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重松清『流星ワゴン』(講談社文庫、2002) 感想とレビュー



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今回、重松清を初読書することとなった。『流星ワゴン』は以前からタイトルだけは知っていて、泣ける話であるという情報だけはあったのであるが、実際に読んだことはなかった。
物語りの解説はほぼ斉藤美奈子が要を得た解説をしてしまっているので、いまさら私が書くことはそうないかもしれない。が、斉藤美奈子が女性であり、本質的にはわからないといっているように、私自身は男であり、しかも父親との葛藤をかかえているという身から、この物語を感覚的に理解できるという強みはある。今回はその感覚的な部分をすこし明文化してみることによって、感想とさせていただくことにしよう。
私自身この本をこれから仲の悪い父に読ませるつもりである。私と父はさまざまな問題から、この物語の主人公、雄一とチュウさん、あるいは、雄一と広樹のように仲が悪くなってしまっている。今では一緒の家にすんでいても、夕食時にほんのすこし言葉を交わすだけ、というところにまでなってしまっている。私自身をこのような精神的に追い詰めてどうしようもなくなってしまったのは、すべてがすべてとは言わないが、しかし極めて大きな部分で父の影響であると思っている。それを何度も口にしているが、父自身も、開き直って、ああ、全部俺が悪いんだな、となってしまっている。きちんと反省してもらって、これからの対話をしていくうえでも父にはまだまだ学んでもらわなければならないことが多いと感じている。
斉藤美奈子が引用しているように、この資本主義社会においては、父は会社という公の場に出ることになり、子供との接点が極めて少なくなってしまっているという問題がある。これは社会的な構造の問題で、構造にこそ欠点があるというわけである。私自身も父との接点はすくなかったにもかかわらず、強権的な父によって無理やり中学受験をさせられ、あまつさえ高校三年生になってからも大学受験をさせられるということになった。結果として受験をしたことは私にとってはプラスになった。それはたとえ受験する前よりも偏差値の低い学校になったとしても、私は何も考えずに法学の道にすすもうとしていたのを本当に好きな文学の道に変化させられた、という点においてはそういうことはできる。しかし、やはり結果としてはよかったかもしれないが、それと嫌なことをさせられる、自分のことを勝手に決められたという経験とは別物であり、それは区別して考えなければならないことだと思う。結果としてはよかったかもしれないが、その課程で嫌なことは嫌なことであったわけであるし、それを赦せるかというとそういうわけにはいかないのである。
この物語の雄一も、チュウさんという極めて強権的な人間を父にしてしまったがために、人間として再起不能な場所にまで陥ってしまったと考えることができるだろう。もし、父とのディスコミュニケーションがなければ、きちんとコミュニケーションが取れていれば、父に助言をこうたり、援助をしてもらうなどして、妻の不倫と息子のグレと、リストラという問題からも立ち直れたはずなのである。そのような困難を目の前にした際に、強権的な父によって育てられた人間は押しつぶされてしまう。私自身がダメになってしまったのと同じように、雄一もダメになってしまったのである。

本書のなかで一番いいなと思った言葉に線を引いた。それはこんな部分である。
「現実はね、思いどおりにならないから・・・だから、現実なんですよね」
という部分だ。もちろんこの物語自身は、こんなことをいっていながらも、現実には反映されないとしても、やり直しをする機会がもうけられているのである。もちろんこれは小説なのだから、そんなことまでいちいちずるいといっていたら批評もなにも成り立たなくなってしまうので、それは認めたうえで話をすすめることになるが、小説内でそのように言及されながらも、そして現実には反映されないという条件付きではあるが、やり直す機会を与えられるのである。やはりそれは、誰もが夢見ていることなのであり、それを仮構のなかで示すのには意味があると私は思う。それこそ小説の役目であるのではないだろうか。
だからこそ、この小説は、現実には起こり得ない、とみんながそう思っているにもかかわらず、でも、そうであったらな、そんな機会があったらな、と誰もが思っていることを描いたからこそ、名作の仲間入りを果たしたのではないだろうか。とすればである。この社会構造的に父と子というのは分断されてしまったのであるが、それこそをもう一度見直す必要があるのではないだろうか、という問題性が浮かび上がってくる。私のような反資本主義人間は、すぐにヨーロッパの諸外国のように、一日の労働時間を6時間くらいに減らしてもっと家族といる時間を増やすようにすればいい、というような安易な解決方法を提出するわけであるが、みなさんはどうお考えになるだろうか。
ともかくも、この物語がこれだけ読まれるということは、父と子の問題が社会全体のテーマであり、なんとかそのディスコミュニケーションからのコミュニケーションを取り戻したい、というみんなの希望がそこにあるように感じられるのである。

「親子って、なんで同い歳になれないんだろうね」
これもまた心に響いた一文である。私ももし、自分の父親と同じ歳で会うことができたのならば、友達になれていたかもしれない。親子になってしまったがために、このような不仲になってしまった。本当は不仲になんかなりたくない、できることであれば分かり合いたい、そう思っているのにもかかわらず、男は不器用なもので、そしてへんな意地やプライドがあるために、うまくいかないのである。
物語りとして女性の視点が圧倒的に欠けている、と著者自身も斉藤美奈子も言っている。私も確かにそう思うが、敢えてそれを排除することによってテーマが明確になっているという斉藤美奈子の指摘も正しい。私はこれはこれで十分に完成された作品であり、訴えるところの明確な大衆小説にもかかわらず、きちんと批評にもたえられるだけの力を持った作品であると思われるのである。

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