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憎愛 十

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導久法師は、関の大学時代の後輩である。これは単なる後付だが、関は彼がイスラム圏で生活したことのあること、ミッション系の中高に通ったこと、大学は仏教系の学校へ行ったことを、宗教フリーになるために、世界三大宗教を一応は勉強したというような大それたことを言って述べている。偶々、進学した先がその都度異なったために、結果として三大宗教を学ぶこととなった。導久法師は、仏教系の大学で出会った後輩であった。
関が通った大学は、構内をお坊さんが普通に歩いているというような、一寸通常の人間では想定しえないような不思議な大学であった。当然お寺さんのご子息がたくさんやってくる。関は大学では美術部に所属していたが、そこにもまたお坊さんの息子というのが結構した。その中の一人だった導久法師は、以前は髪もたくさんあった、普通の大学生だった。京都でも屈指の臨済宗のお寺の子息で、東京の大学ではけっこうなやんちゃ坊主であった。先輩として関は、やんちゃな導久を諌める役割を担っていたが、反面、大人しすぎて一歩を前に踏めない関にとってもまた、導久の溌剌が善い加減に合致していた。関と導久がであったのは、関が、大学2年、導久が大学1年の頃であった。なので、しばらくのうちは、関が東京のことをいろいろと教えるということをした。中高の時代に負った心の傷があったため、関は大学へ入ってからもあまり心を開かずに過ごしていたが、やんちゃ坊主の導久を案内するにあたって、関はだんだんと孤独を無理に演出しなくても良いようになった。
人間関係のうちでなかなか難解なものは、同じ学年の人間関係と、男女の関係であるらしい。上下の関係というのは、意外と難しそうでありながら、結構形式が定まっているからそこさえ理解できれば、あまり心砕かなくても良いらしい。関にとっては、男女の関係はしばらくは考えたくもなかったし、友人たちも何をされるかわからないという恐怖から、できるだけ人付き合いを避けていた。しかし、部活に入って、後輩とは自然と話すことができた。それは、この後輩が自分のことを悪くするという発想がどこにも浮かばなかったからかもしれない。関は、この導久を媒介として、部の人間と仲良くなっていった。一回目の関の人間性の回復は、このころになってようやく成し遂げられたのである。
仲良くなって一年が経とうとしていた。関は2年の冬に、導久からお世話になっているんで、京都に遊びに来てくださいという誘いを受けた。しかし、ここでもまた関は、一寸躊躇っている。導久が自分に対して何か悪いことをしようということがないのはわかっていた。しかし、丁度その折、精神から来た病のために、酷く体を壊していた。それは以前述べた睡眠障害と、食欲不振である。睡眠障害は比較的良くなってきていたのだが、このころ再び食欲不振が現れ始めていた。関は、しばらくの闘病生活と言うとおおげさだが、病気と付き合っている期間から、緊張がこの食欲不振の原因ではないだろうかと自己判断していた。しばらくの間、この身体の状態で京都へ行けるのかどうかということを考えた。結果としては、せっかくのお誘いだし、別に食えなくなったら食わなければ良いということを自分に言い聞かせて、京都へ赴いた。
お寺の和尚さんも忙しくなると言われている師走が終わったあたりに何故行ったのか、今となって考えれば時期的に一寸よろしくなかったのではないかと思う関であったが、正月休みの寒い間に関は京都の導久宅へ赴いた。京都、紫野の大本山、大徳寺。宗峰妙超が開創したとされる大徳寺の一角に、導久の生まれた寺はある。
寒い冬であった。なんでこんな時期にきちゃったんだいとか、こんな時期に来ても大丈夫かなとか、来てしまってから言うのだから、関は一緒にきた友人たちに多少煙たがられていた。導久は関達が京都へ着く数日前に実家に帰り、関たちを向かい入れるための準備をしていた。仲の良い友人たち3、4人で京都へ到着した関達は、まさしく、導久のみちびきで、大徳寺までやってきた。京都の冬は寒いということを、関は導久からも、また関の父親からもさんざん聞かされていたので、彼の恰好は、父親譲りのロングコートだということもあり、どこかのマフィアのそれのようでもあった。大学生が着るにしては上等すぎるコートを羽織りながら、関は導久に従って、京都を歩いた。あまりの寒さに関の不満は高まった。東京の寒さが肌の上を撫でるような痛さであるならば、京都の寒さは体の芯に氷の棒を突っ込まれたような寒さである。膝あたりまである、紺色のコートを着ていた関ではあったが、内面から攻撃してくるような寒さは、長さだけでは防げなかった。
地下鉄を乗り換え、有名な地下のバスターミナルの前を歩き、大徳寺へと向かう。大徳寺の総門を潜り、千利休の象があるという勅使門を右手に、仏堂、法堂にそって、石畳の上を歩いていく。ちょうど夜に到着したため、広大な敷地の寺なかには、人影もなく、初めて行った関にとっては恐怖の念のほうが強かった。関が出発する前に、京都では雪がふったらしく、東京で京都の情報を事前に集めて勉強しようとしていた関は、金閣寺が雪に包まれて、そのコントラストの美しいのを恍惚として見た。何も金閣寺の美しさに見とれてもう一度放火するというわけではないが、大徳寺は金閣寺まで歩いてもいける距離であるため、もしかしたら雪化粧した金閣寺をこの目で見ることが出来るかも知れないと狂喜していた。しかし、残念なことに積もった雪はすぐに溶けてしまった。関が京都についたその日は、もう殆どの場所は溶けてしまって残ってはいなかったが、大徳寺についたあたりから、再びちらちらと雪の結晶が降り始めていた。京都は京都駅の付近以外はあまりネオンのような光はない。それは町の景観を破壊しないための配慮でもあったが、好き好んでお寺の近くにそのような施設を建てる輩もまたいないのだろう。大徳寺の付近はすでに、どこかの田舎に来てしまったかのように、人影もなければ、人工的な光も少ない。暗闇の中、等間隔にならんだ街灯の白い光に照らされて、肉眼でも見えるほどの雪の結晶が、ちらちらと落ちてきては、関のことを愉しませた。深い紺色のコートに黒い手袋をしていた関は、落ちてくる結晶を手に付けて、それをまざまざと見た。関はもとから目が良かったが、別段普通の友人でも結晶の形が見えるほどのものであったので、関はその美しさに見とれていた。幾何学的な六角形の模様。厚い生地を通り越して、ゆっくりと体温によって溶けていく氷。雪の結晶はその後もしばらく、ひとつひとつの結晶のまま降り続けた。
こんなことを云ったら叱られるかも知れないが、大徳寺はたくさんのお寺からなる集合住宅のようなお寺である。大通りに沿って歩いていくと、途中で左へ曲がる。そこを曲がらずに、そのまままっすぐに行くと、木の門が行く手を阻む。門の端には、小さな扉が設けられていて、その閂を外して通ることによって、門全体を開かずとも入ることが出来た。門を閉じれば街灯もない、真っ暗闇があたりを包む。まさか都会でこんな暗闇に遭遇するとも思っていなかった一行は、多少驚いたようだった。身に染みる寒さも深まる。そこをさらに突き進んでいよいよ芳春院にたどり着く。玄関に相当する庫裡へ入ると、頭上に近衛文麿の書いた「護国禅窟」という白抜きの文字が迎える。はて、一体どういう意味なのか、関は一寸わかりかねたが、まあ国を護る禅のすみかというような意味だろうと考えた。
茶室に招かれて、関達は導久の淹れたお茶を振る舞われた。流石はお寺の子、茶道と書道、道と冠される分野のものを、この歳で二つも修得しているとは、関はひどく感心した。芳春院には、一般人には知られない謎の御堂が一つあるが、それは実にプライベートな建物である。修行に来たお坊さんを泊まらせることもあれば、来客用に使われることもある、自由なお堂だ。しかし、このお堂がすでに、一般の家よりも全然広いのだから、関たちは、このお堂が普段はまったく使用されないことを聴いて、笑った。
「まずはね、育つ環境の良さが違うからね」自嘲を込めて関は皮肉を言った。
「何を言っているんですか関さん。あなただって、十分人からみたら羨ましいところの出身やないですか。」
関と導久の会話は他のメンバーにとってはただの嫌味な会話にしか聞こえない。そんなこんなで、決してお金を払えば泊めて貰えるというようなことはできない、まさしく明治の小説のような出来事を体験した。数日芳春院に滞在しながら、京都巡りをした。行く先々で、芳春院さんの息子さんですかと、女将やらなんやらが登場して、そうして今度は関たちに対してもそのご学友ですかとぺこぺこするので、こちらもぺこぺこしなければなるまい。全く不思議な京都旅行であった。そんな楽しかった学生時代から早や、十年が経とうとしていた。
生と死の境目の深淵まで落ち込んでいた関は、自然とそのころのことが思い起こされた。気が付いた時には、導久のアドレス宛に、葬儀の際の色々に対する感謝や、精神的に参っていること、しばらくの間精神休養のためにまた泊めて貰えないかというメールを送っていた。常識という名の家庭で育った関にとっては、通常の状態であればそんな他人の家に泊めてくれなどとこちらから願い出ることなど考えはしなかっただろう。しかし、そんなことを思考から排除してでも、精神の安定を希求する気持ちが強かったのである。
勿論、そうした精神の安定、人間の内面を練磨するための組織のようなものであるお寺にとっては、自己を高めたい、あるいは困窮の中にある人物が救いの手を求めて来たのを断る理由はない。ましてや、導久は自分が東京に居た間はずいぶん先輩に良くしていただいたと思っている義理堅い人間である。関は、しばらくの間、特にいつからいつまでというような予定もないまま、京都行きの新幹線に飛び乗り、大徳寺へと向かった。
夏が訪れつつあった。春はもう終わりを迎えようとしている。芳春院という名が付くだけあって、きっと春が一番素晴らしいのだろうと何となしに考えていた関は、もう少早くに来られればよかったのかなとも思った。しかし、旧暦で考えればもう夏もすでに半分かとも思った。例の御堂、一般人の家よりもはるかに広い建物を与えられ、少し広すぎるため孤独を味わいながらも、人生の休息を関は謳歌した。京の都は、北を上に考えられてつくられているので方向感覚がつかみやすい。本堂の右がわ、つまり東側に位置する関が与えられたお堂の前にも、日本庭園があった。これはこれで趣があって良い。お堂の中からみれば左側に庵のような茶室もあり、そこに居るだけでも落ち着く。だがやはり、関にとっては、花岸庭と呼ばれる本堂の枯山水の庭園がなんと言ってもお気に入りであった。大学で日本の文化を研究していた教授と仲の良かった関は、枯山水には、かれさんすいという読み方のほかに、かれざんすいやかれぜんすいなどもあるということを聴いたのを思い出した。自然との調和を目指す日本人だからこそ、大小の石によってこの世のすべてを表現しようとする。ある意味ではミニチュアでもあった。国語、国文学というものを大学では学んできた関にとっては、日本的な空間のほうが安らぎを覚えられた。先の震災で、外国人たちが日本人をどのようにリポートしたのかということを、生徒たちに授業で教えたことがあった。海外からみた日本という視点も重要だろうと思っていた関は、必死の形相になって日本の状況を伝えている海外のニュース番組はよい勉強になった。そこでは、海外のレポーターが、西洋文化では科学をつかって人間が自然をコントロールしようとするが、日本では、反対に自然と一体となることによって生きるということをしている。だから、今回の震災が起こっても、人々は悲観や絶望に包まれることなく、一種の諦念、開き直りを持って毅然と復興に向かっているというのである。ある意味では、それは正しい。自然のミニチュア化は、これと相対するようにも思われるが、自然をコンパクトに作り上げた後、そこに同一化するということでは、やはり自然とともに生きるという方向性にあやまりはなさそうである。
マクロコスモスは把握しにくいので、ミクロにして、そこに自己を同一化させるのだろうかと、関は目の前の枯山水を見ながら思った。



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