宮台真司『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫、1998) 感想とレビュー

もはやオウム事件から20年の月日が経とうとしている今更、宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』(オウム完全克服マニュアル)を読んだ。
文芸の世界にいると「終わりなき日常を生きろ」というフレーズはよく目にする。それだけ力をもった批評であり、それをみごとに体現しているキャッチフレーズであったということだろう。私自身、そのなんとなくのカッコよさから、勝手に終わりなき日常を生きろ、といったことを発言していたのであるが、実際にその言葉のもととなった本書を読むのは初めてである。

ゆとり世代の私からすると、もはや21世紀において宗教の匂いはほとんどしていない、というのが実情であろう。メディアを新興宗教がにぎわしているということもないし、90年代を子どもとして生きた私にとっては、90年代がそんなに宗教色の強かった世界だったのかどうか、私にはよくわからない。オウム事件があり、新興宗教への嫌悪感がいまだずっと残っている現在において、しかし、そのなかにおいてさえ、宮台の述べた「終わりなき日常を生きろ」という言葉はまだ力を持ち続けているのであろうか。一考すべき問題であると思う。

この本が問題としているのは新人類世代(1956~65年生まれ)とその周辺である。それらの人たちが新興宗教を起こし、そしてもちろんそこにはロストジェネレーションも含まれるであろうが、彼等はその新興宗教を享受した人達である。
宮台は新人類世代が成長期において、70年から80年代にかけての一連の想像力を植え付けられた世代としている。『未来少年コナン』(77)、『機動戦士ガンダム』(79)、『伝説巨人イデオン』(80)、『超時空要塞マクロス』(82)、『装甲騎兵ボトムズ』(83)、『幻魔大戦』(83)、『風の谷のナウシカ』(84)、『北斗の拳』(84)、『天空の城ラピュタ』(86)、『AKIRA』(88)。これらの陰謀論的なSF史観により、オウムは「世の中にはすべて仕掛けがあると考えてしまう」陰謀史観が現れたのだと宮台は言う。

そして問題は、他にもいろいろな作品があるにもかかわらず、なぜこれらの作品を享受し、その想像力のなかで生きなければならなかったのか、という点にある。
80年代には二つの終末観があったという。一つは「終わらない日常」、そしてもうひとつが先にあげたような「核戦争後の共同性」というものだ。「終わらない日常」とはなにかというと、主に女の子の想像力においてこの終末観は現れたが、「輝かしい進歩もないし、おぞましき破滅もない」世界であり、「学校的な日常のなかで永遠に戯れつづけるしかない」のである。
しかし「終わらない日常」では、モテない人間は永遠にモテナイし、さえない奴は永遠にさえない。そこでそんなモテないオタクたちが夢想したのが「核戦争後の共同性」というファンタジーだったというのである。
「非日常的な外部」をその後の世界「未来」に託すことによって、おとこたちは現在を生き、女の子たちは、「前世の転生騎士」に外部を設定することによって「過去」に投影をしたのだ。
80年代において人々は「終わりなき日常」を耐え、そこで生きられるか、生きられないかに二分化される。

終わりなき日常をいきるためにはコミュニケーション能力が圧倒的に必要である。そこでコミュニケーション格差のようなものが生じてしまう。かつては「写真だけで結婚する」ような時代もあったわけで、周囲の人間がなんとかしてくれるし、よくわからなくても周囲の人間の真似をしていれば、なんとなく生きて居られたのである。ところが、人々は自由を手に入れたかわりに、その責任を負わざるを得なくなる。コミュニケーションにしても、それが下手であることは、すなわちダイレクトにその人物の価値にひるがえってきてしまうのである。

そのような時代においては、コミュニケーションスキルに問題をかかえた人達を癒したり、救済したりするシステムが絶対的に必要になってくる。それが結論としてはオウムだったわけだけれども、オウムがつぶれたからといって、そのニーズが減るわけでもないし、それはますます増え続けるだろう。
終わらない日常とは、その責任が本人のものであるという「内的制約」に還元される世界なのである。そこでは永遠にモテナイ人間は持てないまま、いじめられっ子はいじめられっ子のままなのだ。「そういう彼らが、「日常の終わらなさ」を忘れていきようとすればいろいろな物語りや装置が必要になる」。
そんな彼らを救いうるのは「全面的包括要求」に答えうる、宗教と恋愛しかない。宗教は「そういうあなたでも救われます」と、「恋愛はそういう君がすきだったんだよ」と受け入れてくれるわけである。

しかしモテナイのが原因であるから恋愛は難しい。宗教はオウムのようになるし危険だ。そこで宮台が現実的な処方箋として出したのが、「まったり生きる」というものであり。全面的包括要求を放棄して、匿名化、記号化、断片化した存在を生きるというのである。そこにはかつてのような確固とした個は存在しない。
「「まったり生きる」連中は、「輝かしい未来」を必要としていない。彼らがあるかないか分からない「輝かしい未来」のために、現在を我慢して勉強したり、バカな上司の下で辛抱し続けたり、鈍感な亭主や妻のために貞操を守り続けたり、熱烈な政治意識を持ったりすることはないかもしれない」。しかしそのかわりに、終わりなき日常を終わらせようとすることはないだろう。

シロクロ物事がつけられない、漠然としたすっきりしない世界を我々はなんとなくまったりと生きなければいけない。そう宮台はいっているのである。
私のような理想主義者は、それでもやはりということでこの世界の崩壊を望んでしまう。それは現在に翻って言えば、この世界に嫌気がさして「終わらない日常」どころか、「終わらない世界」に耐え切れなくなった人間が、9・11を引き起こしたり、ISISのような国を樹立してしまうのと同じなのかもしれない。


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