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橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』

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 ヴィトゲンシュタインとの出会いは、大学三年生の時、言葉とはなんだ?という国語を教える立場の人間として、最低限のことは知っておこうという勉強会のようなもので始めて出会った。そのときは、ソシュールの言語論なども一緒に勉強したものだったが、大学三年生で、そうした言語の哲学をまったくやったことのない私には、なんとなくわかったような気がして、なんとなくわからなかったものである。
 大学ももう卒業間近となり、やや時間に余裕ができてきた私は、もう一度哲学や社会学について、きちんとゆっくりと腰を据えて勉強してみようと思う。かつて背伸びして原典をいきなり借りて読んでいた。しかし、原典にあたってもちっとも理解することができない私は、きちんと入門書を読むことも必要だろうと考えなおした。そんな経緯があって、私はこの本を手に取って見た。

 この本はなかなかおもしろかった。私は新書には、その本がどれだけ役に立ったか、あるいはおもしろかったか、等で、五段階評価をつけている。5は本当におもしろかった。記憶がなくなったときに、もう一度読み返す価値のある本というような付け方で、1は二度と読みたくない、というような感じだ。ふつうは3。この本は4の評価をつけた。ヴィトゲンシュタイン入門としては、十分よく出来ているし、満足のいくものだと思う。人にも薦められるレベルの本だ、ということだ。
 いちおう『はじめての言語ゲーム』というタイトル通り、入門書になっている。ヴィトゲンシュタインの考えだけでなく、どうしてそういう考えに至ったのだろうか、という人間ヴィトゲンシュタインの歴史的な側面もあり、どちらかというと、ヴィトゲンシュタインの入門書というべきだろう。おびにはきちんとその旨が書かれている。

 こうして人間ヴィトゲンシュタインに触れあってみると、よくもまあきちんと生き延びることが出来たなと思わずにはいられない。ウィーンでも有数の貴族の家に生まれたヴィトゲンシュタインであるが、お金があるからといって、幸せとは限らない。それは、比較的裕福な家に生まれた私にもいえることである。大学では、あまり金銭的に豊かではない家庭の人達にかこまれたために、その裕福さをずっと羨ましがられてきた私であったが、ほんの少し裕福だからといって、ちっとも幸せではないのだということなど、だれも理解してくれなかった。ヴィトゲンシュタインもそうした思いが当然あったであろう。それよりも、むしろ、兄たちはつぎつぎに自殺をするし、第一次世界大戦は勃発するし、この本を読んでいるだけでも、うっと息苦しくなるような閉塞感を感じずにはいられなかった。常人であれば、兄たちに従って自殺しているところであろう。
 しかし、ヴィトゲンシュタインは最後、病死するまで自殺しなかったのである。私でもおそらく自殺していただろうこの雰囲気のなかで、彼はなぜ生きることが出来たのか。
 誰かが言っていた名言を思い出す。「ソクラテスは哲学のために死に、ヴィトゲンシュタインは哲学のために生きた」と。どんな文脈でだれが言っていたのかも忘れてしまったが、たしかにこの言葉は真をついていると思う。ヴィトゲンシュタインの哲学は、生の哲学、まさに生きようという意志そのものなのだ、と私は感じた。

 私には哲学的センスというものがないらしい。論理力もないし、まったくもってわからない。ただ、私に理解できるレベルの、中学生レベルの話をすれば、ヴィトゲンシュタインは、彼自身もいっているように、空り得ぬものについてを限界まで、彼なりに語ったということなのだろうと思うのだ。私たちは普段からこうやって言葉を使っているが、なぜ使っているの?どうやって使うの?ともし、面と向かって、言葉を使うことができない人達、たとえば宇宙人から言われたとしたら、それを説明することは不可能なのではないだろうか。りんご、というひとつの言葉にしても、なぞそれをそもそもりんごと言えるのか、というところから、果てしなく問いは続き、明確な答えは出てこない。出てくるとしたら、りんごはりんごだから、りんごなんだというものだけであろう。しかしヴィトゲンシュタインはその、類まれなる頭脳と論理力をもって、りんごはなぜりんごと言えるのかということを、徹底的に西洋的な論理力をもって、考え抜き、それを言葉にしたのであろう。しかし、最後までそれをやって、やはり、そうはいってもやはりすべてを言葉に書きつくすことはできぬ、と判断し、最後の有名な一文、「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」という言葉を付け加えたのではないかと思うのだ。
 これを、仏教的とか、東洋的と、これまた誰がいったのか忘れてしまったが表現されていたのを覚えている。つまり、まるのようなものを、メスをもって、四角にきりおとしているような行為なのだ。西洋の論理をつかうということは。当然つかみきれない微妙なニュアンスのような部分もでてくる。所詮言葉は、私達人間が開発した、不完全なものである、それですべてが表現できると思い込んではいけないのだろう。

 しかし、おもしろいのは、このヴィトゲンシュタインが生み出した言語ゲームという普遍性の高い概念は、私達の生活にもひるがえっていえ、自分達のこれからを考える上で役に立つものなのである、という点だ。言語ゲームというのは、誰が始めたのかもわからずに、いつ終わるのかもわからない、そんなものだ。ただ私たちはそこに来たときにはすでに、ゲームは始められており、そのゲームに参加するほかはない。私たちは私たちのこの言葉の体系を、気に食わないからといって破壊することも、やめることもできない。いや、正確にはできないこともないのだが、それをやれるだけの精神力は凡人には備わっていないといえよう。
 私はしばしば、この自分の生に対して疑問を持たずにはいられない。なぜ?といつも問いかける。なぜ働かなければならないの?食わなければならないから?なぜ食わなければならないの?生きなければならないから。なぜ生きなければならないの?大体の人間は、僕のこの質問に、甘ったれているんじゃない!と起こる。困ったものだ。あまったれているんじゃなくて、私は本当にわからないのに。
 私は最終的なことをいってしまえば、生きる必要なんかないと思ってしまっている。だから、働く必要もないと思ってしまっている。社会からみたら、バカ、か、社会不適合者か、なんとかだろう。だが、仕方ないのだ。私は言語ゲームのように、すでにはじめられていた、この社会ゲームというのが、どうしようもなく嫌いなのだ。私はそれをいい、よし、わかったと言っていない。なのにもかかわらず、どうして私は勝手に、強制的に国民年金に入らされていて、年金を払わなければならないのだろう。私には本当に年金をどうして払わなければならないのか、なぜ強制的にここに入らされているのか納得できないから、払っていない。しかし、払っていなかったら、取り立てると、脅しの文句がくるようになった。私はただ、払いたくない、といっているだけなのに、なぜ取られなければならないのだろうか。
 国のやることは、間違いだらけである。それは人間と同レベルのものだ。しかし、国は、国であるために、国がいくらまちがったことをやっていようと、それが罰せられることはない。国民年金を個人から取り立てて、なんら罰をうけないのだ。それでこちらのほうは、払わなければ罰則だというのだ。こんな不公平があろうか。
 この本では、言語ゲームはわずかではあるが、働きかけることによって、自分の思うように変えることができると、最後に結んである。私も社会ゲームに働きかけることによって、ただ生きているのが許されるような社会に変わってほしいものだ。

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