『会長はメイド様』(27話)(2010) 感想とレビュー

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最近は一日に12話をみるということを日課にしている。
ただ、12話というのはやまり短い。時間としてもだいたい一話、オープニングやエンディングを差し引くと20分ほどしかない。時間にして240分。四時間。映画二本分というところである。やはり映画日本文ではそこまで物語が展開されないし、奥行きを感じられないところがある。
この作品は26話である。26話までやってくれるとだいぶ作品の奥行きが出来てきて感情移入がしやすくなってくるものである。

この作品、元々白泉社『LaLa』にて連載されていた少女漫画である。しばらく学園ものの作品をずっと鑑賞してきたが、いずれも初出がライトノベルだったりして、男性の書き手によるものが多かった。
男性作家による学園ものは、どうしてもハーレムになりがちである。大体の場合は、男性主人公一人にたいして、その周囲を女性ハーレムが囲むのである。最近見たものでは、『だから僕はHができない』(12話)『ロザリオとバンパイア』(12話)『一番後ろの大魔王』(12話)『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』(10話)(2013)『スクールデイズ』(12話)(2007)『撲殺天使ドクロちゃん』(12話)(2007)『明日の与一』(12話)(2009)『CHAOS;HEAD』(12話)(2008)OVA『異世界の聖騎士物語』(12話)(2009-2010)、これらの作品は、ほとんど男性1人に対して女性ハーレムに囲まれるという作品になっているだろう。管見の限りではあるが、より作品に触れてみれば、学園ものの作品の半分以上がおそらくこれと同じ構図をもっているはずである。
実際にはそんなことはおこらないわけであり、これはそうでなかったからこそ、そうでありたいという妄想を具現化したものにすぎない、妄想の産物ということができるであろう。それはそれで他人の妄想なのでおもしろく、妄想だから駄目だ、などというつもりは毛頭ないが、しかし、あまりにもこうした作品を見ていると、現実離れしすぎていて、アニメを観終わった際に、いざ実際に現実をみてみると、その乖離がすごくて視聴者がつかれてきてしまうという弱点を持つ。
一方それに対して、少数ではあるが、逆ハーレムもの、ひとりの女性に対して大勢の男性があつまってくる、という作品の系譜もある。『アムネジア』(12話)(2013)『B型H系』(12話)(2010)などがその例である。
さて、こうした男女不均衡の作品が多い中、より誠実なのは、その男女比がひかくてき安定している作品群である。
『乃木坂春香の秘密』(12話)(2008)『未来日記』(26話、+OVA1話)『さんかれあ』(12話)などは、男性主人公と女性主人公は一対一で結ばれており、より対等な作品になっているということができるだろう。今回の『会長はメイド様』も、やや男性が多めではあるものの、どちらかといえば、こうした一対一作品の系譜に並べることができる作品だと思う。そこまで妄想度の高い作品ではない、ということである。

だが、この作品に妄想がないわけではない。
この作品の一番の難点は、なぜ女性主人公がなんの保証もなく愛され続けているのかという点にあると私は思う。この作品の一番の難点は、やはりこの作品がシンデレラの物語りから脱却できていないところにあると思うのである。女性主人公鮎沢美咲の家は貧乏である。それは容易に灰かぶりとさげすまれたシンデレラのあの辛く過酷である労働環境を思い起こさせる。その辛い労働環境は、時と場所がかわっているからそこまで陰惨なものと描かれないまでも、彼女は(お姉さま)のかわりに、(ご主人様)をもてなす、メイドとして従事しているのである。
そしてそのような場所での従事は疑似的に言えば、よりよいご主人様に見つけて貰って、その人と結婚するというとこにある。大学が実は結婚相手を探す最後のとりでとなっているようなもので、そこでの結婚相手を探すというのは、実は織り込み済みのことなのである。
その点、この女性主人公である鮎沢美咲はアンチシンデレラとして、受動的ではあるものの、主体的に受動的になろうとしているという点で、優っているのである。ご主人様にみつけてもらう、という圧倒的な受動態でありながらも、まずその見付けてもらう場への参加というところにおいて、受動だけであったシンデレラとは異なり、そこへ参加しているという点で、彼女は努力家である。

それと同時に、努力するシンデレラのと対になるのは、努力しない王子様である。アニメではその出自をほとんど語られなかった碓氷拓海であるが、漫画によればその設定はかなり複雑なものらしく、イギリス人のクォーターだそうである。そして資産家である貴族の血がながれているとか。そうしたところに、やはり女性作家が描いた作品ということで、シンデレラストーリーからの脱却ができていないところがあるのではないだろうか。
この作品を理解するために、シンデレラという古典の物語を引用したが、そこから逸脱するものもある。さらにこの作品をもうひとつ他の作品の枠組みを使用して理解するとすれば、それはセーラームーンになるだろう。
セーラームーンは女性主人公たちは果敢に戦うのである。しかし、ピンチのときにはタキシード仮面がやってきて颯爽と救って見せる、という男性至上主義がそこには描かれている。この作品も努力するのは少女自身なのであるが、何の努力もしない碓氷によって、鮎沢はピンチをまぬかれることになっている。

この物語は、愛情の一方向性を打開する物語と考えてよいだろう。もともとさきほども述べたように、シンデレラや、セーラームーンのような、一方的な男性愛によって救われる女性像、というものの系譜につらなっていると述べた。しかし、この作品がおもしろいのは、そうした古典的作品からなんとか脱却しようとしているところにあると思う。もちろんそれは簡単にできるものではないのであるし、実際にそう簡単にできてはいないのであるが、時代も下って来て、もはや現在の中高生の間に男女観の差別意識もないこの世界においては、その一方的な男性愛に対してどのように切り返していくのかという部分が問われることになる。
この作品全体で弱点だなと私が思ったのは、鮎沢が碓氷に好きでいられることの保証がないという一点である。なぜ鮎沢は碓氷に愛されるのか、あるいは反対から述べれば、なぜ碓氷は鮎沢のことを愛しているのかということだ。そこにはなんの保証もなかったのである。碓氷はたぶんにMっけがあり、鮎沢が冷たくすればするほど嬉しがるという性癖のようなものはあったとしても、もはや女性になびくことのなくなった碓氷にとっては、自分になびいてくれないから、というその一点によって鮎沢のことを好きでいたはずなのである。とすれば、鮎沢が碓氷のことを好きになった時点で物語は終了してしまう。なぜなら自分になびいた女に碓氷は興味が持てなくなるからなのである。
そのような矛盾した愛情を鮎沢は受けることになった。自分から好きになってはいけないという拷問のようなルールである。そのなかでなんとか鮎沢は碓氷へなびかずに、手綱をきっちりのつかんだまま、愛し、愛される関係にならなければならなかったのである。それを実現可能にするのは、26話ぶんの経験値である。だからこの作品は12話程度では、とても描き切れなかったことであろう。それだけの経験値、二人の過去を積み重ねることによってこそ、単になびくだけでは興味をうしなってしまう碓氷を愛することができたのである。
アニメでは描かれなかったが、漫画ではこの後二人は結婚するらしい。ここには、シンデレラでも、セーラームーンでもない、あらたな関係としての愛情の発芽をみることができるのではないだろうか。

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