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パウロ・コエーリョ『星の巡礼』 感想とレビュー

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ブラジルの国民的作家、パウロ・コエーリョの名は、やはり文学の領域において独特の立場をもっている。それは、彼の手法が、マジック・リアリスムの様態を呈しているため、先日亡くなった巨匠、ガルシア・マルケスに追随する作家のように目されているからでもある。
 しかし、似ているからというだけで、ガルシアマルケスのたとえば『百年の孤独』と、パウロ・コエーリョの『星の巡礼』を同一視してしまうのは、ものの本質を逃すことになるだろう。『百年の孤独』と『星の巡礼』。どちらも、日常の生活のなかに、ふとしたところに我々が感じる非日常的なことが紛れ込んでくる。もちろん登場人物たちにとっては、それは現実なのであるが。しかし、この類似点だけをとって、マジックリアリスムだと断言して、思考停止してしまうのでは、確かにそれはある面ではそう云えるかもしれないが、それ以上の発展を生みださないだろう。むしろ、ここでは、マジックリアリスムかもしれないが、そのなかでどこが違うのかというところに着眼したほうがおもしろいかもしれない。
 私が感じたこの二つの大きな違いは、ここにある。すなわち、精神性のようなものだ。それを人々はスピリチュアルというかもしれない。しかし、このスピリチュアルという言葉には、無宗教を唄う我が日本国においては、江原啓之に代表される、どことなくうさんくさい感じがついてまわってしまう。もちろん私は江原氏を非難しているわけでもなんでもない、ということは断っておこう。
 ただし、日本ではスピリチュアルという言葉を使ってしまうと、あるいはそういう言葉を使わなくても、なんとなくそう思われるものは、どれもうさんくさい、という感じで受け取られてしまうことが多いのではないかと感じる。

 しかし、この作品を読めば分かると思うが、そうした非科学的なものに対して、即座にそれはうさんくさい、嘘だ!と断言することがいかに軽薄な行動であるかがわかるだろう。
 という私も、こうしたものを完全に信じているわけではない。ここには、ややそうしたものを信じたいという気持ちがあることを認めざるを得ない。しかし、だからといってそれを完全に信じられるかというとそうではない、どうしても疑いの目を持ってしまうといいたいのである。
 この小説のなかには、非科学的でない、幻想的な体験も多く書かれている。おそらくそれらは、認識の問題なのだろうと考えることができる幻想的な体験が書かれている。そうした諸現象については私も、納得できるところだ。人間はけっこう認識によって、見える世界がかわるものである。そういうのを体験的に知っているので、これがどういう精神状況において起こったことなのか、そういう状況下においては、こういう表現になるな、ということがおぼろげながらではあるが理解できるのである。
 しかし、なかには思念をつかって大きな木を横たわっている状況から立てようとしたという、我々科学人がどうかんがえても理解できない描写もある。これはどう考えたらよいのだろうか。私はその答えを持たない。作者はすべて書かれていることは事実だと述べている。作者はおうおうにして嘘をつくものであるが、本当だと言っていることを信じないというのには勇気が必要だ。あるいは、本当だということを本当と信じることを同じくらいに勇気がいることかもしれない。
 小説内では、残念ながら思念によって木を立てることには失敗するのであるが、ここで成功していた場合、我々は本当にどう考えていいのかわからなくなる。しかもそれがあたかも現実であるかのように書かれているし、作者も本当であると言っているのである。私たちは、現実と夢想のはざまのような世界で宙ぶらりんにならざるをえない。むしろ、読者をそうした状況にさそうことこそが、この作品の狙いなのではないかと思わずにはいられないほどである。他の読者はこの問題をどう感じ、どう考えるであろうか。

 一旦そうしたスピリチュアルな部分を抜きにして考えてみよう。この小説は、なにもスピリチュアルなところだけを取って終わるようなものではない。
 私はこの作品を非常に楽しく、興味深く読んだのであるが、この小説の魅力は、そこから我々が何かを得ることができるという、深い読者と本との関係によって築き上げられている。
 例えば、それぞれの章立てごとに、我々読者は、主人公が所属するRAM教団に伝わる秘伝の教えを得ることができる。祈りの仕方だったり、呼吸法だったり、我々が現実にできることが書いてあるのである。おそらく、それらを続けることによって、なんらかの認識の変化が起こりやすそうだというところまでは言うことが出来そうである。なんだか、トイレを掃除して見ろという指示を出して来た『夢をかなえるゾウ』のようなおもむきもある。
 私のような本を読書としてしか読んでいないような軽薄な読者は、ここに書いてあることを、その時は一度くらい真似してみても、その後も継続的に実践してみるということはない。そういう人がいたら、どうなったか聞いて見たいものである。
この小説の魅力に戻ろう。そう、このように章ごとに課される課題のようなものもおもしろいのだが、我々はそれ以上に、この小説から深い知恵のようなものを得ることができるような気がするのである。それは、こうしたスピリチュアルな、幻想的な、精神的なものを信じている主人公=作者だからこそ述べられるような箴言のようなものがあるのだ。特に私が感銘した部分を一部引用してみよう。

 「人間は、自分が死ぬということに気づいている唯一の存在だ。そのために、そして、そのためだけに、僕は人類に対して深い尊敬の念を持っている。そして、人類の未来は現在よりずっと良くなると信じている。自分の人生には限りがあり、予想もしない時にすべてが終わるということを知っていても、なお、人々は、自分の人生で、永遠の生命を持つ者にこそふさわしい戦いをしている。人々が虚栄とみなしているもの、つまり、すばらしい仕事を残したり、子どもを持ったり、自分の名前が忘れられないように一生懸命になったりするのは人間の尊厳の最高の表現であると僕は見ている。
 それでもなお、か弱い生きものである人間は、常に自分たちが確実に死ぬということを自分に隠そうとしている。人生で最もすばらしいことをしようと彼等に思わせるものは、死そのものであることを、人は誰も見ようとしない。彼等は暗闇に足を踏み入れるのを恐れ、未知を恐れている。そしてその恐怖を克服する唯一の方法は、自分の人生が限られているという事実を無視することなのだ。死を意識してこそ、もっと勇気を持つことができ、日々、さらに多くのものを得ることができるということを、彼等はわかっていないのだ。なぜなら、死を意識した時、何も失いものはなくなるからだ。死は避けられないのだから」

 こう書くと平凡な表現になってしまうが、この小説には、物質に溢れた文明社会に生きる私たちに、精神性の重要さを説いた部分もあるということを言っておかなければならない。
 私は資本主義が嫌いな人間なので、ここに書かれていることのいちいちが身に染みて、そうだよなと納得できた。もしかしたら、普通の読者にとっては、しばしば耳のいたい指摘があるかもしれない。しかし、ここには、人間に対する深い愛情が横たわっているし、生きとし生けるものへの温かいまなざしがあると感じる。
 全体的に精神的に何かにつつまれるような、そんな温かさを持った小説であるということができよう。
 深い精神の旅。この小説を読んで感じたのは、そんな言葉だった。もし、文明社会に生き、なぜ生きているのかわからなくなった人間は、こういう小説を読んだりすると、何かしらの発見を得られるのかもしれない。

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