スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

憎愛 二十六

student-reading-in-library.jpg


その日は、千里に悩み事があって相談に乗っていたのだと他の教員には説明して、千里を車で駅まで送った。実際、生徒のなかにはかなりいろいろな問題を抱えているものが多い。そうした生徒に頼られた教師というのは、確かに大きな時間を割くことになるが、自分を頼ってくれたこと、生徒の相談に乗れることなど他の職場にはないより人間的な部分を感じることが多い。このようなことは日常によくあることなので、他の教員に怪しまれることはなかった。
二人は秘密を共有したのだ。それは二人が望んでいたことであった。文化祭は二日間ある。文化祭当日は、学内で二人が通りかかった時などは、二人とも実に優しい眼をお互い交わしたものであった。かわいそうなのは出来の良い男子生徒だ。彼は千里が自分に好意を寄せているのだろうと思っていたものだから、文化祭の当日になって二人で回ったらきっといいムードになるだろうなどと夢想していたら、どうしたことかすげない態度をされてしまった。自分が何かしたのだろうか、この間まで一緒に学校から帰ったりしていい雰囲気だったのにどうしたのだろうと、愉しい二日間を苦悩に費やした。
優也と千里は充足というものを感じていた。二人は大人であった。優也の精神は人間としてかなり円熟した人のそれと同等であった。千里はそのような優也に教えを受けていたので、当然社会人くらいの精神を有していた。二人は決して自分たちのことが周囲の人間にわからないように振る舞えるだけの演技力は有していたのだ。最初からかなり仲の良い先生と生徒であった。その印象が強い回りの人びとにとっては、二人の関係は以前とかわらないように映った。優也はやっと、今までずっと追い求めていた充足というものを感じることができた。もちろんそれは千里にとっても初めてのことであった。だが、優也はずっと失い続けて来た人生がある。それが千里という女性によって満たされたのである。優也は倖せという文字をふと自分の手記に書いた。
優也のひび割れたこころには、倖せや幸福ということばが染み渡った。千里の愛が、彼のこころのひびを埋め、癒したのである。それはまた、多感で不安定になる彼女にとってもそうであった。人生をこれほど苦悩しながら生きて来た人はいない。彼は自分の生にいつまでも自信を持てないけれども、そのために道を知っている。優也は彼女によって満たされたために、一時的に急速な回復を見せた。またノイローゼになってきたなと思われていた優也は、それまでとは見違えたように元気で、光あふれる眼をしていた。優也のこころからは、様々な言葉が飛び出してきた。彼はそれを取り零すまいと、毎日著作にかかった。千里は、不安で押しつぶされそうななか、満ち足りたことによって受験勉強に専念できるようになった。
二学期は文化祭が終わると、すぐに試験があり、そしてあっという間に過ぎて行った。三年生を受け持つ教員はここでやっと息がつける。大抵の場合、教員は三年のサイクルを持っている。優也もまた、次年度から新一年生とともに三年間を過ごすということになるだろう。多くの教員は学年と一緒に持ち上がるのだ。だが、中には様々な事情がある。私立と言えど、教員の移動はあるものだ。だから時にはあがったりさがったりということはあった。優也はこの三年間別段移動はなく、千里の代と一緒に持ち上がってきた。そして、やっと三学期になった。生徒はまだまだ息を抜けない。抜けないどころかこれからラストスパートになる。三学期は受験勉強のため三年生に授業はない。この期間、どれだけ頑張れるのか、それが教師の心配のもとであったが、しかし教員としてできることはここまでで終わりだ。やっと一段落あり、教員もしばらくは心静かに暮らすことができる。
優也はその期間、ずっと家に籠り本を書いていた。彼は、非常に満ち足りた充足感のなかで生活していた。だが、彼にはどこか急いでいるような様子が見られた。早く本を完成させなければならないという思いがあった。
千里は精神的に充足したことから受験勉強が捗った。いつもそばには優也がいると思って勉強に向かった。それでも、彼女は時に不安に駆られることもある。そんな時は優也にメールをして、会いたいということを伝えた。優也も、時には受験生と言えど息抜きが必要だと思って、そのようなメールがくるとどこかに誘い出したり、あるいは優也の家に呼んだりもした。生徒を自宅に入れるのは初めてだった。いや、生徒に関わらず、ほとんどの人間を優也は家にいれたことがなかった。だから生徒を入れるのはどこか気が引ける部分があった。だが、生徒としてではなく、恋人としてならばいいと自分に言い聞かせた。
優也の書斎を見て、千里は一驚した。普通の家のなかに図書館があると思った。優也の書斎は壁三面をすべて本に囲まれていた。
「うわ、すごい」
「すごいだろう」
「これ何冊くらいあるの」
「そうだな、数えたことがないけど。ここからここまででざっと百冊くらいか。とするとそうだねえ、この棚ひとつで千くらいか。かける、いち、に・・・・・・どうだろう、合計で二万弱くらいあるんじゃないかな」
「二万・・・」
「かなりアバウトだけどね」
「これ全部読んだの?」
「いいや、まさか。そんなことをしていたら人生が終わってしまう。半分も読んでいないさ」
「あー、びっくりした。全部読んでいたら私は絶対優也さんに勝てないと思ったもん」
「全部読んでいないとしても、僕に勝つためには大変だぞ。だって、千里がこれから沢山読むだろう。だけれども、その間に僕もまあ千里ほどでなくても読むだろう。すると、また千里は読まなければならない。その間に僕も読む。ほら、一生千里は勝てないよ」
「頑張るもの勝ってやる」
「いい心意気だ。そのくらいでなくちゃ」
優也は微笑んだ。この幸福がいつまでも続くといいと思った。
次第に寒さが強まってくる。例年にない暑さの続いたこの年の夏、優也は一度死の深淵まで降りて行った。その時には、酷暑と豪雨の連続によって大勢の人々が流されていくのをそこに見た。夏に殺された多くの人がその深淵をすすんでいった。優也はそれを見ていた。だが、優也がそこでぼんやりしているところ、後輩の導久が隣に立っていてくれた。そして、優也が帰るべき場所を指示してくれた。そこには導久の父や、優也の友人、生徒たち、そして千里が待っていた。再びこの世界に戻ってきた優也は、そこでこれからこの世に希望の光を与えるであろう少女によって救われた。それは彼が死の深淵に行く前から磨いていた宝石であった。彼は一時期、その宝石を忘れてでも死の深淵までに陥らなければならないほど深く傷ついていたのである。しかし、暗黒の世界に居た時、ふとこの世界から差し込む光があった。それは千里の希望の光であった。皮肉なことにその光り輝く宝石を磨いていたのはほかならぬ優也自身だったのである。彼は自分が磨いた宝石によって、自分が帰るべき場所に戻ることができた。そしてもう一度その宝石に触れることができた。今度は彼岸に行く以前よりもずっと深く、触れることができた。だが、自分のエゴを捨て去ろう捨て去ろうとしていた彼にとって、いつまでもその宝石を自分の手元においておくことは許されないことだとわかっていた。そして一度は手放そうとしたのだ。しかし、その宝石がいざ自分の手元から他の人間の手に渡ろうとしたときに、彼は自分でも予想しなかった感情が沸き起こり、それを阻止してしまった。だけれどもそれでいいと思った。エゴは完全に捨て去ることはできない。エゴのない人間などというものは精子の段階で他のものに負けているのだ。裏返して言えば、この世に生まれた人間はすべてエゴの塊だ。生まれる以前から何億という競争の勝者だ。その勝者ばかりが集まったこの世界でまた競争をする。果たしてその競争をする必要があるのだろうか。もし、またさらにこの世界での競争にかったら、別の世界にはまた、様々な世界の競争を勝ってきた存在があるのかもしれない。勝ち続けるということは最後まで終わりのないことなのかもしれない。優也はそれを考えた際に、もう自分は敗者でいいと思った。ここまでの人生は確かに辛かった。しかし、最後の最後になって美しい宝石を眺めることができた。しかも、一時的ではあるがその宝石は自分のものになった。このちっぽけな人間のエゴを満たすのには十分すぎるほどだ。自分はこれで満足だ。エゴを最初から捨てようとしたのには失敗したが、一端満たしてやれば、わずかな期間だけ満足になり、何もかもを手放すことができる瞬間がやってくる。この時に賭ければいい。その時までにすべてを用意しておけばいい。その時はもうすぐ来る。それまでに急いですべての用意をしなければならない。旅路はこれから始まるのだ。急がなくてはならない・・・。
一体何をそんなに急いでいたのか、それは優也以外の誰にも分らなかった。
異常な暑さが続いたその年は、人間には辛いことに異常な寒さをももたらした。夏には、酷暑と豪雨によって人間は弄ばれ、一年を通してみれば、暑さと寒さによって弄ばれた。人間はますます生きづらくなる。環境は人間につらく当たる。それはまるで人間のエゴを諌めるようにも解釈できる。地球や自然といったものが、思い上がった人間を懲らしめているのだ。文明と呼べない文明にかぶれ、科学の力に盲目した人間は、いつか自然から返り討ちを受ける。これはその始まりに過ぎないのだ。電子機器に囲まれて自然というものを忘れてしまった人間は、どうしてこんなに自分が辛い状況にあるのかわからない。それは自然を排除してしまったからだ。虫が生きていけない環境に、どうして人間が生きて行けようか。それを忘れてしまったのだ。
優也はこのことを誰かに伝えなければならないと思っていた・・・。そしてそれを本に書き記していたのである。
東京はしかし、そんなに寒くてもなかなか雪は降らなかった。初詣は身を切るような冷たさだった。優也は千里を誘って学問の神様が祀られている湯島天神へ初詣に出かけた。優也は相変わらずおしゃれをしてフロックコートなんかを羽織っている。カシミア生地の上等なものだ。優也がかつて世間を騒がせていた時代に馬鹿にされてはこまると購入したものだった。現地で待ち合わせなどできないので、二人に都合のよい駅で待ち合わせてから一緒に行った。千里は雪のように白いはだがしもやけで多少赤みがかっていた。優也は皮の手袋をはずして、その桃色をしたほほをつついた。千里はもうとかなんとか言って一寸ふてくされながらも優也の手を離さない。優也はそれをコートのポケットに入れる。
「わあ、このコートあったかいのね」
「ははは、カシミアの上等なコートだからね」
「格好いいな、私もこういうの欲しい」
「買ってあげようか」
「そういうわけじゃなかったの・・・」
「お金ならいくらでもある。いくらでもあるっていうことはないが、印税があるぜ」
「年上彼氏を持つと良いものを買ってもらえるのね」
「あ、千里、そういう魂胆だったのか」
「えへへ、冗談」
彼女はほほと同じく唇も真っ赤になっている。寒さに弱いのかもしれない。その真っ赤な唇から小漏れる息は真っ白くなる。
「それでは日本史の勉強です。湯島天神、正式名称湯島天満宮は誰を祀っていますか」
「馬鹿にしているわね。菅原道真公」
「正解。このくらいは解けると思っているよ。さらに難しくなるぞ。その菅原道真が左遷されて歌った歌を言えるかな」
「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな?」
「素晴らしい。それを答えさせる問題はそうないと思うけどね。五句目の春を忘るなは、春な忘れそとも言い伝えられているんだよ」
「そのくらい知っている」
「じゃあ、こんなことは知っているかな。トリビアだけどね。左遷って言葉は、菅原道真が左大臣だったから、その左をとって左遷と云われるようになったという説があるよ。もし彼が右大臣にだったら右遷となっていたかもね。でも、これは他にもいろいろと説があるらしいからよくわからないんだけど」
湯島天神はひとでごったがえしていた。多くの受験生の親や本人が来ている。優也と千里もその類からは逃れられなかった。
「うわー、人がいっぱい」
「うん。いや、わかっていて来たんだけどね。敢えてこの人ごみが記憶に残るってこともあるわけだし」
「でも人ごみ嫌いなんじゃなかったの」
「あはは、違いない。鋭いな千里は。そんな細かいことまで覚えていたか。うん、嫌いには違いないが、今は千里がいるから大丈夫だ。一人だったら絶対に来ない」
 優也は実際、千里と一緒であればある程度どこへでも行けるまでに回復していたのだ。酷い神経衰弱から立ち直りつつあった。愛が人間の病を治したのである。
「髪、伸びたね」
「え、髪?そうだね」
「前は横から見たときに首筋が見えた」
「先生はそんなに熱心に生徒を見ているんですか?」
「な、千里だけだ。他の生徒はみない」
「そう・・・」千里は照れた。
「そういうことを言わせるなよ。こっちも照れる」
「ちょっとおいたが過ぎたようです」
「まったく、本当だ。反省しろ」
「はーい」
「しかしすごい並びだ。僕は大学受験の時なぜそう思い立ったかわからないが、明治神宮に行ったんだ」
「どうだった?」
「湯島とは比べものにならないくらいあっちは大きいからね。ほら、新年の番組でよくヘリから見ている映像があるだろう。あれだよ。きっと今頃やっているんじゃないかな。兎に角押し合いへし合いだったけどね。でも意外と整然と並んでいて、しかも結構流れるスピードは速かったよ。こっちも流れるだろう」
「そうか。みんな願い事短いのね」
「こんなにならんでね」
「形式だけよ日本人なんて」
「ほう、ずいぶんシニカルだね」
「全部先生の直伝です」
「いや、痛いところを突かれた」
二人はじゃれ合いながら順番を待った。やがて二人は本堂に近づいてくる。二礼二拍手一礼を済ませて横にずれようとした優也は、まだ熱心にお祈りをしている千里に躓きそうになった。やがて千里も一礼し、目を開けて優也を見る。
「あら、早かったね」
「千里こそ、ずいぶん熱心にお願いしていたじゃないか。お願いはシンプルじゃないと聞いてくれないぞ」
「えー、そんなに了見の狭い神様なのかな」
「何しろこれだけ沢山の人がいるからね」
「あはは、何それ」
「何をそんなにお願いしたんだい」
 千里はもぞもぞと優也に聞こえないくらいに呟いた。
「え」
「優也さんとずっと一緒にいられますようにって」
「お前、ここは恋愛の神様じゃないんだぞ。受験のお願いは」
「そっちは運任せじゃなくてもいいの。実力勝負よ」
「なんというロジック・・・。まあ、そんなことだろうと思って、きちんと千里が受かりますようにって僕がお祈りしておいたよ」
「あら、文学者さんなのに随分信心深いのね」
「なんだい、今日はやけにつっかかるね」
「違うの・・・なんだか恥ずかしいから、照れ隠しだ」
「そうか、悪かったな。さて、身体が冷えてきてしまったから、どこかに入ろう。何か食べるかい」
「うん。好きなもの食べさせてね」
「何が良い。そうだな。美味しい洋食の店を知っているよ」
「じゃあ、そこがいい」
「ちょっと歩くけどね。上野の美術館のレストランさ」
「おしゃれ!」
 二人は上野へと歩いていった。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
215位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
17位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。