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『げんしけん』(15話、2004)、『げんしけん2』(12話、2007)、『げんしけん二代目』(13話、2013)感想とレビュー 終わりある日常のなかで

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アニメげんしけんを鑑賞した。この作品も、名前だけ知っていて実際には見たことがないという作品のひとつであった。
それぞれ1クールづつのそれほど分量のある作品ではないが、ここ10年間の間に三回放送されており、3クールぶんとなっている。
この作品がおもしろかったのは、3クールをやっている間に現実世界においても時間が推移し、その結果、その当時のオタく像を反映しているという点である。

ひとくちにオタクといってもいろいろとある。特にげんしけん一期が放送されていた2000年代前半では、宮崎勤事件などがあり、オタクというのは社会的にかなり低い地位にあった。それが2004年の電車男などによってゼロ年代の後半には、犯罪と結びつきがちな印象が払しょくされていくのであるが、げんしけん一期の時点ではまだこの社会のオタクに対する認識というのは厳しいものがあったはずである。そのようななかで、この作品は電車男とともに、それまで即座に犯罪と結びつけられていたオタく像のイメージアップのために機能した、最前線でオタクイメージアップに貢献していた作品のひとつと言うことができるだろう。

そのような逆風のなかで発足した第一期げんしけんは、やはりそこに登場するオタクたちは自分たちんい対するイメージというものは複雑に鬱屈したものであった。10年代も半ばとなり、オタクという言葉が即座に犯罪者と結びつかなくなった現代、あるいは第三期の2013年の作品においては、現代のオタクというのは自分たちのことを卑下して考えたりすることは少なくなった。しかし第一期の2004年におけるオタクは、そのまま手放しで自分たちのことを肯定できる立場にはなかったのである。
にもかかわらずオタクになってしまう、それは作品内でも言及されるが、オタクというのはなろうと思ってなるものではなく、気がついたらそうなっていたというものなのである。そうなってしまった自分をいかに肯定、しないまでもいかに受容していくのかということが問題だったのである。

このころのオタクというのはやはり自己肯定をすることができないために、極めて自己認識は卑屈である。特に一期で初めてコミケに出品するということになった場面で、久我山という人物に対して私は本気で嫌悪感を抱いた。それはこの作品がそれだけその当時のオタクの像を正確に描写することができたからである。私は第一期のげんしけんを、非常につらい思いで見たものである。それはその当時の卑屈するオタクたちのことが見ていてどうしようもなく苛立たしかったからである。だがそれはひるがえせば、この作品がそれだけ人間描写を正確にしていたということになるのである。

第一期のげんしけんはかなり成分的には厳しいものがあった。それがゼロ年代前半のある意味では誠実さだったのかもしれない。十年経過した十年代前半とはやはり感覚的に異なるものがあると思うのである。一期のげんしけんは性などについてはかなり誠実にその当時の感覚を描写していると思う。春日部咲は彼氏の高坂との性関係においてかなり作品内ではあけっぴろげに言及されている。この感覚というのは10年代のオタクである私からすると、ちょっとびっくりするように感じられる。
なぜならそれは、10年代のオタク、つまり三期目のげんしけんを見ればわかると思うが、メディア、特にテレビでの性描写の自粛、規制などが進行するなかで、また対人関係が極めてドライになってきているという社会的な情勢もふまえ、性的な関係というのが現代人には極めて疎遠なものになってきてしまっているからである。

第三期を見ればわかると思うが、一応三期目では会長となっている荻上と、その先先代であり、げんしけん一期、二期では事実上の主人公でもあった笹原はつきあっているということになっている。しかし、第三期においてはすでに二人の性関係はほとんど後退しており、付き合うという設定があったからこそ二人の関係はそう描かれていたものの、そのような前提が無い状態で今あらたにげんしけんを描くとしたら、おそらく二人は付き合わないはずなのである。そのくらい現代におけるオタクたちの性関係というのは疎遠なものになっていると、私は感じるのである。

また、この作品はその時代時代のオタクたちのイメージというものをきわめて新鮮に描写していると思う。ゼロ年代前半におけるオタく像というのは、やはり男が中心の時代だったように感じられる。しかも典型的なオタク、キャラクターでいうならば、体格が大きくてコミュニケーションがなかなかうまくとれないといったような、久我山や田中のようなキャラクターがオタク的な存在であっただろう。あるいはその反対にひ弱で貧弱で貧相、といった言葉が似合うような評論家タイプのオタク、班目などがその典型例だったのである。
そのようなオタクたちが先行するなかにおいて、新しいオタク、その当時におけるニューエイジたる笹原や高坂が、当時の作品としては新鮮だったのではないだろうか。高坂のような、ビジュアル的には非常にイケメンな男性が、にもかかわらずそうしたイケメンが無縁とされてきたオタク文化を受容しているということが、ゼロ年代の奇蹟だったわけである。だからこそ高坂は、誰よりも早く、その中身を愛されていたとは決しておもえないが、そのビジュアルだけで付き合うという当時の誠実な恋愛観によって、春日部と付き合うことになったわけである。

笹原はというと、これはそんなにニュートラルな存在ではない。かなりむっつりとした人物であり、その描写はきわめて生々しかった。そのため私は笹原に対しては、そのあまりにも人間の醜い部分を描写しているということで感情移入することはできなかったのであるが、ある意味ゼロ年代におけるそれまでの典型的なオタクではなく、それほど外見的にオタクではない、気弱な男性がオタク化していくという部分を誠実に描いていたわけなのである。
しかし、良くも悪くもそれまで悪の強かったオタクたちは、それぞれ評論ができたり、あるいは自分で漫画を描いたり、コスプレを作ったりすることができる、創造的オタクだったのに対して、ゼロ年代におけるニューエイジオタクたちは、ソフトオタくであるということもあって、自らは何も作り出すことができなくなってしまっているのである。よくもわるくも、どんどん時代が後転することによって、漂白されていくのである。

しかし、そうしたソフトオタクの時代を経て、さらにそこから十年ほど経過した十年代においては、ネットメディアの展開によって、それまでのオタクとは異なった創作活動ができるようになる。それまではかなり才能という部分に依拠した一からの創作という本格的だったものであるが、十年代における創作というのはもっと軽く、ポップなものである。本作品では描かれないが、例えばニコニコ動画を利用した、おどってみたや唄ってみたというのは、新しい創作であり、それまでの創作が楽曲をつくるというようなところからレベルとしては始めていたのに対して、かなりライトになってきているのである。
絵にしても、ゼロ年代ではペンをもって紙に書いていたのが、技術の革新によって例えばペンタブのように、PCを使用しての制作に変更しているのである。今思えば、2004年のげんしけんにおいて、笹原は当初PCを持っていない大学生であったが、10年代の今となってはそれはあまりにも考えられないことなのだ。

さて、ゼロ年代と十年代の比較はこのくらいにして、私がこの作品がすばらしいなと思った部分を論じてみよう。
それはずばり、オタク的文化がドラえもんのようなエターナル的な永遠に繰り返される日常のなかに、享楽的に入り浸っているのに対して、この作品は誠実に成長を描いて見せたということである。終わりなく日常のなかに、終わりがあったということをこの作品は、誠実に、ある意味ではオタクに対する批評の意味も込めて描いているのである。
現在においてもそうであるが、オタクが好むサブカルチャー作品というのは、どれをとってもそのほとんどが学園ものであり、しかもその学園内でおこるドタバタコメディー、あるいはラブコメというものは永遠に終わることはないのである。もちろん終わってしまったら作品自体も終わってしまうということになるから、現在の、売れたものをそのまま引き延ばして利益を獲得するというやり方においては終わることは許されないという構造上の問題はあるとしても、オタク的発想の作品は、その多くが、終わらない日常の中に耽溺しているのである。

この作品とおなじく、その作者が自分のいた部活動などがあまりにも楽しすぎてその時代から抜け出せずに、その当時を延々と繰り返す作品をつくるというのはよくあることだ。私はあまり作品を多く見ていないのでちょっと例をたくさん出すことはできないが、例えばゆうきまさみの『超人R』なんかは、高校の写真部が舞台となっており、一応先輩たちが卒業するという時間の進展が少しはあるようであるが、その基本の構造としては、ドラえもんのようにエターナル的な時間軸になってしまっているといっていい。
ところがこの作品が誠実なのは、1クールにおいて確実に主人公たちは歳をとり、先輩は卒業していってしまうのである。私はなによりも、ほとんど現実の時間軸を反映した作品を見たことがなかったので、そこに驚いたのである。

オタク的想像力の多くは、現実と向き合うということを忌避する。それはオタク的想像力が現実の前では無力であるからである。だからこそ、この終わらない日常の、つまらない社会で、社会人として消耗していく現在から目を逸らすために、楽しかったあのころ、という妄想をつくりあげ、そこに入り浸ることになる。それがオタク的想像力だったはずなのである。
ところがこの作品では、アニメ作品なのにもかかわらず、なんと就職をどうするのかとか、登場人物たちが実際に就活をしてしまっているのである。これにはおどろいた。現代において就職や就活を描いた作品がどれだけあるだろうか。それがゼロ年代の誠実な想像力だったというのならば、我々は十年の時を経て、さらに現実から遠ざかっているといわなければならない。

確かにサブカルチャーにどっぷりと入り浸っているオタクたちが実際にどのように現実社会と折り合いをつけているのだろうかというのは長年の謎だったわけである。オタクたちを描いた作品はその多くが学生時代しか描かれておらず、そこからの成長というものが描かれなかったからである。ところがこの作品では、オタクだった人達は実際に社会人になっており、オタクの第一線からは後退し、社会人としてすれてしまっているのである。そこには夢も希望もない。しかしそれを描くことがこの作品の誠実さだったのである。
だが、日本に存在するオタクたちのなかで、実際に社会に適応している人間がどれだけいるだろうか。もちろん数でいったらきちんと現実に適応できているオタクのほうが多いことは間違いない。しかし、私のように現実と折り合いをつけることができずに、ひきこもりになってしまったり、あるいはニート、フリーターのようなオタクというのは相当数いるはずなのである。
当然この作品もオタクたちが自分のことが描かれているとして見るものであるかぎり、この作品はその現実と上手くいかなかったオタクたちを描かなければならない。現実的に描いてきたこの作品の誠実さはそこまで徹底していなければいけないはずなのである。それは象徴的に班目によって描かれることになる。班目はこの3クールの最後になって、仕事をやめるという選択をとる。ある意味ではそれは現実社会において負けなわけである。だがしかし、それがこの作品の誠実さというところであろう。

もはや仕事が人生の中で一番重要であるという想像力は、20世紀のものである。21世紀にもなり、あまつさえ10年代の価値観の多様化した現代においては、仕事というのは人生のなかにおいて、趣味と同じレベルのベクトルしかありえない。班目は仕事につけなかったオタクたちの代表として、仕事をやめてくれたのである。これによって救われたオタクたちは多いのではないだろうか。

これだけ誠実にオタクたちのことを描写した作品というのは珍しい。しかも、かなり現実によせてきているというところがすごいのである。その結果として、十年ものスパンを経て断続的に描かれたこの作品は、その時代時代のオタクたちのリアルを描写することに成功しているのである。
だから資料としての一級の価値があるのだ。特に私が知り得なかった、一つ上の世代のオタクたちがどのような人種だったのかというのは2004年のげんしけん一期を見るとよくわかる。その人物たちに感情移入できずに、ただ嫌悪しかできなかった私も、ある意味では十年代のオタクたちの仲間なのかもしれない。

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