『中二病でも恋がしたい!』(一期、12話、2012)感想とレビュー 中二病は世界を、とまでは言わないが、少なくとも自己を救いうる

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私は若いくせに、タイムリーなものを追うことが苦手な人間で、いつも後出しじゃんけんで作品を鑑賞することとなってしまう。といっても、この作品はまだ早いほうだ。2012放送だから、3年ほどでようやく追いついたという感じだ。
私にとってはここのところ、と表現したくなってしまうが、今から数年前、『けいおん!』などに始まる、京都アニメーションがアニメ、ならびにその周辺の世界を圧巻した時代があった。
今回は『中二病でも恋がしたい』の一期を鑑賞した感想としてここに少し駄文を載せておきたいと思う。

この作品はあんまりぱっとしない1クールの作品が多いなかで、なかでも特に光っていたのではないかと思う。印象批評的なことを述べると、なによりもまず、アニメというのはそもそもネットと親和性が高いわけであるが、そのネットのなかでも話題となりがちである中二病に着眼したところがよかった。
もともとアニメというのは中二病と呼ばれる症状を発症している人たちと親和性が高いというか、あるいは中二病患者がこぞって消費するのがアニメということもあり、そのアニメで中二病を描いたということには、かなりの功績があるといっていいのではないだろうか。ある意味自己語りなわけである。この作品を鑑賞することによって、無意識のうちに中二病を発祥していた患者は、これが典型的な中二病です、というケーススタディーをすることによって、ある意味治療になっていたのではないかと思う。
たとえばうつ病患者の私が、これが典型的なうつ病患者です、といってうつ病患者のドキュメンタリーでも見せられた気分、そんな気分をこの作品の視聴者は感じ取ったのではないだろうか。

しかも、その着眼点である中二病はアニメを描く際にも十分に機能しうるファクターだったわけである。中二病はしばしば誇大妄想と隣接しているので、そうした妄想をアニメにおいて具現化するというところがおもしろかった。アニメはもともと現実から浮遊したメディアであるから、これは一応現実にもおこりうることですよ、というテイストで描きながらも、簡単に妄想の世界に入ることができる。アニメだからこそできた、そういう強みがこの作品にはあったのではないだろうか。
私は原作を読んでいないが、ライトノベルの現実と非現実との接合点のようなものが、アニメにおいても見事に活かされているのではないかと思う。

さて、そんななか、私が着目したいのは、やはり中二病の現代的意味である。
どうしても批評家きどりの私のような人間は、描写されているそのものが、どのような意味を持ちうるのか、というところを考えてしまう。
中二病というのは、この作品が発表される以前も、あるいは以後も、恥ずかしいものとして、できればないほうがいいものとして考えられてきた。そこには、西洋病理学に基づく『中二病』という名称の仕方がよく表れている。中二病というのは、西洋病理学でいうところの、病気のようなものなのだから、直さなくてはいけない、できればないほうがいい、という思想のもとにおいてこの名前が付けられているはずなのである。
しかし、と私は思う。この作品を見る以前から思っていたことではあるが、この作品を通してさらに、中二病の意味のようなものを深く考えるようになった。

そもそもこれだけの現代人が中二病を発症しているのだとしたら、もはやそれは病というよりも、そういう性質なのだ、と考えるのが自然なのではないか。あるいはそういうものが出てきてしまうあたりに、現代の闇が潜んでいるということもできるかもしれない。
端的に結論を言えば、私は現代がこのような構造になっているからこそ、中二病のような症状が現れるようになった、と考えているのである。
このような構造とは、例えば高度経済成長が終わり、70年代からポストモダンの時代になった。そこではそれまで信じられていた経済的成長なども終わり、地縁血縁関係もどんどん崩壊して、人々は社会という枠組みで守られることがなくなった。人々は世界とそれまでさまざまな関係と結ぶことによって、守られ、関係を築いてきたわけであるが、その中間の部分が崩壊してしまったために、現代人はむき出しの身体で世界と結びつかなければならなくなったのである。という構造的な問題があると私は思っている。
そこでだ。我々はそのような世界と生身の身体をもって渡り合わなくてはならなくなった。もはやそこでは、何かあったらすべての責任を本人が背負わなければならない。昔は昔でさまざまなしがらみがあっただろうが、少なくともなんかあった際には、会社が、地域が、家族が、それぞれ個人を守ってくれたのである。だが、現代ではそうはいかなくなった。そのため、ちょっとしたことでも後ろ盾がないために、傷つき、再起不能になってしまうのである。

私自身がそうであるように、うつ病患者がどんどん膨れ上がり、自殺者も増大、ひきこもりなど社会との接点をなくしてしまうという方法もとられるようになる。
そのようななかで、社会との接点をうしなわないまでも、なんとかこの世界と渡り合うために人々が求めた物。それが中二病だったというわけである。
作中では、六花がその役割を担うこととなる。すなわち、父親の死という現実と向き合った際に、向き合いきれなかったために、六花は自分のなかに小さな世界をつくりあげることによって、その殻のなかにひきこもってしまったというわけである。

人々がこの現前する世界と渡り合うときに、生身ではやっていけない。それはまるで皮膚という覆い包むものがない、赤い筋肉でものにふれあっているような状態だからである。すでにその皮膚、あるいは服を任されていた存在はなくなってしまっている。
そこで人々は急遽殻を必要としたのである。それが中二病である。現前する世界と渡り合うために人々は自分のなかに妄想を築き上げることによって、それと向き合おうとしたのである。その形態の一つが、中二病というわけだ。
人々は自分のなかに、それぞれ独自の世界観を築き上げる。そうすることによって、現実ではちっともうだつのあがらないオタクで、ちっとも人生を愉しめていないどころか、不幸であるにもかかわらず、それらは設定なのだ、と自分に言い聞かせることによって、現実から目を背けることに成功するのである。
だから六花は自分の父の死という受入れがたい現実から目を背けるために、妄想の世界を作り、そこに逃げ込むことによって自我の崩壊を防いでいたのだ。

だが、この殻はいつからは捨て去らなければならない。そうしなければ社会と、世界と、いつまでたってもきちんと向き合えないからである。いつまでも、これは飽くまで嘘なのだ、設定なのだ、という生き方をしていると、最終的には何が本当かわからなくなって、自分の世界から出られなくなってしまう。マトリックスの世界である。そうはならないためにこそ、人々はいずれは自分で作り上げた殻をこわし、殻に籠っている間にできた薄皮によって、世界と渡り合わなければならなくなるのである。
それが中二病からの脱却である。とすれば、中二病は、自我を覆い包むうすい皮をつくりあげるのに必要な段階であるということがわかるはずであり、だからこそ私は中二病と言うのは必要なものだ、と宣言しているのである。中二病という期間は、いちど殻に閉じこもることによって、自分を守り、自分という人間が絶対的に大事なものなのだ、ということを気づく機会になっているのだ。そうして徐々に自分の妄想と向き合っていき、その課程の最終段階として現実と向き合うという課題に向かっていくわけである。
だからこそ中二病という期間、誇大妄想のなかに閉じこもる期間というのは必要でこそあれ、それをはずかしいとか、いらないとかいうふうに思う必要はないと、私は思うのである。

この中二病と世界をめぐる物語が、この作品では、六花の父の死、とそれへ向き合っていくというプロセスを通じておもしろおかしく、時としてシリアスに描かれているのである。だから私はこの作品が、安易な中二病批評でも、安易な中二病容認論でもなく、最終的にはきちんと現実と向き合っていくことが重要だ、それと同時に自分の妄想に閉じこもる時期もあっていい、という提言をしている作品として、十分現代において重要な意味を発信している作品と任ずることができると思うのである。

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