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『ナイトヘッドジェネシス』(24話、2006) 感想とレビュー

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今回アニメ作品『ナイトヘッドジェネシス』を鑑賞した。これは評論にたる作品だと思ったので、研究メモ程度に感じたこと考えたことを記しておきたいと思う。
なかなか他の作品のように、この作品に対して一本の論理で作品をつらぬけるほどの技量が私にはないので、論理的ではないが、断片的にいくつかの要素を抽出してみようと思う。

まずこの作品を鑑賞して、なるほどなんだか見たことがあるぞ、と思ったのは、アメリカの人気ドラマである『スーパーナチュラル』とよく似ていたからだ。同じく男兄弟が超能力をもって、さまざまな事件を解決していく、という基本的な構図は両方に共通するものがある。一応『スーパーナチュラル』のほうが初公開は2005年となっているので、もしかしたら作品関係において、『ナイトヘッドジェネシス』はその人気を受けての制作だったのかもしれない。あるいはまったく製作者たちが『スーパーナチュラル』を知らなかったとしても、ほぼ同時期に同じような構図の作品がアメリカと日本で同時に発生していることに、なにかしらの意味を見いだせるのかもしれない。残念なことに私にはこれといって納得のできる解を見付けることができなかったので、もしこれに何かしらの見当をつけられる方がいれば、お教え願いたいものだ。

この二つの作品に共通していてなるほどと思ったのは、男性2人の兄弟というのは、物語りの運営上、とても安定する、黄金律のようなものなのだという気づきであった。近代以降の作品における、主人公、という特権的な存在は、そのほとんどが一人である。大体においてしかも男性が多いわけであるが、たった一人の人間にフォーカスをして物語を進行するわけである。それが良くも悪くもここ百年程ずっと続いてきたわけだ。さて、そんななか、兄弟を主人公とした作品も出てくるわけである。そしてそれが意外と安定していて物語の進行もしやすい、という点で実にすぐれた物語のキーアイテムとなっている。
この作品も、二人の兄弟の成長物語として見ることが可能である。それは超能力の開花、コントロールという表面上の体裁をとっているが、それらは人間としての成長の比喩である。現在のアニメをめぐる、サブカルチャー的世界の多くが、エターナル的な学園生活のなかでの気持ちのいい世界の享受でしかないなかで、この作品はさまざまな事象と向き合って、辛い中をくぐりぬけ、成長していこうという、ある意味ではそれ以前の物語りの構造をとっている。
それが2006年に提示されているという点においても、意味を求めることはできると思う。それでも成長をしなければならないではないか、実際は世の中というものは辛いものだという批判になっているということもできるだろう。

他にも主人公二人制、兄弟二人制というのはさまざまな功利をもたらす。
例えば物語においてつねに片方が悩み、片方がそれを支えるということで物語に回転をつけさせることが可能なのだ。物語序盤においては、弟の霧原直也を兄の霧原直人が支え助けていくということで物語が進展していく。弟の霧原直也は確かにその能力が、相手の暗部までをも見通せてしまうというすさまじい能力の持ち主であるが、それだけ暗部を見ているのであれば、人間なれてもいいものではないかと思わずにはいられなかった。彼はあまりにも純粋すぎて弱すぎるのである。声優の石田彰もよくやると思ったが、彼は何かをリーディングするにつけて「うわあああああ」と叫ばずにはいられない。少しは成長しろよ、と思わずつっこみたくなるところであるが、彼はそれだけ純粋であるのだろうということで許しておこう。普通人間の暗部ばかりを見ていたら、人間擦れていくのだと思う。無気力のような状態になってしまうのではないか、どうせ人間なんてこんなものだという絶望をかかえてしまうように感じる。彼にそうした人間的退廃が起こらなかったのは、彼がつねに純粋でいたからなのである。だから、暗部を見るとその度にそれに極度に反応してしまう。それは翻って言えば、そうした暗部によって慣れが生じなかったということになるだろう。つねに新鮮であったわけだ。
そんなか弱い弟を兄は常にフォローしていく。私のような物語の構造にしか興味のない人間はこうした作品をそのレベルでしか享受できないのであるが、現代のキャラクターを消費していくという享受の仕方においては、この霧原直人に理想の兄像を重ねて大好き、といったような享受の仕方もあるのではないかと感じる。
物語中盤では、超能力の研究をしており、作中では二人の父親的存在になる御厨恭二郎が物語りの指導者的役割を担っていく。彼は良くも悪くも研究者といったところで、フロイト先生のような髭面に父権的な人物として描かれる。
物語り終盤では、ずっと弟を支えて来た兄直人が弟によって支えられるという構造になる点も注意しておきたい。やはりどうして兄がこれだけ支えられるのかというのには無理が生じているわけであり、なんとか直人は直也を超能力的に目覚めさせた後、こんどは自分の能力が開眼するとなって、非常に精神的に弱くなっていく。
主人公二人制、あるいは兄弟制というのは、このようにしてお互いを支え合いながら成長していくことが可能だという点で、成長物語にはもってこいの制度なのかもしれない。

また印象論程度のものでしかないが、なるほどおもしろいな、と思ったのは、敵が裏の裏をどんどんつくってくるということである。手下から登場するというそういう構図になっているわけである。敵を倒したと思ったら、実はその裏がいて、というのの繰り返しで、最終的には車いすにのった老女、アークの社長にまでたどり着くわけである。だが、それ以前に登場する人物たち、曽根崎道夫や神谷司も、ラスボス臭はぷんぷんとしていたので、そうした描きかたというのは物語を面白くするうえで、重要な表現手法になるのだな、というのが勉強になった。

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