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高橋源一郎『悪と戦う』(河出書房新社、2010) 感想とレビュー

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高橋源一郎の『悪と戦う』という小説を読んだ。高橋源一郎体験は、他に『文学がこんなにわかっていいのかしら』という評論本以来である。
小説家としても文芸批評家としても活躍する高橋源一郎氏であるが、私はその評論家としての顔しかいままで知らなかった。評論家としての高橋源一郎は他の評論家に負けないくらいのするどい、理知的な評論家として、私のなかでは尊敬に値する人物として印象付けられていた。また近年では政治的発言も多く、その思想が私のものと一致していることからも、尊敬の念を抱いていた。

しかし、何人もの奥さんとその間に子供が何人もいることや、今回の小説を読んで、やや考えを変えなければならないと私は思ったのである。もちろんそれまでの尊敬の念が消えることはないが、しかし盲目的に尊敬しようという、私の青年的なヒロイシズムはやはり脱却しなければならないように感じられるのである。そうした盲目的な信仰ではなくて、ある程度距離を置いた尊敬の仕方というものを学ばなければだめなのだな、と今回この小説を読んで感じたわけである。それだけこの小説は、私の期待があまりにも大きかったこともあるが、私に一種の失望を感じさせた。

帯には「いまのぼくには、これ以上の小説は書けません」と書いてある。もしこれが高橋源一郎の小説家としての腕前なのだとしたら、小説家高橋源一郎の力はそんなに高いものではないといわざるをえない。書いている本人だからかもしれないが、この小説程度ならば、私が書いた小説のほうがよほどおもしろいと思えるのであるが。やはり小説も他の作品もそうであるが、その作品そのものより、つまり何が書かれているか、よりも、誰が書いているかのほうが重要視されてしまうのだな、というのは残念なことである。

この小説は分厚いわりに、紙が厚いので、二百五十ページほどしかなく、しかも一ページの文字がずいぶん大きく文字数も少ないことから、簡単に読めてしまう小説である。時間にして3時間ほどというところであろうか。
内容は作家高橋源一郎と思われる人物が登場人物として登場する。そのあたりは自分と非常に近い人間を主人公としてくる大江健三郎のような作風に似ているかもしれない。が、途中から高橋さん家の子供であるランちゃんと呼ばれる三歳児の子供が主人公となる。
なんと世界が崩壊しはじめているのだ、としてこのランちゃんが世界を救うための冒険に出るのである。

しかし冒険に出るというのであれば、もっときちんと出てほしかったのは言うまでもない。せめてモリエトのカラフルくらいの冒険の描写は必要だったのではないだろうか。その点を宮部みゆきなどと比べてしまうと、あまりにも力の差が歴然としてしまう。
ともかくこのランちゃんという少年は13歳ほどになり、なんどもなんども、状況、場面の異なった場所で、お友達のミアちゃんという少女と対峙することになる。
最終的にはミアちゃんを後ろであやつっていた悪の根源である存在と対峙し、世界は救われるということなのである。

この小説における「悪」とは、産まれてこれなかった子供の魂のような存在である。その存在が生まれてこれなかった悲しみや恨みといったもので世界を自分のものにしようとしてしまっているということなのだそうだ。この世界においては、なんどもそうした悪との戦いが子供たちによって防がれているという。
その結果、ランちゃんの弟のキイちゃんは、戦いのために言葉を置いてきてしまって、現実世界ではしゃべることができない状態になってしまった。お友達のミアちゃんは戦いのために顔を残してきてしまい、現実世界では奇形と思われる顔になってしまった、という説明がなされる。

この小説では、ミアちゃんのお母さんが大声を出すという場面があるが、その場面のなかで、一度自分も大声を出したことがあると高橋は言う。おそらくそれは小説内においては、産まれてくることができなかったランちゃんの姉であるマホさんが生まれてこられなかったときのことなのだろう。この小説は、作家高橋源一郎が、自分の生まれてこられなかった娘と、産まれて来たものの障害を持って言葉がしゃべれない息子のために、その理解不能性をなんとか理解しようとして生まれた小説なのではないだろうか。

一度高橋源一郎氏と同じく明治学院で教鞭を取っているエコロジストの辻信一氏の講演会に出たことがある。その際確か、高橋源一郎は自分の息子が障害を持って生まれて来たということを語っていたと記憶している。あまり作者のことを作品に持ち込むのは、テクスト理論を学んできた身としては気が引ける思いもあるが、しかし登場人物の小説家がタカハシと呼ばれていることからも想像すると、この小説はむしろそうやって自己療養のために高橋氏が納得できない理不尽さをなんとか自分の中で言語化しようとした際に生じた作品と読むことが可能だと思う。事実そうしたほうがこの小説の価値というものは出ると思うし、1人の人間の、あれだけ文芸批評のできる理知的な人間が、その理知では納得できない現状を目の前にした際にどのように言語化していくのかという点において、貴重な資料となりうるものである。

私も失恋しては小説を書き、ということを大学時代にやっていた。実際そうしてできた作品は自己療養のたまものでしかない。太宰治の小説だって、人間失格にしたって自己療養のたまものでしかないと私は思う。多くの小説が純粋な想像力によって生まれたものではないように、いくつかの小説は自己療養から生まれた物であり、それがまた作品とないうるのが文学のいいところなのである。
この作品はひとつのエンターテイメントとしてはちっともおもしろくないしつまらない小説である。しかし、これが作家高橋源一郎の、産まれなかった娘と障害をもった息子をどう考えるかという一つの考えの軌跡なのだとしたら、そこに一見の価値はあるのではないだろうか。

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