『ブレイブリーセカンド』感想とレビュー

ブレイブリーセカンドを一通りクリアした。裏ダンジョンや裏ボスがあるのかは今の所知らないが、ひとまず、息をつきたいというところか。というのも、私は最近いろいろなものに体力を見出すのが好きで、世の中にはゲーム体力なるものも存在すると思うのであるが、私自身がそのゲーム体力が高校生くらいのときと比べるとかなり衰えて来たようにも思えるのだ。だから、かつてならば、よし裏ボスまでみっちりコンプリートしてやるぞと思ったところであったろうが、現在となっては、精神状態もあまりよくないということも影響し、ひとまずクリアしたから、もういいかな、という息も絶え絶えな感じなのである。

さて、今回のセカンド。やはりセカンドとタイトルにも名前がばっちりと出てしまっていることであるから、それを購入する人というのは、デフォルトをすでにやったことのある人、に限られてしまうだろう。もちろん何かのミスでセカンドから始めてしまうような人もいるかもしれないが、それはごくごく限られた人数に過ぎない。まあデフォルトはかなりヒットした作品であるから、デフォルトをやった人達の半数でも購入してくれれば万々歳といった計算のもと制作されているのかもしれない。ラストには、ブレイブリーソードの謎が言及され、これは三部目もあるのか?と思わせる内容になっていた。今すぐにはちょっとやりたくないくらいには疲れているが、いずれまたあと一二年経過したあとにであれば、やってもいいかもしれない。

十年代に入ってからは、3・11があり、さまざまな価値観が崩壊してしまったり、今まであった価値観への反逆、まどかマギカのようなカウンターカルチャーが流行ったりした状況のなかで、この作品は、これぞ王道という、王政復古ではないけれども、かなり回帰主義的な部分がないわけではない。
もちろん、3DSのカメラを使用して、ゲームがゲーム内の狭い世界に閉じこもるのではなく、我々プレイヤー世界とも実はつながっているのだ、といったような、メディアを越境するようなおもしろく新しい試みも当然そこには含まれてはいるのであるが。

そうした新しい試みがある反面、いまとなっては、誰も口にしなくなった、くさいようなメッセージをこの作品はプレイヤーに届けようとしているのである。このゲームをプレイしているのが現代若者たちであるとしたら、その若者たちに対してのメッセージというものが、それだけでなくどのような意味を持ちうるのかということを少し考えてみたい。私たちは高度経済成長もバブルも経験していない世代であるから、まったくもって経済や社会に対して明るい未来を見出したことがない世代なのだ。産まれてこのかたいいことはちっともなかった世代といってもいい。そのような世代を生きる人たちは、きっと宮台真司のいうような、まったりとした生などそれぞれ独自な生き方を見付けて行ったことであろう。

私は社会に進出したものの、たった二ヶ月で嫌で嫌で仕方なく、抑うつ状態になってしまってニート、ひきこもりになるという、典型的な現代の挫折物語を体現した人物であるが、そのような人物が多いなか、このゲームはそのような人達にどのようなメッセージを与えるのか、ということが私の気になるところなのである。
というのも、なぜそういう図式が成り立つかというと、そもそもゲームをやる人種というのはかなり限られている。ゲームブームがあるわけでもないし、このようなゲームをやる人種というのは、それだけでかなり限られてしまっているのだ。つまり、必然的にゲームをやる若い世代の、さらにオタクに親和性のあるような人達がプレイすることが前提とされているはずであり、このゲームはそのような人達に少なからずメッセージをおくっているということができると思う。

で、そんないい未来もない、スレてしまった我々若者オタクたちに対して、いまさらそんなのねーよ、といいたいような、「勇気」というものをこの作品は再提示してくるのである。今回はブレイブリーセカンド、やり直す勇気というのがテーマであった。前作ブレイブリーデフォルトは、従わない勇気。いったい何に従わないのか、確かに、そういえば、私たちはなにものにも従っているつもりはなかったかもしれないが、何かに反逆していきていたわけでもなく、それすらも気づかされないような従順な生き方を強いられていたのかもしれない。だからこそ私たちは何かそうした漫然、漠然とした支配的なものからの反逆、自分らしく生きるということをしてもいいのではないか、という目覚めのゲームだったのだ。

しかし、そのように目覚め、自分の生き方を模索しようとするとかならず失敗する。あるいは、そのような模索がなかったとしても、現代の若者は疲れ果て、社会や家族といった、かつて人々を守っていたセーフティーネットはすでに崩壊し、守られるものなき世界において、一人で世界に立ち向かい、恐れおののき、失敗を恐れ、ひきこもりになってしまっている。そのようななかで、もう失敗したくないという想いのために、私たちは身動きが取れなくなってしまっているのである。だが、それでも、ブレイブリーセカンド、がんばリベンジ、諦めない限りはなんどでもやり直せるのだ、ということをこの作品はメッセージとして伝えてくれているのである。

90年代のエヴァ的発想は失敗するのがこわいからなにもしないという想像力であった。宇野常寛は、ゼロ年代の想像力はひきこもっていたら殺されてしまう、というサヴァイブ感と『ゼロ年代の想像力』のなかで見事に喝破した。しかし、それでも10年代の私たちはふたたびひきこもりになっていると思うのだ。ひきこもりは少数派かもしれない。どちらかというと、さとり世代といわれるように、無に近い感覚でこの世界を生き延びようとしている。十年代の私たちは、もはや失敗は最初からつきもので、織り込み済みなのだ。失敗するのはあたりまえ、その上で、さらにどのように生きていくかということを選択しなければならないのかもしれない。

追記として
今作では、ラスボスの存在が、唐突な感じがして、あまり思い入れもなく倒すこととなった。これはドラクエ5でも出た言説であって、ゲマがラスボスになるのかと思ったら、ゲマはラスボスの手下で、その後イブール、ミルドラースと、およそそれまで知らされもしなかった存在がボスになっていき、なんとなくなぜ倒さなければならないのかわからないままに倒すことになってしまった。
前作デフォルトでは、倒すべき敵と思われるのは、最初から最後まで一貫してひとつの存在であったのに対して、今作は、最初は帝国かと思ったら、実はそれをうらであやつっていた、妖精族エアリーであり、さらにそのエアリーを手下としていたプロビデンスという存在だったということになり、プロビデンスがいったい何なのかがよくわからないままにラスボスを倒すということになってしまった。

さらに言えば、ベガとアルタイルがいったいなんだったのか、というのも実は私のなかではちっとも納得がいっていないのである。ベガとアルタイルがそんなに重要な位置を占めるのであれば、もっと初めのほうから、伏線なりを仕込んでおいて説明をきちんとすべきであったろう。
ただ、今回はベガとアルタイルという何億年も前の存在の友人であるという人物が、これまで冒険者として、各地に存在していた謎の人物であったということが判明した。おそらく次の作品をつるくのであろうから、そこで伏線が回収されることを望む。

あとシステム上、どうしてもいっておきたいことがいくつか。
やはりブレイブリーセカンドの課金はどうしたってやめたほうがいいと私は思う。今作は、前作へのプレイヤーたちの意見などをもとに、改良を加えたシステムになったと説明があったが、それはいいとしても、どうしたって課金ゲームに近くなっていってしまっているのは残念で仕方がない。
課金ゲームはカンコレをほんの少しやってしまっただけで、ちっともおもしろくないなと思ってやめてしまったのであるが、ゲーム上必要となってくるなんちゃらストーンのために課金する、といった現代の風潮は、よろしくない、ともちろんそういうのがあってもいいけれども、と思うのである。
何よりも、きちんと料金をはらって購入しているゲームへの課金はやめたほうがよいと私は思う。課金ができる、という説明が作品冒頭のほうでなされたとき、ほんとにこのゲームをやめようかとも思ったくらいだったのである。これでは子供が安心してプレイできないではないか、というのが私の感想だ。子どもには昔のドラクエなどをやらせたいなと私は個人的に思うが、それは安心してゲームができるからだ。もしよくもわからないもののゲームができるといった、小学生くらいの子が、このゲームをやっているなかで、楽にできるからという理由でSPポイントを買いまくってごらん。それを誰が払うのかという問題になる。やはり子供がシステム上安心してプレイできないようには私はしないほうがいいと思う。何よりもそれによって垣根があがってしまうからだ。できることならば、親が安心して子どもに買い与えられるようなものになってほしいものである。



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