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『わたしを離さないで』感想とレビュー

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 何かのレビューかなにかで情報と知っていたこの映画を、今回鑑賞してみた。この物語は哲学をちょっとかじったことのある人間ならだれでも知っている、「臓器くじ」を題材としたものだ。臓器くじというのは、ジョン・ハリスという哲学者が考案した考えであって、実に合理的なものである。Wikipediaから少し引用しておこう。

 《臓器くじ(ぞうきくじ、英: survival lottery)は、哲学者(倫理学者)のジョン・ハリス(w:John Harris (bioethicist))が提案した思考実験。日本語圏では「サバイバル・ロッタリー」とカタカナ表記されることも多い。
「人を殺してそれより多くの人を助けるのはよいことだろうか?」という問題について考えるための思考実験で、ハリスは功利主義の観点からこの思考実験を検討した。
「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。
公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。
臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。
ただし問題を簡単にするため、次のような仮定を置く(これらは必ずしもハリスが明記したものではない)。
くじにひいきなどの不正行為が起こる余地はない。
移植技術は完璧である。手術は絶対に失敗せず、適合性などの問題も解決されている。
人を殺す以外に臓器を得る手段がない。死体移植や人工臓器は何らかの理由で(たとえば成功率が低いなど)使えない。》

 この合理的な考えは、我々の「感覚」からすると一瞬のうちに一蹴できてしまいそうなものである。いや、そんなのはいかに頭のいい人間が考えたって、どこかおかしい。感覚的におかしい。そういう感情面、情緒的な面で我々はこの提案に反対することができる。
 しかし、それは我々が今この世界のこのような「感覚」を持ち合わせているからにすぎない。
 もし、教育の現場で、臓器提供をすることはいいことである。それに選ばれた人間は、選ばれた特別な人間で、多くの人になる、という教育をずっとつづけたとしよう。我々は戦争はいけない!と思い込んでいるかもしれないが、70年前、多くの日本人が、多くの世界中の人々が、戦争をすることはいいことだと教育によって思い込まされていたという現実があるのである。ナチスドイツは、教育によって、ユダヤ人を大量虐殺してのけたのである。これほど教育の力というのは強いのであって、我々が現在の感覚で、これはおかしいと思われるものが、いかに簡単にくつがえされてしまうのかということは、歴史が証明してくれている。残酷なまでにね。
 さて、この映画の世界もそういう世界観だ。一応年代としては西暦で1900年後半あたりが舞台となっているが、実はそんな西暦は作品にリアリティーを出すための装置でしかなく、必要ないといえば必要なのだ。この映画を未来に置き換えたのが、『アイランド』や『レポジッション・メン』などの映画だ。臓器提供というのは、日本よりも医療倫理が発達している欧米諸国で問題になっているらしい。臓器をテーマにした映画の製作具合からそれがわかるだろう。
 さて、そのような臓器提供のために人工的にクローンを作り出すということが、あまりおかしいと思わないように教育することは簡単だという前提に私は立っている。その上で話をすすめるので、ここがよくわからないというひとは、わからないままで終わってしまうが、それは私の責任ではない。わかるように努めてほしいものだ。この映画の世界では、完全に彼等は臓器を提供することをなんとも思っていない。それは死に対する恐怖等の感情はあるだろうが、臓器提供をしなければいけないと運命づけられていることに対して何ら彼等は疑問を抱かないのである。それはおかしいと意義不服を申し立てないのである。それがこの映画の怖さでもある。なぜそういう感情を発さないのかというのがある。もちろんそれはクローンだからそういうところは上手く教育されている、等々の理由がつけられるかもしれないが・・・。
 この映画で唯一といっていいほど、人間らしい感情を発するのが、愛し合っているので猶予が欲しいとマダムと呼ばれる人物に会いに行った帰り、猶予がないことを知って、トミーが車から降りて叫ぶ場面である。それは実質死を宣言されたも同じである。その死の宣告によって、ようやく人間らしく、「わー」と叫ぶのである。しかし、そこには人間の怒りや憤りというものよりも、激しい無力感しかただよってこない。この映画がすごいなと思うのは、こういう場面を実に淡々と、かなり冷たく描いている場面である。
 そしてトミーが死んだ後、キャシーにも臓器提供の通知が来るのであるが、彼女もまた、それに対する反感などというものもなく、「臓器提供される側の人間と、臓器提供する側の人間との違いはなにか」ということをつぶやいて終わるのである。
 これが、この映画の臓器くじに対する結論であろう。臓器くじをつくって、臓器提供をする。そうすれば、1人が死ぬことによって、多くの人間が助かるようになる。確かにそれは実に合理的で、そのほうが利益としても多いのかもしれない。しかし、そのような利益等々を差し引いても、人間の命そのものに優劣を付けることはできない。それは数の問題ではないのだ、ということがこの映画の結論なのだろう。臓器提供という場には、提供される側とする側が存在している。健康な人間を殺してまで臓器提供というものはやはり倫理的にできない、ということを一度そういう世界観を作り出すことによって描き出したというのがこの映画の魅力であり、見どころであり、評価されるべき部分なのであろう。
 臓器くじを感情的に、感覚的にそれはおかしいということは誰にでもできる、簡単なことである。しかし、その感覚が実は実にあやふやなものでしかなく、教育をすることによって、数十年で書き換えることが可能なものだったとしたならば。そして、臓器くじは、そうした感覚では揺らがない極めて論理的で、合理的なものだったとしたらどうするのか。それに感覚的に反論しても意味がない。論理には論理で、合理には合理で相対しなければならないのである。それならば、一度臓器くじが可能になった世界を描くことによって、そこで人命というものを問うてみるしかないのである。その結論が、提供する側とされる側の人間の違いとはなんだろうか?という問いに他ならなかったのである。
 映画を作ったことがないのでわからないが、これだけの労力を要して、やっと、臓器くじは論理的にも難しいということが、証明されたような感じになった。もちろんこれも実にまだまだ不安定な答えでしかないので、それが覆される可能性もまだ否定できない。しかし、それだけ臓器くじというのは、合理的で、論理的なものなのである。ともすると、現実になりかねないのである。我々はそれを危険だと認識するが、しかしそれも現在の感覚だからこそであって、臓器提供して多くの人が救われるのならばその方がいいのではないかという感覚に世界全体がなってしまったら、それを止める術はない。
 我々にはこのような課題が沢山つきつけられている。それを我々は知恵を以て、映画や小説などの藝術を通して、表現し、答えを模索していかなくてはならないのだということを、今回改めて感じさせられた。

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