域によってもばらばらだ。もちろん多様でバランスよくちらばっているとはいえ、しかし、場所によってそれぞれ「風土」とでもいうべきものがある。私はわりとよい場所で小学生も過ごしてしまった。
そして私立の中高では、もちろんみんな年間百万の学費を払える親たちの子供であるから、中の上流階級のこどもたちである。そしてそういう私立に通う人間というのは、99パーセント(学年に2,3人くらいドロップアウトしていくのもいるが)大学へそのまま進学する。
だが、私はその後教師となってあまり頭のよくない子たちの通う学校に教えにいったことで実感したことであるが、大学全入時代(大学の募集人数のほうが大学進学希望者より多いという意で)の現代でさえも、大学に行くのが、全体の半分くらいしかいないということである。
私は半分の大学にいくのが当たり前の世界にいた人間なので、まったくそれとは反対の世界の感覚がわからないのだが、私が大学に行くのは当たり前という感覚と同時に、日本の半数の人間は、大学に行かないのが当たり前、の世界に生きているということなのだ。
そして、さらに大学に通っていても、そのなかで学費を親がすべて出してくれるのは、半数。残りの半数は奨学金を大学なり、それぞれの団体に借りて学生生活を送るということだ。私はこれもおどろいた。

さて、話しが脱線したので戻そう。本を読むことについてだ。
私は今話したような中上流の、大学に通うのは当たり前の世界で生きて来た。あまつさえ教員なんてことも二年ばかりやってしまったし(そのことについては大変後悔しているし、多大な迷惑を私にかかわった生徒などにかけ反省しているが、もうそのことは赦してもらいたい、私はその過去を忘れたい)、あまつさえ私は本を読む専門の学部である文学部国文学科に在籍していた。
そこでは「本を読むのが当たり前」の世界なのだ。
そこにいる限り本を読まないのが当たり前の住人と出会うことはない。
しかし、私が赴任した学校や、あるいは今の職場(大卒者は1,2割くらいしかいない)というなかで、本をよむのが習慣、年に数冊は(数冊さえも)読むという人間が、実は極めて少数であるということを感覚として実感してしまったのである。
ここで、頑固で教条主義的な私はこう思うのだ。「本は読むべきだ」「本はよまなければならない」。定言命法である。
だが、本を読む文化、習慣というのは簡単に身につくものではない。少なくとも大学にいくくらいの学力がなければならない。大学に通えるレベルの学力を身に着けるためには、まず親が勉学に対して投資をするという価値観をもっていないといけないし、それを実行できるだけの環境、財力がなければならない。これがそろわないと、自然と身に着けるのは極めてむづかしい。
さらに、本をその後も読み続けていくには、極めて強い忍耐力が必要である。最近は漫画さえもよまない、ということがいわれているが、少し前までは最近の若者は本も読まないであったし、本離れはどんどん加速していっている。もちろんだから短絡的にだめだと簡単にいえるわけではない。インターネットやスマホの普及によって、雑多な知識がいままで人類が経験したことのないほどの膨大な勢いで押し寄せてくるなかで、変かしつづける「今」において、本など、一瞬で過去の遺物となってしまうメディアにじっくり立ち会っていては「今」から送れるわけで、生きていくことができなくなるからだ。若者を代表に、本や漫画といったメディアに割く時間、労力を分散して、膨大な情報の海のなかをすいすいと泳いでいく力を身に着けたというべきなのかもしれない。

結論としては、頑迷な私は、そう育ってしまったからということもあるが、それでも本を読まなければいけないと思う。他人にもその自分の価値観を押し付けたい願望はでてきてしまうが、多様化した現代においてはそれは無理というものだろう。
本を読んで知識を深めるのは「いい」ものとされた。過去の話かもしれない。私は今も信じたい、と思っているが。
しかし、では実際に、(おそらく現実的には私の読書量はさまざまな本を合わせ一千冊レベルだと思われる、その程度の読書量だ)ある程度読書量をつんだ、平均値からしたらかなり高い水準の読書量をもつ私であるが、だからどうなのか、というところが問題になってくる。
「本を読んだ方が人生が豊かになって幸せになれる」
そう簡単に言えた時代がうらやましい。
与沢翼が幸せかどうかはわからないが、いくら学者ほどの人間があれだけの勉強を、本を読んだとしても、彼ほどお金を稼ぐことはできない。
そしてマイルドヤンキーに代表されるように、おそらく彼らは年間に一冊読めば本を読んだということになるレベルだと思うが、彼らは本を読まなくても幸せそうにリアルが充実している。一方本を読んだからといってリア充になれるかというとそうでもないし、むしろ往々にして本を読んでいる人間のほうが不幸せな感じがするし、私のようにあまり読みすぎると精神的に不安定になってくる場合がある。
こういう本は掛け値なしに良いものだ、といった価値観はもはや完全に崩れ去り、というかもはやだれにも振り向かれもせず、しかも実際に本を読んでいる、その思想を体現している人たちを見るとどうもお金もうけなど実益にも通じないし、充足感や満足感、幸福感がひとよりも高いともいえなさそうだという現実が目の前に立ちはだかってしまうのである。
本は読んだ方がいいんだ、読まない人間はなんにもわかってなくてバカでかわいそうな存在なんだ。と僕は自分をなぐさめるためにいうが、しかし、そういうことをいっている目の前で、本をまったく読まない人間たちが(僕が価値が思う、すなわちうらやましいと思う)彼氏、彼女がいたり、家庭を気づいていたり、車を持っていたり、家をもっていたり、社会的に地位があったりするわけである。
では本を読むと人格が陶冶され、すばらしい人間になれるかというと、やはりそれも多少は影響はあるにせよ、別の要因でもなりえるし、本人の生まれ持った資質もあるし、すべてを読書という行為に直結させるには無理があるように思われる。
そのようななかで、本を読んだからどうなのだ、ということが本読みの私に課題として提示されてしまったのである。

本を読むと、他の動物にはめったに見ることができない言語という、記号を他人よりもよりきめ細やかにあやつることができるようになる。これは間違いないだろう。そうすると、例えばすべてのものはグラデーションなのであるが、それが赤、青、緑、といったレベルではなくて、もっともっと細かく分類できるように、いろいろな感情やものごとなどを「より」精密に分析して理解できるようになる。ようは彩度があがるのだ。世の中や、自分のこころや他人の感情などがよりクリアーに見えるようになる。

効能としてはそんなところだ。だがそれは「事実」であり、それがどのような「価値」を持つかは人による。私の場合は自分のこころを細分化しすぎて深淵までのぞいていった結果、深淵にものぞき込まれたのか、精神的に不安定になり、心身ともにバランスを崩して、うつということになってしまった。スーパーフライの『愛をこめて花束を』という歌のなかに「遠くに見えるからきれいなの」といった内容の歌詞があったと思うが、遠くでぼけてみえていればいいものが、はっきりとみえるようになってしまった結果、あいまいでよかったものがそれでは立ち行かなくなって、白か黒か、ということになってしまう場面も出てくることだろう。あまりにも鮮明すぎるためにめまいがするように、あまりにもいろいろなものがはっきり、くっきり見えてしまうと、観たくもないもの、みえなくてもいいものまで見えてしまい、いままでは気にも留めなかったそれらに心割かれるようになる。簡単に言えばストレスになるのだ。
そのようななかでも「超人」のような精神力の持ち主だけが、現実と空想のはざまで芸術をあやつったりすることができるのであり、その芸術家たちも多くは人間としては崩壊している。

読書がなんの役に立つのかと言えば、さまざまなものが細分化されるということだろう。
その結果マイナスな側面もでてくるし、プラスな側面もでてくる。それは人によりけりである。成功例としては、ことばを操った小説家や詩人など、言葉によってほかのひとのなかにあった漠然としたものに論理という光を当てていくことによって共感を引き起こし、それは救済=カタルシスになる。詩集や小説、あるいは演劇などによってこころ救われた、時として人生を救われた、という人がでてくるのはこの効能のよい部分である。
そのよい部分だけを見れば、読書は人を幸せにするということがいえるのであるが、今見て来たように、悲観主義の私から見たら、自らが被ったということもあり、読書による弊害なども覚えておく必要があり、読書が手放しで「よい」ものと言うことはできず、読書はただ単に行為であり、それに付随する結果、価値観などはそれぞれ、時と場合によって異なるということになる。

読書はそれ単体では人を幸せにすることはできないのである。
だが、そのなかでもなお、まだ読書はすばらしいものである、ボケーっとした感じでいきるよりかは、より彩度が高いほうがいい、と思う私にとっては、読書をすれば幸せになるといった、幸福でものをはかる尺度ではない、別の価値体系において読書の意義を再定義しなければならない。

今回私がお話できるのは、読書を幸福とは別の価値において語る必要があるのではないか、という提言くらいである。ながったらしくいろいろと述べて来たが結論としてはこんなものだ。
読書マスターの現代における実像は、たとえば朝まで生テレビに出てきて議論を戦わせることができる文化人たちのような存在であろう。私もあのくらい高度な議論を戦わせることができるようになりたい、と個人的には思うが、しかし、あの番組を見ていても、あそこに出ているパネリストたちがしあわせそうにはとても思えない。
読書なんて実はそんなものなのである。言葉もまた、他の動物にはないからという理由で人間を別格に、特別視するのとどうように特別扱いされるが、それもまたツールの一つにすぎず、それがすべてであるというようなことではない。
それでも私は本は読まないよりかは読んだほうがいいし、最終的なゴールはないけれども、一冊よりは二冊、二冊よりは三冊読んだほうがいいと信じている。
本を読んだからといって幸せになれるわけではないけれども、いつか本を読んでいる自分も、これでよかったと思えるような、そんな瞬間が訪れることを願って、本を読み続けたい。

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