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斉藤環『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 (PHP新書、1998) 感想とレビュー ひきこもりが読むひきこもりの本

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この本は素晴らしかった。私が手放しでなにかを称賛することなんてほとんどない。にもかかわらず、この本は素晴らしかったのである。五段階評価で、滅多に出すことのない、5をこの本には送った。
ただ、これは臨床的な本であるから、普遍性があるとは言えないかもしれない。普通に働いて、普通に過ごしている人たちにとっては必要ないのかもしれない。そういう人たちに無条件で進められるのかというと、しばし沈黙しなくてはいけないかもしれないが、しかしそれでも、そういう人達がいるのだ、という理解のためには、是非とも読んでもらいたい本である。

この本はやや古い。斉藤環氏は1961年生まれであり、この本は、彼が臨床心理士として80年代後半に臨床にあたった患者たちをもとにして1998年に上梓されたものである。だから出版された時点ですでに、今現在から考えると、20年ちかくも経過してしまっているのである。ましてや、その対象となっていた80年代後半の人たちの状況を踏まえると、ここで書かれている内容は、25年から30年前の話になってしまう。
だがしかし、おそらく環境こそ変わったものの、社会的ひきこもりを生み出す文化的要因は変わっていないであろうし、この本は現代のひきこもりに対してもかなり有効な意味を持っているのではないかと私は思うのである。
この本は斉藤環氏が二十代後半での経験をいかして、それを三十代になって執筆したものである。ひきこもりの権威となった彼の、初期の本ということで、ここからも新進気鋭だったことが伺える。

まずこの本の読み方であるが、私自身が会社をうつになってやめてしまい、すでにひきこもりに入ってから二ヶ月経っているという現状からこの本を読むことになった。ひとつは私自身、このひきこもりがどのようになっていくのかということについて考えたかったからである。そしてもうひとつは、私のこの現状を両親にも理解してもらわなければ困るからである。
やはりなんといっても、両親はさまざまな意味で切り離せない存在なのである。様々な意味においてだ。それは悪い側面がほとんどであるが、時として良い側面もあるのかもしれない。
とにもかくにも私はこの本を読んで、改めて思ったことであるが、社会的ひきこもりというのは、決してその本人だけの問題ではないということだ。
後にサブカルチャー評論もすることになる斉藤環氏であるが、本書では文化的な解釈というのは、かなり抑制的になっている。この時点ですでに斉藤氏ならばかなりの文化的批評ができたはずであるが、この本では専ら臨床的な話題のみに終始しておいて、文化的解釈というものはあまり描かなかったようである。
だが、今ならばおそらく社会的引きこもりが、この歪んだ日本社会においてこれだけ発生するということについて、もっとかけたことであろう。
ほんのわずかではあるが、この本でも、日本のような文化がどうも社会的ひきこもりを生み出しているということを筆者は述べている。

ひきこもりには様々な要因があるが、私の場合は、スチューデントアパシーが一番の要因な気がする。もともと、大学、特に四年からかなり無気力な状態が続いていたのである。それにはいくつかの理由があって、ひとつは胃病がよろしくなく、それがずっと続いていたために、不快な刺激を受け続けたことによって、その不快に対する抵抗への意志がなくなっていくという悪い学習をしてしまったからである。
そしてもう一つは、父からは就職をしろという抑圧を、担当教授からは、あまりにも理不尽な卒論指導という名の罵倒をしつづけられたために、無気力になっていってしまったのである。
しかし、その上で私は、実際に働くという不快よりも、父親にああだこうだいわれる不快のほうをより大きなものと感じてしまい、働ける状況でもないのに働きにでてしまったのである。その結果、もともと働くということそのもの自体が嫌だったということもあり、その嫌を嫌々やらされていたために、二か月間んでうつ状態になってしまったのである。

私の病気は現在は抑うつ状態ということになっているが、その下にはスチューデントアパシーがあることであろう。
それは父親などによる過度な期待などが影響していると、本書にも書かれている。しかも、これにかかりやすいのは、圧倒的に長男が多いということである。私は父親の理不尽な欲求にずっと従ってきた。今でも思い出すのは、中学受験など嫌だったのにもかかわらず、無理やりやらされたことである。ある時私は中学受験などやりたくないと、きっぱりいったことがあった。その時には私は十発ほど、口から血がでるくらいに、父親に顔を殴り続けられたことがあった。私はこのことをおそらく一生忘れないし、一生恨み続けることであろう。そういうことの繰り返しが、私を無気力に、スチューデントアパシーへと追いやったのだ。
私は本当に父に死んでもらうか、反省してもらうかしないと気が済まない。

この本がすばらしいのは、後半が実践編として、比較的軽度なひきこもり患者を社会復帰させるための方法が描かれている点だ。
そこで重要なのは、いまとなってはあまりにも当たり前のようなことかもしれないが、しかし、我が父もそれを簡単に犯しているように、基本的人権を守れよということだと私は思う。
筆者はそれを「恥をかかせるな」とか「プライバシーを守れ」というような表現で表しているけれども、それらを総括していえば、簡単に人権を守れよということに他ならない。
特にひきこもり患者に対しては、社会のまだ無理解な部分が多く、「そんなのは甘えだ」とか「寮生活をすればなおる」といった、非常に暴力的な意見が多く散見されるのである。
しかし、と筆者はいう。そうした正論は、正論かもしれないが、決してこれらの治療には役立たないどころか、むしろ害悪である、と。

親しき仲にも礼儀ありというが、まさしくこれはそれであって、たとえ両親といえども、ひきこもり患者のプライバシーを侵害したり、あるいは、恥をかかせたりするということが、害悪にしかならないということを、この本ではきちんと描かれている。そうした記述のために、どれだけ多くのひきこもり患者が救われたことだろうかということを考えると、この本の業績というのはままならないことだと私は思うのである。
ほかにも必要最低限の暮らしはさせる。たとえば、斉藤環は、きちんと必要十分なおこづかいをあげるということを書いている。それは、ひきこもりができるだけ社会との接点を持つためということなのだ。ひきこもりにそんなお金をあげたら、よけいにひきこもって出てこなくなるではないかと親はいうかもしれない。たしかにそうかもしれない。しかし、だからといってお金を一切渡さないという非人道的な環境では、直ってやろうという気持ちも現れてこないことはあまりにも明白である。ひきこもりなんだからと、さまざまな援助を断る親がいるし、実際私の父もどんどん私から自由を奪っているが、それがまったくの無意味であるどころか、むしろ害悪にしかなっていないということを、きちんとおやは理解しなければならないのである。
なんといってもひきこもりは、1人では発症しえないのである。斉藤環の述べているように、ひきこもりになるのは長男が圧倒的に多い。その原因を考えるに、両親の存在がこの病に少なからず影響しているからなのである。それをわからなければならないのだ。

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