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生徒に語ったこと

物語りの意味
現実をそのまま把握することは難しい。人間は何かしら自分の物語をつくりあげて(例えば私はこのような生い立ちだからこのような性格で、このようにものごとを考えて)生きている。
物語りがないと人々は不安になる。物語を語れることは自分を客観視すること。震災の時など、カウンセラーや臨床心理士が最初におこなったことは、患者に自分の体験を語らせることであった。語らせることによって、自分がどのような経験をしたのかを客観視する。最初「私は」だったのが、次第に三人称的な物語りの語り方になってくる。それが癒しであり、治療である。

言葉の力
なぜ国語を勉強しなければいけないのか。私も国語、五十音を覚えるのも漢字を覚えるのも、文章を書くのも苦手だった。しかし、訓練をすればできるようになる。
言葉というのはお金と同じようなもので、所詮はツール、道具でしかない。それをたかが道具だとないがしろにすることも当人の自由である。しかしそのかわりその自由によって生じる結果については責任を持たなければならない(例えばうまくコミュニケーションをとれないとか、貧困のうちに暮らすとか)。
あきらめが肝心というけれども、あきらめとは現状を理解し、うけいれていく力。実際問題言葉をなんと思おうが、好むと好まざるとに限らず私たちは言葉、ロゴスの中でいきていかなければならないのだ。それを嫌おうが、それを嫌うということさえも、言葉で考え嫌っているのだ。どうしたってついてまわるものなのだとしたら、うまくつきあっていったほうがよくはないか。すくなくとも生きるのが楽になるのではないか、と私は思う。
他人とうまくコミュニケーションが取れずに暴力や犯罪などに走ってしまい少年院にはいっている子たちは、とにかく言葉が不自由だという。国語学という学問のなかにはその人がどれだけの単語を知っているかなどを計測したりする分野があるが、そういうものに照らし合わせてみると、少年院の子どもたちは平均よりかなり少ない言葉しかしらないのだ。
言葉をしらないとどうなるのか。人間の感情は複雑である。けれどもその複雑な感情が、「キモイ」「ウザイ」「シネ」といったごくごく限られた言葉にしかならないのである。本当はとてもつらく苦しく悲しい。なぐさめてほしく、いたわってほしい、やさしくしてほしい、愛してほしい、そういう感情がすべて単純化してしまうのである。だから自分の想いが、自分でもわからずに、どうしていいかわからなくなって暴力などになってしまう。だとしたら、自分のことを本当に知るという意味でも、言葉を獲得していかなければならないのではないか、すくなくともそのほうが豊かな人生を送れるのではないか、と私は思う。

みんなが東大の入試に受かるような国語力が必要なわけではない。ただ、自分の人生を生きていく上において、自分のことを自分でよくわかり、それを他人に伝えられるだけのことばの扱いができるようになっていたほうが、より幸せなのではないか?と思い、そういう態度を身に着けてほしいと思うのである。


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No title

子どもたちの語彙の未習得が招く自身・現実の把握能力の欠如の問題、言い得て妙かと思いました。例えば言語学の観点から見ても、確かにソシュールの言うように言語が意味の差異だとするならば、語彙の未習得はイコール現実の意味の切り分けが人よりも少なくなるわけで、当然、現実把握の能力に差が出てくることになると思います。よって教育によって、またはそれに伴ってある程度子どもたちの語彙を増やさねばならないということになる。私も実際そのように思います。その問題についてあれこれ考えているうちに、またひとつ深い問題が見えてきたので是非ここに書かせて下さい。私も普段から言語・物語に関する問題に関心がありますので、失礼ながらその観点から。

学校教育で言語を教える(教わる)際に避けては通れない点があるように思うのです。ただその点は、多くの人はあまりには自然に通過されてしまうので通常気付かれません、しかしある種の人にはそれが決定的な影響を及ぼしていると考えられます。抽象的に過ぎますね、説明します。
ディスクールという言葉があります。またはエクリチュールという言葉があります。それらの概念が示すように、言葉はその人の内側から作用しその生き方にまで影響を及ぼし、決定してしまうという側面があると言われています。どういうことかというと、一度ある種の言説を用いると、自然とそれに付随する生き方、話し方、物語を選択することを余儀なくされてしまうということです。選択と言いましたが、自由選択ではなく強制です。加えて多くの人が選ばされたことにも気が付かない種類の選択です。言葉のある種の使用が帰結する物語・生き方への親和性の高い子ども、またそういう点についての感受性が単純に低い子どもは自然とそこを通過し、そのような言説、生き方、物語をどんどんと自然に身につけ、その過程で語彙もどんどんと身に付け、増えていきます。しかし自然にはそこを通過できない子もいるはずです。それは学校教育において言語を深めていけない子ども達の一部だと考えられます。言葉の用法の背後に存在する多数の生き方、価値観、物語になじめない人、その中にいるある種の繊細なタイプは、直観的にその不可避性を感じ取り、そのディスクールに入り込む前に「拒否」、つまり学校教育において言語を深めていかないという態度をとります。まるで問いただす母親の前で無言を貫く子どものように。そのひとつの体系をもった言語世界への参入を拒否することによって、背後に不可避に存在する物語の強制を拒否する。拒食症のメカニズムについての解釈に似てるとも言えますが、このような子どもへの関わり方はとても難しく、繊細さを必要とするように思います。あるいは学校教育においては原理的に不可能とも言えるかもしれません。教師がそのことに無意識である場合には。
主題からそれました。ただ自身の考えがとても賦活されたように思います。読む者の思考を賦活する文章を書くことができるのは石野さんの非常な強みであるように思います。
通りすがりの物ですが、ひとつこの点において、勝手に感謝を申し上げます。
これからも時折、読ませて頂きます。

言葉は曖昧で矛盾だらけなもの。けれども、だからこそ、柔軟で便利なものであり、同時に扱いの難しいものなのでしょう。語彙が足りないと、自分の気持ちを上手く言葉に置き換えることができず、他人に伝える前に自分自身ですらも自分の気持ちがわからなくなってしまう。
だからと言って語彙が多ければ良いのかと言うと、ただ語彙が多いだけではやはり上手く言葉にできない。
伝えられないこと、理解してもらえないこと、自分自身ですら把握しきれないこと、というのはどうして中々に辛いもので、その辛い気持ちすらも上手く言葉に置き換えられず、伝えることができないから、なおのこと辛くなってしまう。表現の仕方がわからないから、憤りや苦しみを簡単に吐き出して表現できる暴力や、虚しさを埋められる犯罪行為に逃げてしまう。今は親世代ですら言葉に不自由な人間が多い世の中ですから、そんな子供たちも多いのかもしれませんね。
今の若い世代は活字を読むのが苦手、あるいは嫌いな子が多いそうです。読まなければ語彙は増えませんから、犯罪が少しずつ低年齢化し、極端に傷つくことを恐れて主体性に欠ける若者や子供が増えるのも自然なことなのでしょう。悲しいことですが。

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