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真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ

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 『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』(しんゲッターロボたいネオゲッターロボ)は2000年に発売されたOVA。
Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E3%82%B2%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%9C%E5%AF%BE%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%9C


 ゲッターロボ自体もあまりよくしらない私が、突然この映画を観ることになって、やや当惑気味なのであるが、この映画(正確にはOVA)を見て感じ、考えたことをこれから述べて行きたい。
 この作品は2000年制作のOVAである。とすると、比較的私の感覚で言えば新しい作品ということができよう。2000年をまたいでいるかまたいでいないかで私にとっての新しさ、古さというものはわかれるような気がする。それは1990年代に生まれているから、記憶が明確にあるのが2000年になったくらいのころからであるということもできよう。
さて、2000年にできた作品としては、とても古いもののように私には感じられた。
 というのも、ここで描かれている内容、ひとつめは、ロボットの外観など、もうひとつは物語内容など、が、いかにも70年代80年代のマジンガーZ等々につらなる一連のロボットアニメの系譜にあたるからである。もちろん私がこれらのロボットアニメに詳しいわけではない。これから勉強していくつもりではいるのだが。ただ、雰囲気としてそのような時代の香りを感じたのである。もしかすると、この作品の制作陣は70、80年代のロボットアニメが好きで、そのような作品を作りたいと願っていたからかもしれない。

 まったく内容もなにもわからない状況でも、ちらほらとこの作品のタイトルは耳にはいってきた。両者ともゲッターロボという名が冠されている。ロボットアニメというのは基本的には敵と味方というわかりやすい構図であるので、このどちらにも本来味方であるはずのゲッターロボという名前が入っているのにはどういう意味があるのだろうか、と私はつねづね考えていた。
 作中で、恐竜の人種が攻めてくる場面がある。あそこで真ゲッターロボを奪取し、まるっで0083スターダストメモリーのようにガンダムとガンダムが戦うのか?とも思ったが、そういう想像力でもなかったようである。結局真ゲッターロボとネオゲッターロボが戦うという場面はなく、タイトルにある「対」の意味はいまいちわからなかった。

 本作は慣れるまでには結構きびしい作品であると、率直に思う。好きな人は好きなんだろうけれども、好きになれるのにやや時間がかかりそうである。
 この作品のノリのようなものは、マクロス7を見たころに少し似ている。あの作品もなかなかはまるのに時間のかかる作品であった。バサラの1人勝手な感じになんとなくついていけずに苦労したものである。が、徐々にバサラのことを周囲が理解していくように、私もバサラのことを理解できるようになり、終盤には、是で終わらないでくれ、もっと続きを見せてくれ、と思わずにはいられないほどにまで観客を魅了するような魅力があった。
 この作品も二時間分みただけでは分からない魅力というものがありそうな気がする。
 ここに登場する登場人物たちはいずれもテンションが異様に高く、そしてみなあまりにも強靭な肉体を持っている。一人で一体どれだけの敵を倒せば気が済むのかという、バランス感覚の崩壊した作風である。これがガンダムであればこうはいかない。特に私はZガンダムのような、一機打てれば上々といった、戦場のリアリズムが好きなので、このような一騎当千型のアニメには違和感を覚えないわけではない。そんなことありえないだろ、とどこかで突っ込んでいる私がいるのである。
 だが、こういう作品はこういう作品だと解釈するほかないだろう。ここにリアリズムを持ち込むのはあまり意味がないような気がするのである。

 やや笑ってしまわなくもない場面がある。例えば、終盤ボロボロになった真ゲッターロボだが、これがマクロスでいったらドボルザークのような敵のラスボスとの戦闘において、こてんぱんにやられてしまう。だが最後の最後で大どんでん返しが起こり、いままでのフォルムとは明らかにことなった、もはや機械ではありえない、メタモルフォーゼを遂げるのである。機械がこんな有機的な、いや有機的な存在でもこうはなりはしない、というツッコミは心のどこかで押さえておくとしよう。
真っ青な姿となった真ゲッターロボ。ここの強さのインフレーションにもやや笑わずにはいられない。コテンパンにやられていたかと思うと、こんどはコテンパンにやっつけてしまうのである。もう少し力をコントロールして、いい線だが徐々に負けていく、いい線だが徐々に勝っていく、といったような戦いのほうが手に汗握るのではないかと思うのだが、いかがなものだろうか・・・。敵のラスボスが登場した場面も、ああ、こいつもなんだかんだ言ってすぐにやられることになるのだろうなあ、と思ってしまうと、作品を見る目が覚めたものになってしまう。
 これは完全に見るもの、すなわち私が多くの作品を見過ぎたために、このような視点を確保してしまったという、私の問題ではあるのであるが、そうした目に耐えられる作品を作ってほしかった、というのは、一観客の願いである。

 だが、この作品は評価できないのかというとそうではない。
 70.80年代のロボットアニメの系譜をおさえつつも、この作品ならではのオリジナリティーも存在する。通常こうしたロボットアニメは一人の天才によって、科学的という名の、非科学的な想像力によって生み出される、という設定が多い。例えばコナンなどは典型例だが、ちっとも科学的でもないにもかかわらずに、なんだか科学的なような気がする秘密道具をコナンたちは一人の天才科学者という人物の名において、自由に使うことができるのである。
 だが、この作品ではまず博士が二人登場しているという設定がおもしろい。
 1人は頭が完全にいってしまっている、しかも大道剴という人物によって「少々頭はいっちまっているが」と批評される(これはすごい批評である。通常このような批評が作品に持ち込まれることは珍しい)、敷島(しきしま)博士である。
 そうしてもうひとりは、この敷島博士と対になるかのような、ゲッター線研究の第一人者、早乙女(さおとめ)博士である。こちらは、いままでのロボットアニメの博士と同じような、偉い博士である。
 この作品には、偉い博士と偉くない博士の二人の両極的な人物が登場するのが魅力的である。これがすべて一人の博士によってやられてしまうと、一体何が博士の発明物なのか、そこらへんがブラックボックス化してしまう。この作品では二人の博士が登場することによって、武器は敷島といった、責任は早乙女といった役割分担ができているのである。
他にもこの作品を見ていて気になったのが、ゲッター線というものである。
 一体ゲッター線がなんなのかはよくわからないが、最終戦闘で、敵方のボスが「なぜゲッター線は地球を選ぶ」といった発言や、博士たちもゲッター線は今回も地球を選んでくれた、地球人はいまのところ生かされている、といった発言が注目にあたいする。
 例えばエヴァンゲリオンを通常のロボットアニメといっしょくたにして考えてはいけない様に、あれはロボットではなく、人造人間である。そこにとてつもない意味があるのである。それと同様に、この作品でも、どうやらゲッターロボというのは、単なるロボットではなく、何かしらの意志を持つ存在のようであるのだ。
 ここはやはりひとつ考えて行かなければならないところだろうと思う。また興味深い設定でもある。70,80年代のロボットアニメの系譜をたどっていながら、このような特質性が出てきたことは、注目に値する。

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