スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アニメ蟲師 一期 研究ノート

20150119211847956.jpg


蟲師を鑑賞している。すべての話にコメントをするのは体力的につらいものがあるので、割愛するが、特筆すべき点を羅列的に記していきたい。
蟲師とよばれる存在がいる。医者のような存在であり、もっぱら蟲に関係した仕事をする専門職人である。
片目である点など、どことなく、手塚治虫のブラックジャックを彷彿とさせる。おそらくブラックジャックからの影響もあるだろうし、と同時に、ブラックジャックへのオマージュもあることであろう。ブラックジャックがもっぱら現実的な命に対して現実的な処方、手術を施したのに対して、蟲師は、我々が生活している現世からは離れた、あるいはクロスオーバーしている浮世、あの世との交流を通じて、異世界に働きかける。
一話から三話は、特に特筆すべき点はない。蟲が人々に寄生し、蟲師がそれを駆除する、という単純な内容である。
ところが、四話目の「枕小路 」は、ややスタイルがことなってくる。この回はきちんと書いておかなければならないと思った。
というのは、これまでの話が、寄生、駆除、という単純なスタイルであったのに対して、今回の枕小路は、単純に駆除できない、というのである。これはいったいどういうことか。それまでの蟲は、例えば目や耳といった器官に寄生する蟲であった。しかし、今回は夢である。この夢というのがくせもので、夢は現実のものではないので、現実的な対処ができないのである。
それから、この回が他の回と異なるのは、最後まで寄生された人物が救われない、という点においてである。他の話では、寄生された人物たちには、それなりの救済がまっていた。ところが、この回では、寄生された人物は救われない。しかも、三度も救われないのである。
まず一回目。蟲師の処方箋をもらったにもかかわらず、救われることはなかった。荒廃し、1人残された彼のもとにやってくる蟲師。対策を考えているうちに、彼は夢を見はじめ、彼岸の世界とこちらの世界を結び付けてしまう。その媒体となる枕、その正体を見破った彼は、枕を切り裂いてしまう。が、それと同時に彼自身も傷ついてしまう。枕は、魂が宿る場所として、すでに彼と切っても切り離せない関係になっていたのである。ここで、話しが終わってくれれば、まだなんとかこの話はよかったよかったと、観終わることができたのである。しかし、だ。この話はここで終わらない。
直接は描かれないものの、夢を見なくなった彼は、その後自分というものを亡くしていき、ついには自分に刃を立ててしまったというのである。これは、蟲師のモノローグによって語られる部分である。が、なぜ彼は死ななければならなかったのだろうか。やはりそこには、自分の分身である夢を切り捨ててしまったというところに原因が求められるのであろうか。
とすれば、この人物の罪はなんだったのであろうか。彼に罪はなかったはずである。そして蟲師も作中述べているように、夢にも罪はない、その生をまっとうしていただけなのである。とすれば、これは、人間の生まれてしまった悲しみ、といった、生きる上で、夢をみてしまう、というそのもの、生きることそのものが罪である、というある種仕方のない部分を描いているのであろう。人間は生きるうえで、どうしたって他の動植物を殺して生きるほかはない。そうした生の悲しみ、罪といった類に分類される話なのである。人間は生きる上で、夢をみずにはいられない。そしてその夢は、人に害をなすものもふくまれてしまう。そうした夢と向き合い、共に暮して行かなければならなかったのである。
だが、そのわずらわしさから解放されたかった彼は、それを一刀両断してしまった。もし、彼に救いが与えられないのだとしたら、ここにこそその原因が求められるだろう。つまり、彼はそのやっかいなものと、死ぬまで一緒に付き合っていかなければならなかったのである。彼はいわば、自分の分身であり、生きる希望である、夢をたってしまった。それが害をなすから、ということで。その結果、彼は生きる希望や自分自身というものを見失って、ついには自殺してしまったのである。
なんとも救いようのない話ではあるが、この回だけ、とくに内容が複雑で、考えさせられる内容であった。

「露を吸う群」
そもそもこうした蟲師の不可思議な話は何を意味しているのだろうか。芸術に対して、これはなんですか?と聞くのは愚問であり、それはそれでしかない、という答えはもっともである。しかし、こうした一見すると不可思議な物語りになにか意味を見出すということも、時には必要なのではないか、あるいは、もしかしたら意味があるのではないか。
今回は、このような物語り仕立てにはなっていたが、それが示しているのは、比喩だと感じた。比喩、アナロジーを用いて現代を描写している。現代の何を描写しているかといえば、それは現代の時間間隔についてである。
今回、蟲に寄生されると、その人物は、ちょうど24時間ほどで、一生の始まりから終わりまでを体験することができるようになる。一度その濃密な時間間隔で生きてしまうと、その後人間の時間間隔に戻った際に、その時間間隔に耐え切れなくなってしまうのである。人間の時間間隔は長い。現在では平均80歳をすぎる程である。そのような時間を持った人間の時間間隔というのは、非常にゆったりとしたものであり、長大である。そのような引き延ばされた時間のなかでは、もはや、刻一刻は、ちっとも魅力的ではない。
それに対して、一日で最初から最後までが起こる時間間隔では、その時その時が、とても濃密であり、満ち満ちている。もちろん、本来ならば、その一日、24時間でその命は終わってしまうのであるが、なんと今回のイキガミと呼ばれる現象では、一日で一生を終えているのにもかかわらず、それをなんども繰り返せるというのである。毎日が一生分であり、それがずっとつづく。そのような特殊な時間間隔を体感してしまうと、もはや通常の時間間隔では生きていくことができなくなってしまう。
そして、この物語では、そのことをとても悲しく描いている。
さて、ここで現代について考えてみよう。我々は、普段忙しい、忙しいといいながら生活している。なぜ忙しいのかといえば、我々が生きている社会は、資本主義社会だからである。資本主義社会において、重要なのは、お金と時間。資本主義の社会では、時間をお金に換算して生きている。
イキガミの状態はまさにこの資本主義社会に生きる現代人であろう。それに対して物語の一般人は、資本主義になる前の人の在り方、農村時代の時間間隔だ。一度資本主義の濃密な時間を味わってしまうと、それまでに存在していた農村的なゆったりした時間間隔があまりにも遅すぎてついていけなくなってしまうのである。不安になり、何かをしていなくてはたまらなくなる。だからこそ、一度農村の時間軸に戻されても、再び資本主義の時間に立ち返ってしまうのである。
しかし、それは実は悲しいことなのではないか?ということで、この物語は、資本主義の時間軸に生きる我々への批判となっているのではないだろうか。

「やまねむる」
そもそもタイトルともなっている蟲師とはなんなのだろうか。
今回はギンコ以外の蟲師、ムジカが登場することによって、蟲師の正体が徐々に明かされていく。
蟲師には、蟲師について修行することで蟲に対する知恵、知識をつけ、それに対応することができるようになるらしい。この回で登場する少年は、ムジカの弟子を名乗り、蟲師の技をいくつか披露している。
もちろん、センスのようなものがあるのだろう。誰もが医者になれないように、蟲師はわずかな人間しかなれないのだろう。
ギンコと同様、蟲を呼び寄せてしまう体質であったムジカは、一所に定住することはできない。すれば、蟲の巣窟となしてしまうからである。では、その蟲を呼んでしまう体質の蟲師が一所に定住するにはどうしたらいいか。山の主となって、その地一帯を支配下に置いてしまえばいいというのである。もちろん、それは一つの選択肢を示しただけであったのだけれど、ムジカを好いたサクという女性が、その話を鵜呑みに死、山の主を殺してしまう。その結果山の主となったムジカ。
しかし、彼は自分の死期を悟ったのか、あるいは生きることに疲れたのか、山の主であることの辛さに耐え切れずに、山の主であることを放棄することとなる。しかし、里の民を心底心配しているムジカは、次の山の主を決め、その地一帯をおさめなければ気が済まない。当初弟子である少年をというそぶりを見せていたものの、山の主の役割は重く、それを少年に引き継がせるわけにはいかなかった。であれば、山の主は、本来の蟲たちに戻すのが正道。白蛇を呼び寄せることによって、自分の命と引き換えに、山の主を交代することにした。
この回からわかるのは、蟲師が業深き生業であることである。

「眇の魚」
蟲師をここまで鑑賞してきて、この作品がまったく明るくないことがわかってきた。123話あたりまでは、寄生された人物たちが最終的には救われて一応のハッピーエンドにはなっていたものの、徐々にそれは影をひそめ、最終的にバッドエンドと呼べるような展開のものも多くなってきた。
特にこの「眇の魚」では、まったく根本的な解決はなされず、ただ淡々と事象が展開していくだけである。まさか最終的にまで、なんの解決も示されないとは思わなかった。こういう読者を突き放した態度というものも、ひとつ、大衆に迎合する作品が多い中で、批判的スタイルとなっているといえるだろう

「沖つ宮」
人にとっての幸せとは何であろうか。
蟲師は静寂をたたえたアニメである、ということができるのではないだろうか。蟲師は何かに熱くなったりはしない。それは感情を通すことによって、真実が見られなくなってしまうから、ということもあるだろう。蟲師は誰かの味方をしない。情に流されれば、この世界をいくらでも変えてしまう力をもっているが故である。力をもっているがゆえに、すべてを自然の流れに任せる。その流れが不自然になった時だけ、力を駆使して、もとの流れに戻す。それが蟲師の仕事なのであろう。
蟲師は、つねに蟲を駆除するわけではない。人間に悪さをする蟲を駆除することはあっても、自然と生きている蟲を殺したりはしない。もちろん、そういう蟲を殺す蟲師の存在も、蟲を退治した話を記録する少女が登場する回で描写されたりはする。
しかし、キンゴに関していえば、彼は蟲を駆除することを第一の目的としているのではない。彼はできうることならば、非暴力で解決したいという、ガンジーのような、あるいはスターウォーズのジェダイのような存在なのである。
沖つ宮では、取り込んだ生物を、胚にまで戻すという作用をもつ蟲が登場する。
その習性は、里に住む人々のなぐさめとなっている。死者をそこに持っていけば、ふたたびその人物と同じ人物を産むことができる胚にして戻してくれる。里の人々は、死にゆくものの悲しみと、残されるものの空白を埋めるために、その蟲と相互依存して生活しているのである。
キンゴは、この強力な蟲を駆除しようとはしない。たとえそれが人間の律に反したことであったとしても、それが人々と、そして蟲にとって困らない関係であったのならば、両者が幸せでいられるのであれば、それはそれでいい、と見逃してしまうのである。
キンゴが歪んだ正義感のようなものを持っていたら、この作品は、より大衆的になり、わかりやすい物語になっていたことであろう。
しかし、この作品はそうしたわかりやすさや正義感というものに囚われずに、ほんとうのところは、ぎりぎりでよくわからないのだ、という前提に基づいているために、大衆的ではなくなったが、作品の深みは増しているのである。

蟲師 一期 総評
蟲師をみて、その独特の世界観にたっぷりとひたることができた。
古くから日本には八百万の神がいる、という。このアニメーションは、近代文明の開化によって失われてしまった日本の原風景のようなものを描き出しているのではないだろうか。
もちろん、こうしたアニメーションが生まれているのは、文明であり、それは自己矛盾といえなくもない。原発に反対しているジブリ映画が、その原発によって生み出された電気でアニメを作っているのと同じように。このアニメで描かれていることは、このアニメをみている都会っ子には本質的には伝わらない。しかし、それでもなお、ここで描かれていること、自然との共生を訴えずにはいられないのではないだろうか。
このアニメを見ていて、こんな感想に出会った。

「昔風の山里の風景、生活・・・懐かしく思える。
子供や女性の顔も穏やかで癒される。今時のきつい眼つき表情とはまるで違う。
不思議な世界に引き込まれる。」
「第1期 看破したわ。やっぱいいね。懐かしい気がします。こんな山少なくなったね。蟲は見れないけど 気配はあるように思いますわ。」

民俗学者、文化人類学者風の様相をしているギンコ。確かに、自分達人間とは異種のもの、異世界のものと対峙するとき、ギンコはああいう格好になるのかもしれない。あるいは、作者自身が、異世界のものに対峙する人間として、民俗学者や文化人類学者を思い浮かべたからああいう格好になったのだろうか。
時代ははっきりはわからない。そもそもギンコが何人なのかもわからないし、なぜ白髪なのか、なぜ片目を失っているのか、26話のなかで明かされることはない。(後から見直して、ヌイとの話が、ギンコの小さいころの話であったことがわかった。ギンコはトコヤミに呑まれたために片目を失い、髪が白くなり、それ以前の記憶を失ってしまったのだ)
だが、他の登場人物たちが着物をきている様子をみると、江戸時代あたりの話なのか、と予想がつく。ギンコが時たま使用する道具類も、江戸時代中期から後期にかけて存在していたようなものだ。
ただ、江戸時代にはギンコが着ているような服装は輸入されてはきていない。そうした点で、現実世界の時間軸にこのアニメを無理やり組み込もうとするのは、あまり意味が無いように思われる。
大体時代としては、江戸から明治あたりの話で、我々が生きているこの世界とは異なった世界の話として理解するほかないだろう。

このアニメをみて、多くの人は自然を思い浮かべることだろう。それは先に引用した感想からもわかる。この場合の自然とは、文明と相対するものとしての自然である。人々は自然の驚異にさらされながらも、自然との共生を通じてたくましく生きている。もちろん文明に守られていない分、自然の強さに負けて、命を落とすものもたくさんいる。しかし、そうした悲しみを含んで、自然のなかで人々は生きているのである。
そうしたつねに死、という自然と向き合って生きている人々というのは、怒らない。文明は確かに人々を死という自然から遠ざけはしたが、しかし、人間はどこまでいっても、自然なのである。必ず死ぬのである。死という自然を遠ざけることによって、文明の中で我々は無意識のうちに不死というものを信じるようになる。そこで突如として頭をもたげる死。現代の人間はこの死にきちんと向き合うことができなくなっている。また、自然災害などの理不尽なものに対する抗力がなくなってきているのである。
このアニメを見ていると、文明というものとは遠く離れた、まだ我々が自然と共生していたころのことを学ばせられる。人々は不条理と向き合い、たくましく生きている。どんなに自分の親が死のうが、自分の子供が死のうが、自分のパートナーが死のうが、そこに描かれた人々は、自分の生をまっとうせずにはいられないのである。強いな、と私はこのアニメをみて思った。
現代人が忘れてしまったものを、このアニメは描こうとしたのではないか、そのように感じる。


コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
156位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
12位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。