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アニメ『遥かなる時空の中で』シリーズ 感想とレビュー

mainijk (1)


今回は『遥かなる時空の中で』シリーズについて論じてみることにしよう。
『遙かなる時空の中で-紫陽花ゆめ語り-』(2002,2003)
『遙かなる時空の中で2-白き龍の神子-』(2003,2004,2005)
『遙かなる時空の中で-八葉抄-』(2004-2005)
『劇場版 遙かなる時空の中で 舞一夜』(2006)
私が鑑賞したのは、この四つだ。基本的には、26話アニメである「八葉抄」と、それと同じ世界観で描かれたその後を描く劇場版「舞一夜」について論じることになる。
ちなみにであるが、「2、白き龍の神子」は、ほとんど設定、登場人物の関係がかわらないにもかかわらず、キャラクターや設定が完全に新しくされているという作品である。うまく言葉で表現できないが、タイムボカンシリーズなどを参照してもらえばいい。女主人公に二人の子分対、二人の少年少女、という関係はかわらないものの、そこに登場する人物の名前や設定が変わっているというものである。同じ構図をなんども手を変え品をかえ同じことを繰り返しているのである。「紫陽花ゆめ語り」は、「八葉抄」と同じ世界観であるが、この作品は、八葉抄に登場する設定、キャラクターをそのままトレースして別の物語りを描いたというものである。

さて、今回アニメにして、「八葉抄」(26話)「白き龍」(3話)「紫陽花」(2話)、劇場版、を見て来たわけであるが、この作品をどう論じようかと思った際に、この作品を通底している同じテーマがあったのでそれを論じることにしよう。
そのテーマとは、多様性と仮面である。
多様性から論じてみよう。人はみな、多様的な生き物である。感情的な面があったりすれば、論理的な面があったりする。あるいはいかりっぽかったり、あるいは時として冷静であったりする。そうした様々な面があったうえで、人間は生きているのである。しかし、多様的というのは、よいことであることは確かかもしれないが、しかし反面わかりにくいというマイナス面をももつ。人はみな、こんな私もいるのよ、こんな私もあるのよ、ということで多様的に生きようとしている。しかし、その反対はどうであろうか。私たちは友人や知人をみるときに、その人たちが多様的な人間なんだ、と認識しているであろうか。もちろんとても仲が良くて何年も一緒に過ごしてきているという友人であれば、こいつは普段はきはきしているけど、時としてなよなよするときもあるよな、といった多様性を認めることになるだろう。しかし、往々にしてそんなふうに私たちは他人を見ていないはずである。もっぱら、こいつは明るいキャラ、こいつは根暗なキャラ、こいつは委員長キャラ、といったように、ある特定の一部分をとってそれを肥大化させ、こいつはこういうパーソナリティーの持ち主である、というレッテルを張ることによって生きているのである。そうしなければ、あまりにも煩雑すぎて生きていくのが大変だからである。だから一概にレッテル貼りはよくない、といえないのが現状ではある。もちろん、できることならば、多様的に受容したいものではあるが。

この作品はまずこの多様性について描いている作品である。
八葉衆というのは、それぞれの感情を誇張的に描いた登場人物たちによって構成されている。だれがどの感情ということまでいちいち指摘するつもりもないが、そのように描かれていることは疑いないだろう。それらの総体として、あかねという女性主人公は登場するのである。怒りっぽさもある、はっきりした部分もある、弱いところもある、頭のいいところもある、そうしたものすべての中心としてあかねは存在する。
劇場版のラストにおいては、多季史というキャラクターがこの多様性を演じさせられる。そもそもこの人物は舞の舞手であり、現代でいえば演劇者である。だからこそ、この人物は多様的な人間を演じる存在としても描写されるわけである。彼は最後に、あかねの瞳にうつった自分をみて、自分はなんて醜いんだとこぼす。それをあかねはこういうのである。それもあなただ、しかし、自分に濡れているときに布をくれたのもあなただ、と。そうした多様性に気づかされることによって、怨念という形で凝り固まっていた多季史は、多様性を認めることによって昇華され、浄化されるという構図を描く。

仮面について。さて、そのようにして多様的な人間は、しかし他人の視線によって多様的ではいられなくなる。となると、その間でズレが生じるのである。私は多様的な人間であるのに、みんなは私のことをこんなキャラクターとして見ている。見ているだけならばまだいいが、往々にしてそうしたキャラクターというのは押し付けに早変わりするのである。お前はツッコミキャラだから、ここではツッコムよな、というように、周りからツッコミをすることを期待されるといったように、他人によって作り出されたキャラクターというのは、徐々にその人物を縛り上げるのである。
あかねは、あかねでありたかった。しかし、竜神の神子という役割を物語によって与えられてしまったがために、現世から一緒に旅だった森村天真と流山詩紋以外には、「神子」としか呼ばれない。すなわちそれは、あかねという個人の人間ではなく、役割を負った神子としてでしかとらえられていないということである。八葉衆のほとんどの人間にとっては、あかねはあかねでなくともよいのである。例えば、黒龍の神子であるラン、森村蘭が白竜の神子であった場合、彼らはなんの疑いもなく、彼女を神子と崇み奉ることであろう。彼等にとってはその役割が重要なのであって、個人は重要ではないのである。
しかし、そんななか、神子という役割を一方的に押し付けられるなかで、森村天真だけは、あかねを神子としてではなく、自分の友人であるあかねとして捉えようとしていたのである。だから、私はあかねをきちんとあかねとして捉えられている森村天真こそが、あかねと結ばれるものだとばかり思っていた。彼にはその資格がありそうに思えたのである。しかし、作品はさらにそこを裏切っていく。

劇場版においては多季史が仮面の役割をも果たす。彼は舞手でもあったので、仮面というペルソナをつけることによって、自分とは異なったキャラクターをも演ずることができたのである。というと、聞えはいいが、実際のところは、愛されたいという本心があるにもかかわらず、人間として生きることを許されずに、舞うことだけを求められたのであり、だからこそ、舞ったら死ぬといわれる仮面をもかぶらなければならなかったのである。これは比喩なのである。私たちも本心に従っていきたいのにもかかわらず、それはかなえられない。それどころか他人によって強引に押し付けられた仮面を被らされることによって、殺されてしまうのである。劇場版では最終的に自分自身もアニメ26話のうちにおいてキャラクターを押し付けられていた者として、多季史を理解してあげることができ、彼の多様性を見出すことによって、彼を解放へと導いていく。
アニメ版においては、この役割は当然敵役のアクラムが演じることになる。彼は仮面をつけているのだ。それは彼の強さでもあり、弱さでもあるのである。

さて、この作品にはほかにもいくつか指摘しておきたい点がある。
例えばそれは差別の問題である。アニメ26話においては、アクラム率いる登場人物たちは作中で鬼と呼ばれる。詩紋も味方の人間でありながら鬼と呼ばれてしまう。それは髪の色ゆえにである。古来から単一民族で生きて来た我々日本人は、ほかの人種がたくさん存在しているコミュニティ、国と違って、いい意味においても悪い意味においても特色のある文化になっている。良くも悪くも集団的なのである。もちろんだからこそ、いい文化が生まれたとか、そういうことはなんとでも言えよう。しかし、その反面、すこしでも他人と違うことに対して極度の不安を感じるようになってしまったのは、我々の弱点というほかないだろう。だからこそ、外国からやってきたアクラムたちを髪や瞳、体格などが違うという理由で、彼等を排除しなければならなかったのである。
これとまったく同じことを、2010年公開のアニメーション映画『鬼神伝』も描いている。15歳の天童純はふとしたことからタイムスリップし、平安時代へと送られる。そこでは京都の人間と鬼とよばれる存在が対立していたのである。だが、あることから鬼と親しくなる天童純。実は鬼が、単にお面を被っていただけであり、彼等もまたまったく同じ人間であることを知るのである。
これらに共通しているのは「鬼」というものがそもそもなんなのか、という問題である。敢えて強めにいうならば、それは己自信なのかもしれない。己の、相手を怖い、自分と違った他者という存在への恐怖、それらが「鬼」という面をかぶって顕在化しているのかもしれない。
もちろんアニメではそんな心理学的なことを描いてもどうしようもないので、実際に「鬼」とよばれる人間たちは登場するし、かれらは怨霊という存在を使役することができる。しかし、現実問題として、そのように伝承などに残っている「鬼」の存在は、自分自身の恐怖なのかもしれない。

さて、一通り指摘してきた。ここらへんで筆をおくことにしたいが、最後に結局この作品はどうなのか、というところをすこし感情的にはなるが、述べておきたいと思う。
やはりこの作品、もとが女性向けのレンアイアドベンチャーゲームということもあって、きわめて女性に都合のいいようにできているという点は指摘しておかなければならないだろう。女性主人公であるあかねは、八人のイケメンによって、守られる。それは何の条件もなしになのである。もちろん作品内ではそんな事では困るので、一応あかねは神子という存在であり、それを守らなければならないから、ということになるが、そんなのは表面上の話であり、実際はただ単純に男性にちやほやされたいという女性の欲望の表れである。
さらにこの作品が消費的なのは、そうして安全に守られた上で、それらの人間とは向き合わずに、自分のものにならない敵方を愛するという点である。こんな都合のいい女があっていいものなのだろうかと、私はあかねに対しては感情移入ができない。女性諸氏においてはこの主人公に肩入れできるのかどうか聞いて見たいところではあるが。
それにしても、この女性主人公はアニメの最初こそ、そんなのは知らないと自分の役割から逃げ出そうとしている共感できる存在であったが、どうしたことか、途中からそんなことをけろっとわすれたどころか、みんなが頑張っているのに自分は何もできない、とばかりに、ずいぶんいい子ちゃんに収まってしまうのである。しかも、愛するのは敵方であるアクラムであり、劇場版では多季史なのだ。敵こそを救わなければならないと思い込んでしまっている時点で、彼女はひどくマゾヒスティックな、メサイアコンプレックスの持ち主なのかもしれない。そういうものを少しでも持っている人にとっては自分のことを認めてくれるような作品として消費するに気持ちのいい作品なのかもしれない。

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古い記事に失礼します。
アニメ版八葉抄は原典ファンからも痛烈な批判が入っていますよ。十年近く前に見たきりなので、曖昧な部部は大きいですが、漫画版や原典に比べるとだいぶ作りが雑(途中からほぼアニメオリジナル)ですし、原典も漫画にもない設定(アクラムの仮面など)の追加などもあり、かなり評価が別れています…
アニメ版八葉抄のあかねは八方美人すぎまて同性からしても少し抵抗がありますが、元々が恋愛アドベンチャーですので、フラグを立てつつも特定の人物と結ばれるような流れは作りがたい部分もあったのでしょう(DVD-BOXの購入特典で個別ENDが見られるらしい)
あかねは本来ヒロイン、すなわち「理想の少女」を体現する存在ですので、繊細さと強さを兼ね備え、何だかんだで周りに変化を促す立場…だったはずなのですが、尺の関係なのか、本人や周囲の変化と男性陣からの好意的な感情に対する説得力が薄く、非常に残念なものになっています。
まあ、チヤホヤされたい欲求を満たせれば満足なファンには十分なのかもしれませんが……。

また、彼女と対極の位置にラン(蘭)がおり、「受け止め、向き合い、前に進んでいくあかね」に対して、「拒み、逃避し、停滞する蘭」が本来の形になっています。
進めぬ者の背を押し、弱さを補い合い、支え合いながら共に歩んで行くのが「あかねという少女」の役割であるはずでした。
ですので、劇場版については、本来の「元宮あかね」を見ることができれば、評価が変わるかもしれませんが、この手の、繊細さと強さ、と言うものは、女性特有のものですので、「元宮あかね」を知る機会があっても男性には理解しがたいものであろうとは思います。
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