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『進撃の巨人』(26話、2013)感想とレビュー ひきこもりと決断主義

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いまさらながらではあるが、進撃の巨人をまとめて見る機会があったので、一期、26話を一気に鑑賞した。なるほど、この作品がここ数年大ヒットとなってブームとなったのには様々な理由がありそうである。今回はなぜこの作品がヒットしたのか、というところを成分を分析することによって論じてみよう。

この作品には宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』という本の批評が有効である。宇野常寛は『ゼロ年代』においてそれまでの90年代的発想が、エヴァンゲリオンに象徴されるように「ひきこもり」志向であったのに対して、ゼロ年代では、小泉政権による構造改革や9・11のテロに代表されるようなネオリベラリズム的な時代において、なにもしないでひきこもっていては殺されてしまうという危機感があおられ、結果として、間違った選択だとしても、なにもせずに殺されるよりかはマシだということで、間違っていることを織り込み済みで決断をしていく、という「決断主義」的な時代になってきているのである。

この決断主義的な発想は、『バトルロアイヤル』に代表されるように、ゼロ年代の前半からかなり色濃く出されていた傾向であり、いまさらそれをやったところで目新しいことはない。にもかかわらず、『バトルロアイヤル』から十年以上経過した2013年ごろにおいて、この『バトルロアイヤル』よりもさらに構造として凄惨な内容のこの『進撃の巨人』が大流行したところには、社会病理のようなものがはびこっているとしか考えようがないのである。

それは例えば、『バトルロアイヤル』がなんとか生き残るためには友人をも殺すというまさに「バトルロアイヤル」的な発想であったのに対して、今回の『進撃の巨人』では、特に序盤、なんら有効な抵抗力ももたないただ一方的に殺されるだけという構造になっている。ここではすでに想定されうる敵は、我々の力を超越したものになってしまうのである。
『バトルロアイヤル』からの十年間に私達がおかれていた現状は、決して楽観視することができない、むしろ現状認識としてはより過酷になったかもしれないのである。

そもそもまだ『バトルロアイヤル』では、倒すべき敵は自分たちと同じ人間であった。その点では、まだ理解のできる敵だったのである。ところが『進撃の巨人』では、敵は巨人であり、もはや対話することも不可能である。ただ一方的に蹂躙されるという現状において、人間達はそれらから逃れるために三重の壁を築くことによって、「ひきこもる」のである。
これは90年代のエヴァのひきこもりにも通底するものがある。そういう意味で、「ひきこもり心理主義」として、90年代のアニメ受容者たちをもこの作品は内包できるような構造になっているのである。しかし、ことは重大で、ひきこもっていては殺されてしまう、だったら間違っていても殺し殺される世界に出なければならないじゃないか、とゼロ年代において一度外に出た人類であったが、その結果、きわめて残酷に社会に虐殺されることになったために、人類はふたたび壁を築いてひきこもることになったのである。

しかし、ただひきこもっているだけではいけない。それがアニメ一話における巨人たちの進撃なのであって、百年間安全だったひきこもりは、もろくも新たな巨人によって崩壊させられてしまう。これを社会とのつながりで考えるならば、やっぱりだめだひきこもろう、と思って安全な場所にひきこもっていたにもかかわらず、それをもさらに破ってくる何者かがあったということである。
もはや我々は最後の居城であるひきこもりの家の中においても、外敵が侵入してきてしまうのである。

そこで主人公エレンは、いつまでもひきこもって現実から目を逸らしてばかりいては現状はかわらない、むしろただ虐殺され後退するばかりである。ならば、敵を殺し尽してやる、というきわめて暴力的な内なる欲求に頼っているとはいえ、その唯一の欲求を頼りに、ただ一方的に蹂躙されるだけの巨人に立ち向かおうではないかと意思を強くするのである。
この構図が現代社会と対峙している私達の現状とマッチしていたために、この作品は、覆いかぶさってくる不安をこの作品に見て取ることによって、あ、同じだ、という感覚をたよりにこの作品を享受したのであろう。
しかし、現実社会においては我々はそのままただ死んでいくだけの、この作品における一般住民なわけであって、決してエレンのように対外的にうってでることはできないのである。唯一、安倍政権などがそのような対外主義を打ち立てているが、それもやはり決断主義的な思想が強く、間違った選択肢で、しかたがないとはいえ、極めて暴力的な選択肢であることは間違いないだろう。

さて、現実的には私たちは物語の主人公になれないし、エレンのようになれないわけではある。が、それゆえにこそ、エレンのような姿は私たちの眼にはよく見えるのである。エレンは父親の秘術によってか、巨人化する能力を手に入れている。これは、未知なる相手の力を、それを危険とわかったうえで、取り込む決断主義である。この社会がせめてくるのならば、その社会と敵対するのではなく、社会を取り込んでしまえばいいじゃないか、という選択である。ただ、ほとんどの人間はただ社会に蹂躙されるだけなのではあるが・・・。

だからこそ我々は現実にはできないとわかっていながら、唯一の希望を託してエレンの物語を読み取るわけである。
そこで問題となってくるのは、そもそもこの世界における敵である巨人たちとはなんなのだという問題だ。この世界では、人間たちを襲ってくる巨人がいつ発生し、どのように発生しているのかがわかっていない。そのための調査兵団なのであるが、これはまだ、我々社会でも、私たちを攻撃してくる社会のなにかがよくわかっていない、分析できていないということなのである。

アニメ26話においては、女形の巨人が身内の人間であったことが判明する、というところで物語は幕を閉じてしまう。早く二期目を鑑賞したいものである。
このアニメの二期、あるいは漫画が人間たちを襲ってくる存在が何なのかというところを突き止めたところにこそ、この作品が現実社会をどう認識しているか、というところが見えてくるであろう。
ひとつ考えられるのは、女形の巨人が身内の人間であったように、そのほかの巨人ももとはといえば人間だったのではないかという点である。
これは例えば現在の植物が、かつての超文明をもった人間達が生きることが面倒くさくなり、光合成だけで生きられるようになった結果だといった議論にも重なってくる。そのほか、近年では、『まどかマギカ』のように、実は敵こそ自分達の成れの果てであったという作品も頻出している。このような傾向から考えると、この作品も、実はこの巨人たちはかつての人間だった、というオチがついてくるかもしれない。
確かにこれは恐ろしいもので、我々が恐怖しているその対象というのが、実は自分自身のこころが作り出したものであったり、あるいは自分達と同じ存在であったというのは怖いのである。未知なるものが実は既知なるものであったときの発見は、自分のなかに未知を発見することになり、それはすなわち恐怖なのである。

この作品が絶対的な絶望で終わらないためにも、世の中を少しでも生きるにふさわしい世界になるようにと願うばかりである。

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私は犯罪被害者でその後加害者とのエンカウントを避ける為に引きこもっていた時期があります。エレンの言動は無謀としか感じられなかったです
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