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河童のクゥと夏休み 感想とレビュー ジャパニメーションの夏休みと自由

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 ジャパニメーションの夏休みと自由
 アニメーション映画をよく鑑賞していると、いかに日本のアニメーション映画が夏休みと結びついているのかがよくわかる。
 簡単に挙げてみただけでも、『サマー・ウォーズ』『虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜』『ももへの手紙』『宇宙ショーへようこそ』『時をかける少女』など、数多くの作品が夏休みを題材に選んで作品をつくっていることがうかがえる。単純に考えてみると、アニメというのはそもそも誰がみるものかということから、理由をひとつ導き出せると思う。すなわち、アニメというのは子供がみる。必然アニメーション映画の主人公は青少年になる。十代の子供たちが物語りのなかで自由に活動するためには、大人たちから解放されなければならない。子供が自分達で活躍でき、かつ親の束縛から解放される、この珍しい時期がちょうど現実世界では夏休みとなるわけである。
 もちろん、親と一緒に田舎の実家に行っているのだから、完全に親の庇護下から解放されているわけではない、という当たり前のことはおいておいて、しかしそれでも比較的自由に子供たちが解放されるのがこの夏休みというわけなのである。
 あいにく私の場合は両親の実家がどちらも東京で、休みはたんぼや川がある田舎に帰る、ということができなかった。そのため、この田舎に帰るという、一種のノスタルジーとは無縁であった。だから実際のレベルで、ほんとうに田舎に帰った青少年たちが自由たりえたのかということはわからない。が、少なくとも日本人の青少年の想像において、幻想においては、田舎=自由という公式が出来上がっているということはできよう。もちろんニワトリと卵の論で、自由だったから映画ができたのか、映画ができたから自由だというイメージが広まったのかは定かではないが・・・。

 さて今回論じるのは、河童のクゥと夏休み、という作品である。
 この作品はリアリズムという観点から読み解くことができる。
 最初に河童が水でもどっていく場面。私はここをある一種の衝撃をもちながら鑑賞した。というのは、とてもこの場面がリアルに思われたからである。もちろん冒頭の父親が殺害されてしまう場面もまた同じくリアルであった。私はグロテスクな描写が苦手なので、この父の殺害や、乾燥した状態から徐々にもどってくるクゥの姿に、グロテスクさを感じておどろいていたわけである。
 そもそもアニメというのはいまだに子供が見るもの、という一種の共通認識があるし、私はもちろん反対しつつも、そういう風潮でアニメが作られていることも認識しながら見ているから、この作品を最初にみたときは違和感を覚えたものであった。もし子供向けで作られているとしたならば、冒頭からいきなり残虐な殺害シーンや、からっからにかわいた、ほんとうに妖怪らしい河童の姿は映さないだろうなという気がしたからだ。
 ほかにも、アニメーションというメディア媒体を考えるときに、アニメというのは線画なのであるから、そこには通常の映像とはことなった、省略や抽象化ということが可能になる。だいたいどのアニメにおいても、乳首は描かない。だが、この映画はそれと同じレベルにおいて、通常性器を描かないのに対して、きちんと描いて見せているのである。
 もちろん、クゥがまだ河童とはいえ子どもだったから描き得たということもあろう。成人した河童であったならば、腰に布をまくなりしたと思うが、この作品では、リアリズムをめざしているということもあって、クゥの下半身、男性器がきちんと描かれているのである。

 そうしたところからも、この映画がリアリズムを目指しているということがわかる。
 もうひとつのリアリズムは、眼に見える形での、そうした描きこみということもさることながら、人間の内面の描写のリアリズムである。
 この作品を見てこれはすごいなと感じたのは、人間のグロテスクさである。
 現代において我々は科学的リアリズムをもって現実を生きている。例えばこの作品のラストでは、河童はエイリアンのようなものだから、どんな病原菌を持っているかわからないとか、なぜひからびた河童の腕が父親のものであるとわかるのか、DNA鑑定をしたのか?といった科学的リアリズム的な発言が描写される。我々は実際こういう発言をしてしまう人間の側なのである。
 ところがこの作品にはそうした科学的ではない、リアリズムが通底しているのである。もしも、妖怪その他が本当に存在するとして、それがもし今現代に存在していたらどうなるのか?というリアリズムである。
 河童がいるらしいという噂がどんどん広がっていき、ネットで話題になり、それから週刊誌が強引な取材をして、一気にテレビがやってくる。ここらへん、報道陣がこれでもかと熱気を帯びてやってくるさまは、あまりにもリアルに描かれていて、人間の狂気を感じたものである。
 また、この主人公である康一でさえも、人間は変わり得るものであるという人間哲学から、テレビにでられるかもしれない、ということからこのクゥを見世物にすることをなんとも思わない場面も出てくるのである。もちろんこの康一が主人公になりえるのは、途中で軸がぶれたとしても、最後にはクゥを見世物にするような状況に疑問をいだき、もう一人菊地という心のきれいな少女と共にクゥを大切にする人間へと戻れたことに由来する。
 何よりもリアルに思われたのは、冒頭でものすごく仲良さそうにしていた友人三人が、途中河童がいるらしいという噂を聞きつけ、それを見せてくれとせまるも、見せてくれなかったというだけで、康一を仲間はずれにしてしまうという場面である。
 この両者の間はこの作中では結局修繕されない。最後まで、菊地という少女と歩いているところをおそってきて、河童菌だのなんだのと、見ているこちらも本当に腹が立ってくるような挑発をし、けんか別れになってしまう。だが、この人間の心変わりというのは、まさしく私たち現代の若者世代が学校という現場で行い、行われてきたことであったと痛感せずにはいられない。

 この物語は、人間のエゴイズムをリアリスティックに描いたために、必然その犠牲が生じてしまう。それがこの作中では人身御供ではないけれども、オッサンという犬の死によって代行される。もちろんその直後のカラスの死というのも代行である。
 もしこの物語に犬とカラスという代行する者がいなければ、ここで死んでいたのはおそらく康一一家の誰かだろうし、カラスのかわりに死んだのは、これだけ大勢やってくる好奇心旺盛な人間のいくらかであろう。人間の好奇心というのは、狂気心ににている。好奇心がなければ、人間は生きる意味もなくなってしまうだろうが、しかし自分とは異質なものに対するこの好奇な目というのは、いかにもグロテスクなものであるということを我々は忘れてはいけないだろう。この作品はそれを風刺するために作り出されたといっても過言ではない。
 特にこの犬が死んでいるにもかかわらず、河童がめずらしいからといってカメラやケータイを向ける人間の描写は気持ちが悪いほどにリアルでそして胸糞がわるい。そこに群がろうとするカラスは、その好奇の目を持つものたちのかわりに死ぬが、それは作者からの罰則であろう。

 この物語の唯一の救いとなっているのは、菊地という少女である。彼女は幸が薄いと言われて、誰からも嫌われている。黒板消しを投げつけられたり、ここまで露骨にならなかったとしても、私も学生生活のなかでこのような存在を男女ともに見て来たものである。
 菊地がクゥと対話することができたのは、本質的にこの両者が同じ性質を持つからである。それはすなわち、共同体からは排除されるもの。異質な者というわけである。
 教職講座をとっていると、このような状況設定があります、あなたが先生だったらどうしますか、というシミュレーションをよくやらされる。そのなかでこんなものがある。知的障害を持った子がクラスにいて、その子のせいで勉強ができないといってくる他のクラスメートがいる、というものだ。残念なことに現実レベルの答えとして、このクラスからは近々この知的障害を持った子はいなくなるであろう、というものである。しかしその際に、自分達がこの子と一緒にいられなくさせたんだということをいかに子供たちに感じさせるか、そこに教師の腕がかかっている、と考えられるのである。
これは問題としては同じことだろう。
 当初好奇の目をもって、まるで襲い掛かるようにしてこの河童を見ようとする。自分たちはただ自分の欲望にしたがっているだけだから、なんの悪いこともしていないと思いこんでいる。いや、そう思いこまずにはいられないほどこの好奇の目というのは大きな存在なのである。そうしておいて、いざそれはやめてくれ、と向こうから例えば康一の家族から言われると、報道の自由だとか、知る権利だとかいって、知られない権利や報道されない権利があることをまったく無視し、自分達の当然の権利がうばわれたかのごとく過剰に攻撃するのである。そうして反撃されたら、この作品ではカメラのレンズを超能力で割る、カラスを殺す程度のこと、をしたら、自分たちは何もしていないのに攻撃された!とさらに過剰に被害者意識を持つのである。
 人間のこうしたグロテスクな側面をこの作品はありありと描いて見せる。
 そうして菊地とクゥとに共通する点は、ここでの排除される側の存在なのである。
 唯一の救いとなっているのが、この二人が最後は救われるような感じで描かれていることだ。そのためには、やや不自然ながら、沖縄のキジムナーをいきなり登場させずにはいられなかったほどである。現実レベルで見れば、この少女菊地は必然的にこの学校にいられなくなり、転校させられ、河童のクゥはこれ以上康一との生活ができなくなり、人がいないところへ行ったのである。それをオブラートにつつみこんで、なんとか救いのように描いたのである。が、現実レベルではこれは救いとはいえないだろう。私たちはこうしてまた新たな排除をしてしまったわけなのだから。

 それにしてもこの作品はおどろくほど徹底した社会風刺で、しかも社会風刺作品にありがちた、いや、それはあなたたちの思い込みです、といったような論点がややズレている、といったこともなく、まことにピシャリと我々の弱点をついてきているのである。確かに現代にもし河童が現れたとしたならば、こうなるだろうなと思わずにはいられない。
 これは河童にかぎらず、何かちょっと珍しいものがあれば、みんなこうなるのであるから、人間の業欲というものは果てしがない。この作品が少しでも多くの大人に届き、自分の行いを見直す手本となってくれればいいと願うばかりである。

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