中島義道『哲学者とは何か』 感想とレヴュー

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 やや違いなと思う部分もありながら、全体としてはこの人の意見に賛成している、中島義道の本。『哲学者とは何か』という直球ストライクの本を、タイトルの魅力から選んで読んでみた。
 この本はどういう本なのかというと、書下ろしというわけではなかった。さまざまな場所、主に雑誌に掲載された短い論文のようなものの寄せ集めだったのには、やや残念ではあったが、それぞれおもしろく読ませてもらった。確かに論文を集めるだけで本が出るならこんなに作者にとっていい儲けはないよなと思いつつも、いろいろなところで執筆された珠玉の論文をまとめて発表してくれるというのは、読者にとっても、手間が省けていいことだ、と思わなくもなかった。


 《それにしても、ほとんどの男性が「スカートをはきたい!」とつゆ思わないほど抑圧されているのは、トテモ悲しいことだよね。》

 《哲学が教えるのは人生に対するもうひとつの別の態度である。それは(たぶん)これまで読者諸賢が「よし」としてきた態度を根底から覆すものであろう。まず、客観的態度を捨てること。客観的な正しい「生き方」などどこにもありはしない。「私の生き方」を他人に相談することはありうるとしても、あくまでそれは「私の」生き方なのだ。最終的には自分で決し、自分で評価するほかはないのである。これと関連し、次に客観的な真理より自分の信念のほうがはるかに重要であると知ること。自分の内部に聞き耳をたてること。その訓練を積むこと。そして、勇気を出して、少しずつ自分の内部の声に従うこと。》

 《生きることと別に人生の「目標」などあるわけではないのだ。「自分なりの生き方」をはっきりと「かたち」い示すことこそ目標なのである。》

 哲学というのは、私たちが普段何気なく信じ込んでいることに、タンマをかけ、それはどうしてそうなのだ?という問いを突き付けていくことにほかならない。
 だから、例えば引用したように、男性がスカートをはきたいとも思わないほど抑圧されている世界は異常だというのが、哲学では「正常」なのである。我々はこの一文を読んで馬鹿な、何を言っているんだこの人は。女装すればいいのか?というように簡単にこの提言を見捨ててしまうだろう。だから、いけないのだ。私も四年わかければ何を言っているのかわからなかっただろう。しかし文学的訓練を四年間してきて、だいぶ哲学の思考法を身に付けた私にとっては、この言葉は、確かに自分はなぜそんなことに気が付けなかったのだろうと、ものすごく驚ける事実だったのである。
 確かに我々はスカートをはきたいとも思えないほどに抑圧されているではないか!と。
 私は普段からつねづね、男性の服がほんとうに種類少ないのを嘆いてきた。それは単純に私がおしゃれが好きだからという個人的な趣味からきた問題であるが、しかし思考の俎上に乗せると、やはりここには男女差別があるとしかいいようがない。私はジェンダー研究者でもあると自分のことを任じているので、やはりこうした男女差は是正していかなければならないと思う。私個人の話をすれば、私にその能力があれば、無性の服を作るブランドを作りたいなと思うほどである。実際にはなかなか難しいだろうが。しかし、これは女性、これは男性が着る服、というように服をつくるのはなによりの差別でしかない。しかも、現状は、女性のほうが服の種類が多く、男性が少ないのだ。もちろん女性に言わせれば沢山のなかから自分に選ぶものを選ばなければならないという苦労はあるだろう。しかし男性コーナーと女性コーナーを比較すればわかるように、それはある意味では贅沢な苦悩なのだ。男性はそもそも選ぶものが限られている。
 それに、なぜ女性は女性用の服を、男性は男性用の服を着なければならないのか、ということも、はっきり言えば、謎なのである。だれもそんなことを決めていない。だが、この現実社会で、男性がスカートをはいて会社に出ればどんな目に合うかわかるし、女性がスーツにネクタイをつけていたら、なんだこの人はということになってしまうのである。こうした性差、これらを我々は日常的に受け入れて生きているのであるが、そこに染まっていても苦悩しない人はいい、だが、苦悩する人がいるのであるから、そういう人達のためにも、こうした性差というのを解体していったほうがいいのではないか、ということがジェンダー・フェミニズムの世界の話なのである。哲学は、そもそもなぜ女性は女性のような服を着ているのか、男性は男性のような服をきているのか?ということにハテナを突きつけていく思考方法である。



 子供たちには、人間とは差別する生き物、ある人を好きになりある人を嫌いになる動物であるということ、それは「自然」である、ということをまず徹底的に教えるべきではないか。
 「みんなと仲良くする」などという言葉は、そんなに軽々しく口に出すようなものではなく、大変な苦痛と犠牲とのうえになりたつ究極の知恵なのである。シェーラーが強調するように、本物の(純粋な)愛とはA個人の個体性を愛するときである。愛することに理由があればあるほど、ニセモノくさくなる。Aが美人だから、教養があるから、アアだからコウだから……という理由をとうとうと述べ続けることができる人は、Aを真に愛してはいない。なぜなら、これはこうした特性がAから消え去るとき、Aを愛さないことを含意するからである。だが「なぜかわからないがAだから好きだ」という人こそ真の愛を知っている。これは多くの人が同意することであろう。
 だが、この理屈を「憎しみ」や「嫌い」に適用すると、そこにはたいへん恐ろしい世界が開けてくる。私がある人を恨むとき、その理由を挙げることができるかぎり、それは軽い憎しみである。しかし、究極の憎しみとは「なぜかわからないがBだから嫌いだ」というものである。この場合、憎しみはBの諸特性にあるのではなく、Bという存在そのものに向けられている。だから、この意味で嫌われてしまうと、もう手の施しようがない。Bがたとえ性格を変えても、整形美容をほどこしても、いやそうすればそうするほど「Bである」という存在そのものが浮き立ってきて、Bはますます嫌われるのである。
 教師は、この人類に課せられた超難問に生徒とともに真剣に取り組むべきであろう。先生が教室で悲痛な顔をして「あなたがた、なぜBを嫌うの?」と問うても、真相は見えてこないであろう。「Bのここが許せない」「あそこが嫌いだ」という表向きの理由の底にはクログロと「Bの存在が嫌いなのだ」という回答が横たわっていることを、生徒たちは知っている。「自分も同じことをされたらどうなの?」という問いかけも的を外れている。「自分は嫌われない。なぜなら自分だから。アイツは嫌われる。なぜならアイツだから」という答えもまた、握りつぶすことのできない真実の叫びなのだ。「個性の尊重」とはこういうことである。
 ここには、安直な回答はない。人類の永遠の課題なのである。としても、だからおちって悠長に手をこまねいていてよいわけではない。教師はせめて「きれいごと」を語ることをやめるべきであろう。「いじめられえいるBがどんなに苦しんでいるのかわからないのか!きみたちは思いやりがないのか!」という叫び声は、生徒の心には届かない。みな、Bが苦しんでいることがわかっていじめているのである。Bが苦しんでいるから、それがおもしろいからいじめているのである。できればBを滅ぼしたいのである。Bの存在そのものが気に食わないのである。人間とは(子供でも)、それほどまでに残酷なのである。
 究極のところは、自分の個人的な善感情をそのまま生徒たちにぶつけるしかない。自分の「好き・嫌い」をはっきり示すしかない。「いかに生きるべきか」に普遍的な正解がないように、「好き嫌い」には何の普遍的な正解もないこと、しかし今ここで私はこう考える、感じると生徒たちにぶつけてゆくしかない。
 ―人を嫌うのは人を好きになるのと同じくらい自然なことだと思う。だが、なぜだかわからないが、嫌う人を(少なくとも過度に)苦しめてはいけないように思う。嫌いであるという感情を偽ることはない。だが、この感情は相手を滅ぼすまでやむことのない凶暴な恐ろしい感情なのだ。残念ながら、人間とはそのように攻撃的な恐ろしい動物なのだ。だから、互いに攻撃し合うことを最小限に止めるためにルールをつくるべきだと思う。心底嫌いな人でも、あたかも嫌いでないかのように、あたかも好きであるかのように振る舞うルールをつくるべきだと思う。
 俺にもありとあらゆる差別感情はある。この生徒は大好きだがあの生徒は大嫌いだということはある。知らないうちに差別していることを知ってハッとすることもある。だが、なぜかそうしたとき自分を恥じているんだ。人間が平等だなんて全然信じてはいない。個人のあいだの能力差は絶望的なほどだし、それはけっして「解決」などできないことも知っている。本人の責任から離れたところで、とても幸福な人生ととても不幸な人生があることも知っている。だが、なぜか知らないが、みんな人間であるかぎり平等であり、どんなに嫌なヤツでっも人間であるかぎり尊重しなければならない、と思い込みたい強烈な気持ちもあるんだ。そうでも考えなければ、人生なんてあまりにも悲惨で耐えられないんだよ。


 かなり長い引用であったが、この本のなかで私が一番真実だなと感じ、すばらしいと思った部分を引用した。
 私自身も教員免許を貰う立場となって、いつでも教壇にたてる身となってしまった。もちろん生徒たちとの交流は楽しいし、いますぐにでも教師になりたいかと言われればなりたいが、しかし、私にはまだ教師にはなれない。そこまで自分が成長していないと思うためである。
 さて、だから今回は教師としての目線で今回のこの部分を読んだわけだが、つらいものがあった。確かに私も幼い頃、でなくても、現在でも、嫌いな奴はとことん嫌いだ。何が嫌いだというわけではなく、その存在自体が嫌いなのだ。その気持ちを止めることが、留めることができないのである。
 こういう自分自身のこころを見つめていると、そんな人間が教員にはなれないではないか!と激しく悶絶するのである。
だが、中島義道は勇敢にも、こんなことを書けば世の中の保護者や教育者たちから非難されるのを覚悟して自分の感じた真実を書いている。そしてその真実は確かに私も真実だと感じるものなのである。
 人が人を理由なく好きになるのだとしら、人は人を理由なく嫌いになるのである。これを避けては通れないだろう。人間はそういう残酷なところがある。それを人は人を嫌いになってはいけない、みんなで仲良くしていきましょう、というのはいけないのだ、と彼は勇敢にも言うのである。これは哲学者でなければいえなかった言葉かもしれない。もしも、人が人を好きになるように、嫌いになるところにもその人の「尊厳」その人がその人である理由のようなものが存在するのだとしたら、ある人を嫌いになることを、いけないことだ、みんな好きになりなさい、というのは、心を縛りつける、恐ろしい教育になりかねない。
 人間は人を嫌いにならないかわりに人を好きにもならない、というようなロボットのように心を亡くした人間にはなれないのだ。人は人を好きになるかわりに、人を嫌いになる。それを織り込んで生きていくほかないのである。それを見て見ぬふりをしていては教育者どころか、人間にもなれないのである。そんなきれいごとではなくて、汚い部分も見ていかなければならない。それが生きていく上で必要なことならば、というのがこの部分なのだ。
私はこういう人間の本性のようなものを見るにつけて、なんて生きるということは大変な、そして崇高なことなんだと思わずにはいられない。
 私もではこの嫌いな人に対してどうすればいいのか、というところまで結論が出ていない。私自身修行が足りないので、嫌いな人に対しては露骨に嫌悪感を出してしまうのである。それを出さないようにするのは大人になることかもしれないが、私にはまだ難しい。そうした部分を乗り越えてなんとか人類が嫌悪感に打ち勝ち、平和に生きることができないか、ということをただただ模索し、願い続けるばかりである。

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