スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『OVERMANキングゲイナー』(26話、2002)感想とレビュー ゼロ年代にニューフロンティアはあったのか


今回、富野由悠季が好きな僕と親しい先生が、カラオケにいくとよく歌う、キングゲイナーについて、どんな内容の作品なのかと鑑賞してみることにした。
通して鑑賞してみたが、なるほど、なかなかむずかしい、というかなんといっていいのかよくわからない作品である。

Wikipediaによれば、Zガンダム、イデオンなどに代表されるように、登場人物の大半を殺してしまうという「殺しの富野」と言われる富野監督であるが、この作品ではかつての「黒富野」とは対比され、「白富野」、人をほとんど殺さずに描くというところで、白富野の代表作となっているようである。

富野監督のアニメは、たとえばイデオンにしろ、この作品にしろ、何か一つの目的のためへの旅がしばしばそのテーマになることが多い。それは銀河鉄道999や宇宙戦艦ヤマトと同じアニメ文法をたどっており、目的地への旅というたったそれだけの物語構造によって、40話なり、26話なりを持たせることができるのである。日常系と、バトルものが蔓延してきたために、アニメの文法というのはかわり、イスカンダルにいくだけに50話も見ていられないというのが、現代の若者の感覚であろう。実際最近イデオンを見た私は、いったいいつまで地球にたどり着かないんだい、とアニメをかなり見る耐性のついている私でさえ、その展開の遅さにいらいらしたものである。

ガンダムにしろ、イデオンにしろ、冨野監督というのは、このどこか目的地までの旅を描くというのが彼の得意な手法なのだなということが今回よくわかった。
で、今回の「キングゲイナー」はどういう作品なのかというと、これまた不思議な作品であったというほかない。宇宙を舞台としてきた富野監督にしては、規模が小さく、地球上の、しかもある地点での話になっている。ほかのゼロ年代の富野監督の作品を鑑賞していないからよくわからないが、他のゼロ年代の作品にしても、冨野監督の物語舞台の規模縮小というのは傾向としてあるのだろうか。

今回の目的は、北極点に近いドームポリスという場所からのエクソダスであり、その目的地は日本と思われるヤーパンである。設定では、近未来、地球の環境が悪化し、人間が住める土地というのはほとんど残っておらず、数か所に点在する場所においてドームポリスという都市型の船を利用して生活をしていた。そこで人々は管理された生活を送っていたわけである。だがすでにこの時代には、この物語に登場するようにヤーパンのように、いくつかの土地では人々が住めるような土地にもどっているらしいということで、物語は始まるのである。

だが、26話が終わるなかにおいては、主人公たちは目的地であるヤーパンへは到達していない。とすると、本当にヤーパンが人の住める土地になっているのかは、本当のところはわからないのである。オーバーマンのような戦闘ロボットを作り出せるような技術があるのだったら、すでに地球のどこが住める土地になっているかくらいの情報ははいってきそうではあるが、しかしこの世界においては、そうした情報というははいってこないのである。あるいは政府などが管理しているのかもしれない。

物語り構造としては、北極地点から日本へ、途中ロシアのいろいろな土地を巡りながら南下するというそれだけを描いた物語なのである。イスカンダルや地球に行くためだけに、40話も50話もつくってきたかつてのアニメの歴史をたどれば、それだけのためにというのは珍しくもないと感じることもできるが、しかし、ゼロ年代においてこのような日本へ目指すというそれだけを描いた作品というのは、やはり珍しさが残るだろう。

途中までは、エクソダスというのは、当然政府にとっては大変困る話なので、重罪であり、エクソダスする人々をシベリア鉄道警備隊、通称シベ鉄の人間が追うということで物語が進展した。これも富野監督のやりくちであるが、かならず全力で敵は追ってこないのである。逃げるがわである主人公たちには、ほとんど武力はない。キングゲイナーがあるとしても、しかし本当に物量のあるシベ鉄が最初から全力を投資していれば勝てないわけである。だが、それでは物語が終わってしまうから当然戦力を小分けにする。ただ、今回の作品では、イデオンのような小分けではなく、本当に物量が少ないために兵がそんなにいなかったようにも感じられた。そこらへんは上手いなと思った。

途中からはそうした逃げるエクソダス、追うシベリア警備隊という構図がすっとんで、最後の5話くらいは、未知の能力であるオーバーマンのなかでも、特別なオーバーデビルという機械が登場し、シンシアがそれに取り込まれ、世界はオーバーヒートの反対である、オーバークールによって氷漬けにされてしまうという世界の破滅をどう阻止するのかという話になってしまう。二つの勢力が争っていたら、それらがどうでもよくなってしまうような世界崩壊の危機が訪れることによって、なんだかうやむやの混戦のなかにおいて、人々はどうやって世界崩壊を阻止するのかという方向に向かっていく。
真面目な視聴者である私は、エクソダスの行方がどうなるのか、きちんとヤーパンにたどり着けるのか、ヤーパンはどのような場所なのかということが気になっていたので、なんだか逃げられたような気分である。

さて、それにしても論じにくい作品である。むしろなぜ、ゼロ年代において日本という土地を求めなければならなかったのか、というところにこそ、この作品の表象的な意義があると思われるのであるが、それがなんとも見いだせないのである。
確かにマクロスにしろ、ヤマトにしろ、もちろんガンダムにしろ、地球がどうしようもなくなって人々が住めない状況になってしまったという大前提があった。それは進む核兵器の製造や冷戦などから、世界の危機が実際に当時の人達には共有されていたからである。だからこそ、その抑圧された人間達は想像力をSFという形で放出したのだ。

しかしハルマゲドンの予言もはずれ、人々は世界の終わりなどなかったのだ、というまったりとした日常をいきなければならなくなる。宮台真司が述べた「終わりなき日常」である。それに耐えられなかった人々が、オウム真理教の地下鉄サリン事件などを起こしてしまうのであるが、多くの人々にとっては、それが起こってさえも終わりのない日常を生きなければならなかったのである。そのような閉塞感きわまる21世紀、ゼロ年代において、マクロスフロンティアへもきちんと継承されていく、ここではないどこか、への新天地を求めたくなるそのフロンティア精神というのは、この作品にも見て取れることができると思う。

どこに新天地を求めるかというのが、ここからの世界では重要になってくるだろう。それを今多くの国々は、ちゅうごくやインドの市場などに、経済的な観点から求めているのである。しかし、すでに開拓されつくしたこの地球上において、有限の資源から無限の力を引き出そうとしている我々人類はどうしたって行き詰まりを迎えるわけで、私個人としては、今あるもののなかでどう生きていくのかということをまじめに考えなければならないと思うし、そうした想像力の作品が生まれてこなければならないと思う。
反面、もとめるべき新天地を間違うと、ISISのような武装集団にもなってしまうのであるから、気を付けなければならない思想でもあるということは、心に留めておきたいものである。


コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
141位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
12位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。