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2015年12月1日の雑記 人と支配に関する備忘録

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ブログもすでに更新をしなくなってから1月以上が経った。ブログ記事は、書き溜めておいて、できるだけ三日に一度の頻度で更新されるように予約投稿をしていたので、実際ブログ用の記事を書かなくなったのは夏あたりだったと思うので、もうまともな文章を3,4カ月も書いていないことになる。
ブログは大学一年生の時に、本を読んだり作品を鑑賞したけれども、それがどんどん流れて行ってしまうのが悲しい、何か有意義な形に残しておきたいと、簡単な感想から始まったのがきっかけだった。それ以降、ほとんど欠かすことなく、四年間、ブログを更新しつづけてきた。
私立学校という閉塞した環境によって狂気じみた場となっていた職場にあてられて精神をおかしくして仕事を辞めた。それでも、6,7、月はまだ書いていた。今ようやくうつのトンネルを抜け出しつつある時期に、ふりかえってみると、うつが一番ひどかったのは、ちょうど、6,7月あたりだったような気がする。六月あたりは、一日に一食しか食べることなく、お風呂にも一週間ほどはいらなかった日もあった。ただ生きているのが苦しかったのを覚えている。
うつが一番ひどいときに文章が書けなくなってしまう、ということなら、簡単に説明がつくのであるが、不思議なことに、その時はそれでもまだなんとかかけていて、その後、うつが徐々に回復してくるときに、私ははたと文章を書くことをやめてしまったのである。
書くことをやめてしまったのに、特別な理由はない。ただ、なんとなく、つかれてしまって、はたとやめてしまったのである。
そうやって人は徐々に変わっていくのだなと私は感じた。四年間、ほとんど休むことなくブログを書き続けて来たが、そうした熱意ももうあまり残っていない。昔なら、なんとか書かなければというようなガッツや熱意というものがあったが、今はこの分野に関してはそのようなものはなくなってしまった。人は徐々に変わるのだということを学んだ気がする。

久しぶりに文章を書こうと思ったのにはわけがある。
それは前の職場から、半年間のうつとひきこもりを経て、ここ数週間で形となってきた考えがあるからだ。
それは、人と支配について。
本題に入っていこう。
前提として、人はどこまでも自由な存在なのだ。
本来は人間は自由な存在であり、自分の好きなように、生きやすいように、幸せに生きることができるのだ。それを、現代の複雑化した社会は、人間を監視し、管理し、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、ああしろ、こうしろと人間の自由を奪い、足枷をはかせている。だから我々は幸せになれないのだ。
私はそれを大学時代に痛感して、では社会をかえなければ、とシャアのような革命の思想を持ちかけたが、あえなく挫折し、うつとなった。間違っているのはあきらかに社会のほうであるのに、社会はあまりにも大きく、それを個人の力でどうにかできるものではない。変わるべきは個人になってしまうのが必然である。
それでもだからだめなのだと0か100かというように絶望するのではなく、少しずつ、できる範囲で、10と90のように、わずかだけれども、変えていく、甘んじるわけではないが、そうやって社会と折り合いをつけていくというのが、大人になるということなのだなと私はうつになって学んだ。
人間はどこまでの自由な存在である。
これを私は忘れてはいけないと思う。特に、人の上にたつ人や、教師のような人は。
私たちはしばしば、この人間はどこまでも自由な存在であるということを忘れてしまう。それと同時に、自分が他人の行動をも支配できると勘違いしてしまうのだ。人間は誰にもしばられないほど自由である。それはひるがえしていえば、人間は他者をだれをも縛ることができないということなのだ。
私は思った。たとえ教師と生徒という間であったとしても、それ以前に人間と人間なのであるから、いくら教師といえども、生徒のことを支配したり、その行動を規制したりすることはできない、と。
しかし閉塞され、キチガイじみた空間となってしまっている、会社の職場や、学校の教育現場などでは、人はそれをすぐに忘れて、他人を自分の思い通りに行動させようとしてしまう。それが罪なのである。
私たちはともすると、部下にああだこうだ、あれはこうしろ、ここはこうしろ、これはするな、生徒に対して、寝るな、黒板を見ろ、板書を写せ、話すな、と命令してしまう。
もちろん教室に限って言えば、他の生徒と話して授業を妨害したりする自由ももちろんないことはないが、しかし、授業に参加しない自由、聞かない自由、板書をとらない自由は、生徒たちにあるのである。
私の考えは、ある側面からみたら恐ろしく冷たい考えかもしれない。私は他人を自由に操るべからず、ということを説いているわけであるが、これは反面自己責任論にもつながっているからだ。自由に授業に参加しない権利を主張した生徒たちは、その後いい点がとれず、いい大学にいけず、いい会社にいけず、いい給料を貰えない。私はそれでも、その人がそうしたかったのだから、それでいいと思うのである。
無理に授業を受けさせ、受験をさせ、勉強をさせ、いい会社に入らせても、全部が全部、親や教師によって強制されたことでは意味がないどころか、むしろ有害だとさえ思うのである。それによって結局はその人物は他人によってその地位にまで上り詰めたかもしれないが、自分で生きる意味を見失い、やる気がでてこない。現代の若者にやる気が皆無なのと、生きる意味などが見いだせないのは、そうやって他者がおこがましくも、行動を規制してきたからなのではないだろうか。
やる気がないんだから仕方がないのである。それはその人の個性なのだから、やる気スイッチを入れるといった、人格を矯正するにも等しい暴挙はしないほうがいい、そのほうがより非暴力的で、結果として幸せな世界になると思うのである。
他人はどこまでいっても他人である。他人をどうこうする自由はないのだということを肝に銘じておくべきだと私は思う。
やる気のない学生が、無理に家庭教師などをつけられて、無理やり勉強させられ、受験させられ、大学においやられ、会社においやられ、あまつさえはその伴侶まで決められて、というようなことは、観るにたえない。
私たちが自由にしていいのは、自分までだということをここで一度はっきりとさせておいたほうがいいのではないか。
私は教員免許をもっているし、まあいずれはまた教職につくだろうけれども、宿題をやってこない生徒を、授業をうけない生徒を、もちろん言葉を通してやってごらん、できたらやってほしい、というこちらの希望を伝えるまではしても、強制的に残して指導したり、終わるまで帰さないといったことは絶対にしないと思うのである。

私はこの考えを、手塚治虫の漫画、私の大好きなブラックジャックからヒントを得た。本間先生がブラックジャックに言う、「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」というセリフからだ。
生き物の生き死にに限らず、人間が他人を自分のようになんとかしようとするのは、とてもおこがましいことなのだ。このおこがましいという感覚、これが、圧倒的に現代人、特に人の上に立っている人間には足りないのである。現在の国だって、国民をなんとか自分の都合のいいように、マイナンバーをくばってみたり、産めよ増やせよといってみたり。人間というのはそんなものじゃないんだ。どこまでも自由で、他人にしばられたりするものじゃないんだ。私たちはそのことを忘れてはならないと思う。

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はじめまして!あるブログを拝見していたら、このブログに出会いました。私もブログを開設しています。「鬼藤千春の小説・短歌」で検索できます。一度訪問してみて下さい。よろしくお願い致します。
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