スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『トゥルーマン・ショー』(1998) 感想とレビュー 認識をめぐる冒険

20100411063226.jpg



『トゥルーマン・ショー』は哲学や文芸批評の世界ではちょっと有名である。それは、人の認識の問題に深くかかわっているからだ。
 私自身は一度も見たことがなかったわけだが、文芸批評や哲学入門書などを読んでいると、しばしばいろいろな筆者がこの映画のことを紹介しているのに出会う。何度か私も、自分の人生がすべてつくられたもので、それがテレビ放送されている作品がある、ということを、そうした批評などを通じて知っていたのである。
 今回私は、そうした以前批評で出会っていた作品をじかに見ることができてよかった。感動の対面というわけである。
だが、もともとそうした批評で知り得たから見ようと意図的にしていたことではない。私はかなり感覚的なところがあり、映画をレンタルするのも、メジャーどころを数本抑えておこうというのと、感覚的にこれだ、という作品とをいくつか勝手に借りる方式を取っている。今回のこの作品とは、おそらく有名どころかなにかからひっぱってきたのであろう。
 この映画をみて、あ、あの批評にあったやつだ、と思い出したわけである。

 この作品は自分の人生が全て他人によって作り上げられた虚構だった、という話である。
 なぜこの作品が、文芸批評や哲学入門などで取り上げられるのかというと、それは先にも述べたが、認識の問題に深く関わってくるからである。
 哲学には、そもそもこの世界ってなに?という問いがある。それは、私達はこの世界をどう認識しているのか、あるいは私達と世界とのつながりはどうなっているのか、という根源的な問題である。あまりにも疑いまくって、最後の最後までたどりついたところで、「でもこの疑っている自分は確かだ」(コギトエルゴスム)ということを述べたのが、デカルトだというはなしは、高校の世界史の知識である。が、そこまでいかなくとも(というか、そういうふうに考え付くこと自体が西洋的であるが)、自分の認識している世界は、仮にあるとして、それが実際はどういうものなのか、というところはやはり謎に満ちたものなのである。
 普通こうした問いは子供が抱く。どうしてどうして?と大人に聞くも、大人は答えてくれない。いつの間にかそうした問いをすることをやめ、問いに答えてくれなかった大人になるのが、必定である。
 が、時として、哲学者のようにその「なぜ」を捨てられない人物がいる。そうした人達が、こういう映画をつくれるのだろう。
例えば哲学の世界では、人間の認識は、人間の脳内に小さなスクリーンがあって、そこに投影されたものを、脳内の小人が認識している、という認識論がある。これは不思議な認識論で、一見確かにそうとも言える、と感じてしまうところもあるが、ではその小人はどう認識しているのか、というと、その小人の中にも小人がいて、という鏡の中の鏡になってしまうのである。
 他にも、映画『マトリックス』のように、水槽に入った脳として哲学の世界では有名であるが、そもそも私たちは脳しかなく、そこに電子信号が送られて勝手な認識をしている、という説もあるくらいなのである。
 この作品は、きわめてこうした哲学の世界の認識論に近い世界の話をしているのである。我々の認識しうるこの現実というものが、一体どういうことなのか、ということなのだ。

 私自身の話をすれば、最近仕事を始めたのだが、辛くてしょうがない。そうして精神科医などにかかって、薬を出してもらうのだが、そうした薬の効果というものは、感覚を鈍らせ、辛い、という気持ちを麻痺させるようなものになるのだ。そうするとどういう状態になるかというと、なんだか一センチくらい浮いているような、浮遊感、世界から離れた感覚を味わうことになる。
 この私の前で繰り広げられている世界というのは、私とは直接関係はないのだ、これは私の眼前で繰り広げられている一つの演劇のようなものにすぎない。そうなると、辛い、という感覚をあまり味合わなくてもよくなる、という寸法なのだろう。
 だから、私はこの映画をみて、実にリアリティ強く鑑賞したものである。
 確かに、私の眼前で繰り広げられている世界というのは、すべて私のために用意された周到な芝居なのではないかと。
むしろ、現実があまりにも辛すぎる人は、こうした認識をすることによって、己を守ることができるかもしれない。私がこの映画を観ていて、一つ不安になることがあったのが、それは何かというと、実は本当は、すべて彼の思い込みなのではないか、というオチであった。
 この作品の中では、本当に撮影されていた、というオチがつくために、観客は安心してこの映画を観終わることができる。だが、現実世界においては、そうした意識というのは、人間だれにでも存在し得るわけで、その認識がもしも、虚構のものだったとしたら、つまり、すべては自分のために作られた周到なセットなのではないか?という認識が、思い込みだったとしたら、という恐怖があるのである。

 もしも、私が不安におもったオチこそが本当のものだったとしたら、この作品は強度の神経症者の映画に早変わりしてしまうわけで、ホラー映画の仲間入りである。
 最後まで本当に撮影されていた、というオチがあるために、なんとかコメディタッチな映画になってはいるが・・・。
それにしても、この映画が示すのは、いったいなんなのだろうか。
 私たちは他者の日常を消費するということに、なぜそこまで欲求するのだろう。
 それは、この近代が生み出した資本主義の、視る欲求なのかもしれない。そもそも日本では100年前のデパートが出来始めたころから、商品は陳列され、ショーウィンドーが立ち並び、私たちは視る、ということを覚えたのである。そしてその視るということは、次第に欲望となり、さまざまなものを欲求していった。サルトルなんかは、その視るが自分に向けられた時、視られる、ことになり、それが怖い、視線恐怖症の発祥だと述べているが、近代とは本質的に視るということを内包しているのである。
 だからこの作品は、作品のなかで視聴者たちがトゥルーマンのことを視るのは、資本主義的欲求といっていい。視聴者たちは、自分ではない他者の、ほんとうになんでもない日常を視ることによって、自分達の欲望を充たすのである。取り立ててなんということのない日常を視ることが、資本主義社会における人間の欲望なのである。それは、すぐさま、隣の家を望遠鏡でのぞく、というのぞき見、古代日本においては貴人が家の娘を見る垣間見、などに通底する、視ることへの欲望である。
 トゥルーマンは、自分が一方的に視られている存在だということに気が付くことができた特権的な人間である。だからこそ映画の主人公たりえたのである。しかし、この消費されるトゥルーマンを失った作品世界はどうであろうか。一度はトゥルーマンの本当の気づきに、涙しながら感動するものの、おそらくは、すぐに日常生活に空きて、他人の日常を欲望することになる。その自分の日常と他者の日常には本質的には差異などないはずなのに、他人の芝は青く見えるのが人間の必定、他者の日常をこそ人は希求してしまうのである。
 その世界では第二、第三のトゥルーマンが生まれることになるだろう。
 私達もまた、この映画から学べるのは、他者の眼を生きるのではなく、自分の思う世界の扉をひらいていこう、というやや教訓めいたことなのかもしれない。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
224位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
16位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。