スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

夜のヤッターマン 感想とレビュー

bnr_official_0113.jpg


 久しぶりにおもしろいアニメを見たという感じがした。
 この作品は、みんなも知っているあのヤッターマンのスピンオフ作品。作品設定は、かつてのヤッターマンから遥か時間が経った世界が舞台。子孫の子孫、というような表現が為されていることからも、百年単位の時間が流れている、というような舞台設定である。

 「夜の」という言葉がタイトルについているように、この作品は、さまざまな面において、ヤッターマンの裏を描いている。「夜」という言葉にはいろいろな二次的な意味があるが、ここでは、例えば「大人の」というような意味や「暗い」というような意味が付与されているだろう。
 この作品では、今までのヤッターマンとは異なり、善悪が反転している。
 この作品を読み解く際に、どのように読み解いたら面白いかなと思ったが、やはり私の得意である、カウンターカルチャーとしてのヤッターマンとして読み解くのは、順当でなかなかおもしろいのではないかと思う。すなわち、この作品は、これまで王道であり、あるいみ牧歌的であった、ヤッターマンへの批判が込められているのである。
 かつてのヤッターマンは、ドロンボーたちが悪であり、ヤッターマンたちが善である、ということが二項対立的に描かれていた。しかし、悪はなぜ悪なのか。ドロンボーだから悪なのか、という、本末転倒式の善悪基準では現在は通用しない。たとえドロンボーであろうとも、ドロンボーが善になりうることがあるのではないか、という批判がここには存在しているように感じられる。そうした意味において、今回の夜のヤッターマンは、それまでの王道であった善悪二項対比のタイムボカンシリーズへの批判として成立しているのである。

 ほかにも、夜のヤッターマンの批判はとまらない。例えば、メカ。かつてのヤッターマンは、どうしたらそんなにすごいメカが沢山でてくるのか、と信じられないくらい、メカのインフレーションが激しかった。しかし、今回の作品では、かなりリアリズムに作品の基準をおいている。そのため、すでに物資の豊かな敵である、ヤッターマンの軍においてはまずますのメカが登場するものの、ドロンボー一味はほとんどメカを繰り出すことができない、というリアリズムに基づいているのである。

 また、どうしても私が指摘しておきたいのは、ジェンダーの問題である。
 二つ指摘しておきたいことがある。まず一つ目は、ドロンジョ様について。ドロンジョは、いままで絶世の美女として、二十代後半が想定されるような、結婚前の女性がその役を務めていた。私のヒロイン像は、斉藤美奈子の『紅一点論』の理論に基づいているのであるが、彼女は婚期をややのがしてしまった美女たちの成れの果てへの課程である。本当に女性がなれの果てまで行くと、荒地の魔女ではないけれども、敵方の女王の地位になる、というのが斉藤の分析である。
ドロンジョはいままでアイちゃんのポジションにいた人物が結婚できずにそのまま進むとどうなるのか、ということを体現した地位にいる女性であった。ところが、今回の夜のヤッターマンでは、なんと年端もいかない9歳の少女がドロンジョを演じることになる。
 ここには様々な思惑があるだろう。現在において、婚期を逃した二十代後半の女性では、なかなか作品が成立しえないという事情があるのかもしれない。なぜそうなのか、といわれても私にはまだ不勉強なもので確たる推論もできないのであるが、しかし、幼女化していく日本社会において、このドロンジョの変遷というのも、ひとつ社会の病理のようなものを反映しているような気がしてならないのである。ここに私は少しの心配を抱いている。成熟した女性だと売れずに、もっぱら幼女を愛でるような文化というのは、きちんとした人間形成をうながすことができないのではないか、と思うからだ。本来ならば、レパードの母、ドロシーが演じてもよかったのである。それをわざわざ殺してまで、まだ性別もはっきりしないようなレパードにドロンジョを演じさせなければならない、と、判断させた文化的事情は、興味に値するのではないだろうか。
もう一点。
 これは、ドロンボー一味と一緒に旅をする二人の少年少女についてである。いままでは、この少年少女たちが、主人公となり、ドロンボー一味を倒していた。今回は、表向きは、ヤッターマンたちを倒すための旅であったが、やはり少年少女の登場は不可欠なわけで、あえて味方として、この二人を登場させることになっている。さて、そのなかでも、いままでアイちゃん役のポジションであった女性が、今回は特殊な事情に描写されている。アルエットのことであるが、彼女はなんと盲目なのである。盲目のキャラクターをここまで描き切ったこのアニメには、感嘆せざるをえない。
 やはり時代とともに、なにを描いていいか、何を描いてはいけないか、というものは、変化する。四十年前のヤッターマンは、ドロンジョのお色気シーンがかなりあった。現在ではそういう描写はなかなかできなかろう。しかし、この表現描写がかなり禁欲的に、自主規制してしまうような時代において、盲目の少女をここまで描写できたというのは、なかなかすごいことだといわざるをえない。
 もちろんそこにはひとくせある。アルエットが盲目であるというのは、さらっと見ているだけではわからないように、上手く描写されている。そこらへんの描き方もまた上手いなと思わずにはいられないのではあるが、しかし、そうしなければ描けなかったという理由もあるだろう。しばしば、アルエットは普通の少女のように見えているのではないか、と思ってしまうような描きかたなのではあるが、しかしアルエットは盲目の少女なのである。
 タイムボカンシリーズは、ある意味で、男性が戦い、女性は守られ、というジェンダー規範を破った初期の作品だったのかもしれない。ガンダムに代表されるようなロボットアニメには、ある種のマッチョイズムが存在する。それは、男性が戦い、女性は守られ、というような一種の幻想であった。そのなかにおいて、女性は戦うことはなかったのである。タイムボカンシリーズでは、やや牧歌的な作風である、ということも影響しているかもしれないが、女性もきちんと戦っていた。それは大いに評価されるべき事象だと思う。なによりも、ドロンジョ様が女首領をしてドロンボー一味を率いていたのには、多くの女性が勇気づけられたのではないかと感じる。
 だが、今回はややそうした視点においては後退した雰囲気を感じずにはいられない。アルエットは、一度も戦わず、ただただ庇護される対象となっているのである。それは、盲目の女性に戦えというほどの暴力性にならないでもないが、しかし、盲目の女性にしなければ、少しは戦えたかもしれないのだ。彼女を盲目にしてまでして、庇護の対象にしなければならなかったのはなぜなのか、私はここに、やや屈折した男女観があるのではないか、ということを指摘するだけしておこうと思う。

 私はなんだかんだいっても、この作品に対して肯定的である。久しぶりにおもしろいアニメを見たな、というのが素朴な感想である。
 だが、よい作品だったからこそ、批判の熱もこもってしまうものだ。ここは愛ゆえにそう述べているのだと読み解いてほしい。
 欲を言えばであるが、ワンクールでは短すぎた。やや回収されきっていない感じがしないわけでもない。特に最後はまったくひどい、といわざるをえない。おしおきだべ、と言われて放たれたレーザービームによって、ドロンボー一味は海中に沈んでしまうわけであるが、その後どうなったのか、わからない。ここで終わってしまうのは、読者への裏切りではないだろうか。
 ほかにも、アルエットの父親がゴロウであったというのはいいのだが、その話にしても、もうすこしアルエットとの邂逅があったりしてもよかったのではないかと思わずにはいられない。要するに、そうしたものを描き切るだけの時間が無かったのではないかということなのだ。
 だが、それ以外は、よい批判精神をもっていた作品だったし、その上王道をいっている感じもして、建設的な雰囲気も出ていたのでよかったのではないかと思う。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
201位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
15位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。