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ベスト・キッド1・2・3・4 感想とレビュー

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 前からタイトルはなんとなく聞いたことがある有名な作品を、今回はじめてきちんと全作を通してみることができた。
 シリーズは四作ある。こういうシリーズものはなかなか時間が取れるときではないと見る気になれないのであるが、今回は一度見始めたらそのおもしろさにはまって、引き摺り込まれるように四作見てしまった。それぞれ一話ずつ感想を書いてもよかったが、私もそんなにたくさん書いていられないので、今回は四作まとめた感想ということにしたい。
 先ず、原題であるが、カタカナで表記してしまえば、「カラテキッド」ということになる。それをベストキッドにしたのには何か理由があったのだろうか。邦題はしばしば、よくわけのわからない変更が行われるので、注意したい。
 さて、この一連の映画であるが、作成されたのは1984年。かなり昔の話だ。三十年前か。私は生まれが1992年なので80年代くらいはなんだちょっと前のことじゃないかと思わなくもないのであるが、やはりこうして映像として80年代の様子を見せられてしまうと、ああ、やっぱり時の流れというのは結構私の予想よりもあるなと感じずにはいられない。
 私は車が好きで、90年代の車くらいからは、ほとんどの車を見たことがあるし、大体わかるのであるが、この映画に出てきた車のほとんどがわからないという状況に、愕然とした。あのまるっこいトラックはななんなんだ!どこのメーカーかさえもわからない状況だ。一話目に登場するシボレーあたりは分かったが、それでもその時代の最新の車で90年代に通じるシボレーの型が出て来たのかと思うと、時代を感じずにはいられない。
 しかしそうはいっても、ここに登場したダニエルさん等の若い人々は、現在五十代くらいであろう。そうすると、意外と最近なのでは、と思わなくもない。私もいつのまにか五十代になっていそうな気がする。恐ろしいことではあるが。そうなったときに、三十年前をふっと振り返るというのは、そんなに時の流れを感じない行為なのではないか、と思わなくもないのだ。

 時の話は置いておいて。この物語は、寅さんシリーズのように、出来上がった黄金律によって作成されている。強敵がいて、一度打ちのめされ、師匠のもとで修業をして、最後には敵を打ち破るという定型だ。そこにちょっと色がついて、ヒロインとの恋物語があったりするのである。あとはバリュエーションのシチュエーションの問題で、大枠はおなじものである。
 一話目の映画は、単純であるが、そのぶん実に楽しく鑑賞できた。ダニエルというひ弱な少年が、孤高の老人と出会い、師との修行のなかで成長し、最後には敵を打ち破る。実に簡単で、ベタな作品であるのだが、そのベタが、メタ化してしまった現代の我々が見ると新鮮に感じられるのである。
 二話目はおもしろいことに、沖縄に舞台が移る。ただ、この映画、かなり不思議な感じに仕上がっており、一筋縄ではいかない作品になっている。
 そもそもこの映画はアメリカ映画である。それが日本を描くとなると、やはりどこか日本人の作る日本映画、日本らしさとはかけ離れた、翻訳された日本のようなものを我々は目にすることになるのである。もちろん、これはこの映画の制作国であるアメリカの視聴者たちがみれば、これが日本なのかと納得できるようなものなのだろうが、私たちが見ると、なんとも不思議なものである。
 そもそもミヤギ役を演じたパット・モリタであるが、日系ではあるものの完全なアメリカ人。日本語はしゃべれないようだ。そのモリタが日本人役を演じるのだから、なかなか大変なものがあっただろう。舞台は沖縄。本当に沖縄なのか?(しかも三十年前)と思いつつ、恐らく違う場所で撮影したのではないかな、不思議な日本像を見せられた。なんだか違って見える日本は不思議な感覚だ。日本が舞台になっているはずなのに、登場人物たちが、しかも日本人のような人たちがみんな英語でしゃべっているのである。これはとても面白かった。あ、やっぱり日本語でしゃべらないんだ、と思った。そこはアメリカ映画なのである。日本語でしゃべらせて字幕使えばいいじゃん、そのほうが自然じゃんと思ったが、みんな英語でしゃべる。
だが、ところどころ日本語が混じるから余計におかしいのだ。日本語でぶつぶつつぶやいていながら、ミヤギと話すときは英語であるとか、とにかくちぐはぐなのである。そこらへんが歯がゆく、不思議な映画と表現しているのである。
だが、骨格は同じで、ミヤギが日本を出なければならなくなった恋騒動、その相手との35年越しの対決というのが作品のモチーフになっている。強敵との戦いへ向けて物語が転がっていくという点では同じであるが、それが今度はダニエルではなく、その師であるミヤギだというところが面白かった。この作品では、ミヤギの恋も描かれ、主人公はダニエルからミヤギに移ったといっても過言ではないほどである。だが、最後には、やはりというか、ダニエルとサトウの甥っ子との戦いで幕を閉じる。

三作目は「最後の挑戦」と銘打ってあり、二作品目の直後から始まる。沖縄での滞在を終えた二人がアメリカに帰国するところから映画が始まっている。第一作で敵の親玉であったクリースが、かつての戦友であるシルバーを頼るところから物語が始まる。このシルバーであるが、この怪演っぷりには正直驚かされた。彼が善人として振る舞っている時は本当に善人のように見えるし、悪人のように振る舞っている時は悪人のように見えたのである。彼の演技はこの作品でとても味の効いたスパイスになっていた。
さて、今回は敵方の復讐劇である。スターウォーズでもそうだが、三作目には大体的の復讐が置かれる。そうしたほうが物語的にもおもしろいのだろう。そういう黄金律がある。
まあ、もちろん敵が負けてしまうというのはわかっているのだけれども、それでも敵がなんとなく頑張っているのを見ると、主人公は敵方なのではないかと思ってしまうほどである。特にシルバーの演技を合わせてかんがえると、今回の裏の主人公はシルバーといってもいいかもしれない。
今回シルバーの考えていた作戦は、あまりよくわからなかったが、シルバーの教えにより、ダニエルがかっとしたら暴力を振るってしまうほどに人格が変容してしまった、という設定はおもしろかった。ここらへんややスターウォーズの影響を感じるのであるが、それはよしとしよう。ようは、シルバーは今回、ダニエルの心理的な側面、こころをダークサイドに引き摺り込もうとしていたのである。引きずりこんでしまえば、それがミヤギへの復讐になるし、そうならなかったとしても、武力をもってこてんぱんにやっつければよかったのである。

四作目はさらに面白い。
まず撮影年次が1994年と、最初の映画から十年もの時がたち、私が見たことのあるシボレーにミヤギが乗っている。そこからああ、すでに大分時が経ったのだなということが感じられた。映像も綺麗になっていたし。やはり十年という歳月は長いものがある。
さて、今回であるが、今までの三作は、良くも悪くも、ダニエルとミヤギとのコンビは最高だったわけである。孤高の老人と、それを慕う純情な少年という構図は、かなり黄金律に近いところがある。もちろん時には敢えて反発させたりするのであるが、父よりも遠い祖父のような存在と孫のような関係というのは、変なこうしろ、ああしろという親の愛情というか、命令のようなものがないから見事に丸に収まるのである。しかし、今回は敢えてそれを突き崩した。それはミヤギとダニエルの関係にこれ以上の発展がみられないからということも十分にあるだろう。
ミヤギは盆栽やをやっているのか?という疑問は残ったが、もうきっとやめてしまったのであろう。そうして今度はかつてのダニエルのように、少女をふたたび空手の道に進ませようという、師の役割を与えられる。それまでダニエルとぴったりと息が合っていた分、当初かなりグレていたジュリーにはかなり手を焼いてしまう。それまでのミヤギ流の教え方が通用しない、というのは、作品冒頭ではなかなか新鮮味がある作用だったと思う。
今作で面白いのが、良くも悪くも、この作品が精神的なものを描こうとしてきたということが如実にわかる場面だ。私はやや、うさん臭さも感じてしまったのであるが、アメリカ人には、ワオ東洋の神秘!とでも感じられたのであろうか。
この作品にはなんと坊さんが登場するのである。アメリカでなにやってんだよこいつらと思わなくもなかったが、いや、本当に何をやっているんだろうか・・・。とにかく停学になった期間を利用して、少女は心身ともに修行すべくこの禅寺へ行くのである。
そこで行われる様々な奇跡。例えば最後の弓矢を片手で受け止める技など、通常あり得ない。そういうものをあたかも現実かのように描いて見せてしまうところに、映画的リアリズムというか、映画的な気持ちよさが現れているのであって、しばしばそれを人は現実でもできるかのように感じることによって、妄想に耽溺することによって脳内で快感になるわけである。
坊さんたちがその後ボーリングをする場面があるが、眼を閉じてゲームをしている、しかもそれがすべてストライクであるというところに、アメリカ人のゆがんだ東洋への眼差しが見て取れる。そこには、東洋人、特に坊さんのような特殊な人種は、精神的に卓越したものをもっているから、眼を閉じてボールをなげると全部ストライクになってしまう、というような神秘的な力を持っているだろう、というようなものだ。これを見たアメリカ人たちは、きっと少なからず日本や坊さんに対してそういう視線を共有することになる。もちろんこれは娯楽映画だからそれは間違っている、変な妄想を生みだすからやめろ、と声高に叫んでも仕方がないところがあるが、しかしやはりそうやって徐々に生み出されていく東洋の神秘というものが、東洋人へ対する彼らの眼差しを曇らせないか?というのは常に心配し、注意しておかなければならにと思う。

まあしかし、この映画が言っていることの一面は、非常に重要なのだ。物質的な社会になってきて、若者がちんぴらになり、たむろしている当時のアメリカ社会において、東洋的な神秘を持ち出して来てまでも、人間のこころの側面を描かなければならなかったという緊迫感は伝わってくる。そうでもしなければ、ならなかった。この映画が大ヒットしたことからも、そこには、やはりこころが重要だよなという視点がアメリカ人のどこかにあるということが見て取れるだろう。
最近ではこういう精神論のような映画はほとんど見なくなった。あったとしても、こういう過去にあった映画のオマージュ程度のようなもので、本気でそれをやろうとはしていない。やはりそこにはどこかベタではなくて、メタの視点があり、そうは言っても、精神論で飯は食っていけないし、というようなどこかそれを軽蔑するような視点が含まれてしまう。この作品のいいところは、本気で精神論を述べようとしているところなのではないだろうか。そこには精神を馬鹿にするような表現は見受けられない。今見れば、やや胡散臭いし、恥ずかしいようなことを言っているところが、今でもなお見るに堪えられる、本気、として我々の目に映るのではないだろうか。


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