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『ああっ女神さまっ』感想とレビュー オタク男はいかにして救われるのか

藤島康介原作と『ああっ女神さまっ』のアニメ化されている作品を一気観した。鑑賞したのは以下の通り。
OVA『ああっ女神さまっ』(5話、1993-4)
『ああっ女神さまっ 小っちゃいって事は便利だねっ』(48話、1998-99)
劇場版『ああっ女神さまっ』(2000)
『ああっ女神さまっ』(第一期)(26話、2005)
『ああっ女神さまっ それぞれの翼』(第二期)(24話、2006)
『ああっ女神さまっ 闘う翼』(2話、2007)

藤島康介といえば他に『逮捕しちゃうぞ』が代表作である。二つの作品には、女神様のほうには「他力本願寺」というのが出て、「逮捕しちゃうぞ」には「自力本願寺」という寺が出てくる。これは最初単なるジョークかと思っていたのであるが、主人公たちの行動を見ていると、他力本願なのか、自力本願なのかということで、大きくわけられることに気が付いたので、ここに記しておこうと思う。
やはり逮捕しちゃうぞの主人公二人は、自力でぐいぐいやっていく強い女なので、そこに登場するのは、自力本願寺ということになるのであろう。それに対して、やはりオタク少年は自ら主体的に動くことはなく、すべて外側からの影響によって動くという性格付けがあるので、他力本願時ということになるのだ。

ある日突然女の子(神聖を持った)が落ちてくる、という日本人の発想は、かぐや姫にさかのぼることができると思う。小さいころにそのような幻想を聞かされた男たちは、一方でいつか美男子が自分のことを助けにきてくれるのだというディズニーが量産しつづけた幻想に浸る女子を片目に、それを批判しながら、しかしどこかで自分の目の前にも、いつか自分を救いうる彼女が降ってくるのではないか、という幻想を抱き続けるのである。

それが、86年のラピュタで王族であるシータが空から落ちてくるという、アニメ界にとって衝撃的なインパクトある登場のしかたを見せるのである。もちろんそれ以前にも、当然かぐや姫があったように、空から女の子が落ちてくるという想像力はあったろう、が私は管見にしてラピュタ以前のものを知り得ない。88年の『ああっ女神さまっ』も当然ラピュタのあのセンセーショナルな落ちてくる女神像を踏襲していることは明らかであり、しかも女神であるという点も、オタク的想像力ということができるだろう。

空から女の子が落ちてきて、冴えない持てない自分の人生を一変してくれるのではないか、という想像力は、日本のオタくたちの間ではかなり根強い幻想となった。2007年から連載の水無月すうの漫画作品『そらのおとしもの』は、落ちてくるのが女神であり、しかも三姉妹というところから、ほろんどこの『ああっ女神さま』のオマージュとも言える作品である。2004年から刊行の鎌池和馬による日本のライトノベルシリーズ『とある魔術の禁書目録』も、ある日突然特殊な能力を持った女の子が空から降って来て、自分の家の物干しざおにぶらさがっていたという想像力である。類似した作品を探せば、一つの系譜として研究対象になり得るであろう。

オタクのことを一分の一の描写で克明に描いた『げんしけん』では、オタクというのはなろうとしてなるのではなく、気がついたらなっていたものというオタク定義がある。自分の努力でオタクになったのであれば、非オタクになりたい時にまた同じ努力を費やせばいいのであるが、気がついたらなっているという自然発生的なものだとすると、脱オタクというのは非常に難しいものとなってしまう。
オタクが世間からうとまれ、キモイものとされてきた80年代90年代においてオタクという人種は非常に救いがたい立場にいたのではないだろうか。そうした自分の努力ではどうしようもならないというところで、オタクたちが安易に求めたのは、いつかそんな自分でも絶対的に承認してくれる、お母さんのような彼女だったのである。

オタク学生である森里 螢一は、ある日先輩の電話番をしており、そこで間違い電話をしてしまうことから、女神であるヴェルダンディーを召喚してしまう。90年代生まれの私からしたら、黒電話の前で電話番をしなければならないというのが、すでに時代を表しており、今現在となっては考えられない設定である。
なにかよくわからないが、願い事をひとつだけ叶えてくれるということで、「君のような女神に、ずっとそばにいてほしい」といったところ、その願いが叶ってしまうというラブコメであるが、この願いにこそ、80年代、90年代、いや、今においてさえも、オタクたちの幻想の最も重要なものが現れていると思われる。

オタクたちというのは、何も大金持ちになったり、いい会社に入ったり、いい給料を貰ったり、いい車に乗ったりというような社会的な承認は求めていないのである。2008年(平成20年)6月8日におきた秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大(1982年9月 - )も、ネット上に書き込んでいたのは、ひたすら自分の容姿が悪く、彼女ができないことであった。それはなによりも、母親のように無条件で自分のことを愛してくれる存在を求めていたからである。

そもそもなぜオタクがモテないのかといえば、それは社会的な要因が大きいからであろう。社会全体がオタクという人種に対して、ネガティブなレッテルを、例えばマスメディア等で流布しているのが原因である。秋葉原事件もその恰好の的であるが、宮崎勤事件などにより、オタク=犯罪者予備軍というのは、マスメディアによってつくられた幻想であった。一方で日本の女性は、戦後入ってきたディズニーアニメによって、女子は受動態であり、いつか超絶美男子が自分のことを救ってくれるという幻想を強固なものとした。また近年に至っては純愛志向であり、マスメディアが流しているのは、ありえもしない超絶美男子と美女との恋愛である。

こうした情報を普段あびるように見せられた人間たちは、その目標自体がきわめて高く設定され、美男子、美女でなければ付き合いたくないということになってしまう。そのために、全く冴えないオタク男子たちあるいは腐女子たちはイケメンたちのことを恨みながらいつか自分のことをすくってくれる人がくるのではないか、というあり得もしない幻想に余計にひたるようになり、最低限のところで妥協していれば、不細工かもしれないけれども、彼女、彼氏ができるという、小さな承認をより求め辛くなっているのである。

不幸にもまだそれだけの批評性のない時代であった。『ああっ女神さまっ』が男子オタクたちにさらなる幻想を抱かせてしまったのは仕方がないと言えるだろう。一方で突然降ってくる少女像は、完全にロボットになってしまったり、ロリになってしまったりと、まだ単なる美少女であったほうがその欲望としては純粋だった気がするは、屈折してきていることは、今後のオタク的発想がどうなるのかという点に関して興味深い疑問符を投げかけている。


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