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頭文字D Third Stage -INITIAL D THE MOVIE- 感想とレビュー

pogrsster2


 『頭文字D』(イニシャル・ディー / 英語表記: Initial D) は、しげの秀一による日本の漫画作品、またそれを原作にしたテレビアニメと映画を指す。通称「イニD」。峠道において自動車を高速で走行させることを目的とする、走り屋の若者たちを描いた作品である。
Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E6%96%87%E5%AD%97D

 作品タイトルだけはよく耳にした作品を、今回初めてみた。とりあえず私が最初に作品に触れる場合、アニメから入ることも多いのだが、時間がないときは、一般のお客も想定してつくられたであろう、劇場版から見ることにしている。劇場版は、その作品の雰囲気やエッセンスを集約しており、作品全体を知るうえでは有効なメディア媒体だからである。
 今回私はほとんど何も知らずにこの作品を鑑賞したのだが、なかなかおもしろかった。車は好きなので、そういう点では、他の車についてそんなに詳しくない視聴者と比べるとアドバンテージがあったかもしれない。
 以下、感じ考えたことを書いていく。

 まずこの作品の基本的な構造であるが、この作品は基本的に、スピードを要求する作品である。
 よく漫画は動きを要望するメディアであるといわれる。これはどういうことかというと、漫画という絵を基本とする媒体において、その媒体、マンガがどのような内容を好むのかというと、動きなのである。だから、バトル漫画などは、もともと漫画そのものが欲求するものと、その内容が一致したという点で、メディアの利点を使っているということになる。
 近年ではライトノベルにもバトルものが多々あるが、やはり文章での記述は、動きにはメディアとして弱い。どんなに文章でえがかれていようと、視覚的に伝わってこないからイメージがしにくいのである。こういうメディアの基本的な性質というものがある。
 たとえば、デスノートなどは、本来小説、しかもかなり重厚なミステリーサイエンス小説になり得たものであるが、これを敢えて漫画で表現したというところに、こうした一般的には漫画は動きを要求するけれども、といった、常識を打ち破った表現方法がある。これが功を奏してこの作品は大ヒットしたというわけである。
 今回のイニシャルDであるが、これは比較的スタンダードな、漫画に即した表現になっているということができよう。漫画表現において、動きとスピードは、二つの大きな利点なのである。
 私は漫画原作を読んでいないのであるが、おそらく漫画自体もかなりすぐれた作品であろうということが、このことからも予想される。
 今回鑑賞した劇場版作品であるが、これはアニメーションというメディア媒体である。アニメも漫画に近しい媒体なので、何を希求するのかというと、漫画と同じく動きとスピードである。漫画が文章とアニメの中間としたならば、アニメは漫画よりもさらに動きとスピードに特化した媒体ということができよう。そのかわりに、文章の得意とする心理描写などから離れていってしまうという欠点はある。
 だが、今回のイニシャルDはまさしく動きとスピードを希求する内容であるので、もしかしたら漫画よりもその点はうまく表現できているのかもしれない。

 ただ、残念だったのは、本作では車がすべてCGで表現されてしまっていることである。
 もちろん時間と予算の限られた中で作品を制作しないのはわかるので、アニメ版等でそれを全部セル画で書いてほしいという要求はあまりにも厳しいことはわかっている。が、せめて劇場版くらいはCGではなく、セル画で書いてほしかったというのはセル画好きな私の希望である。
 例えば、セル画でレースのスピード感を見事に表現した作品に、2010年のレッドラインという作品がある。これは、スピードを出した高速の世界においては、我々のモノの認識がゆがむというところを見事に表現しているのである。レーシングカーというのは、もちろん鉄やらなにやらかたい物質でできているので曲がったり、ゆがんだりということはありえない。だけれども、レッドラインでは敢えてそれを曲げ、歪めて表現することによって、見事にスピードが出た世界であるということを表現してみせたのである。
 イニシャルDにもそうした表現を私はしてもらいたかった。

 だが、CGでの表現もそんなに悪かったわけではない。むしろリアリティーを醸し出すという点においては成功しているだろう。やや車本来の重さというものが感じられはしないが、スピードが出ているという感じを出すことには成功している。
車のエンジン音などもおそらく本物を使っていることだろう。私も車に乗るのが好きなので、このエンジン音を聞くとたまらず走りたくなってしまった。
 また、この作品を見ていて、うまいなと思ったのは、リアリズムを追い求めながらも、やはり根底はアニメ的な表現なんだなという点である。どういうことかというと、この作品ではタコメーター、エンジンの回転数を表すメーターは表示されても、キロメーターの表示はされないのである。
 これをどういうことかと考えてみたのだが、一番簡単なのは、単純にまねされると危険であるからという倫理的な問題であろう。もちろんこうした問題が大きいとは思うが、こういう考えでは作品を読み解くうえでちっともおもしろい読みとも言えないし、なにか生産的であるとも思えない。で、私はこのような解釈をしてみたのである。すなわち、この作品には、現実世界のキロメートルという概念をいれないことによって、極めて虚構性の高い作品世界が構築されているというものである。
確かに車のボディもCGで表現したりとリアリズムに徹している部分はあるのではあるが、これを本当にリアリスティックに表現してしまうと、これを真似してしまう人が続出してしまう。そうならないためにも、この作品はあるところでやはりフィクションなのである、虚構なのであるという、虚構性をせをわなければならないのだ。それをどこに求めたのかというと、先ほどから論じている、スピード感覚についてである。
 この作品ではものすごく速いスピードで峠を登ったり下ったりしているように感じられる。それは、ひとえに表現がすばらしいからである。が、これが実際どの程度のスピードなのかということはこの作品には組み込まれない。そのことによって、速さは客観的、キロメーターで表現できるものではなくて、主観的な速さになるのである。
だから、たとえ時速20キロであっても、速いと感じる場合は速いのである。例えば車で時速20キロであれば、遅いと多くの人間が感じるが、自転車で20キロを出したらかなり早いと多くの人が感じることであろう。速さを感じるのは、こうした客観性ではなく、主観性でいいわけである。
 だからこのイニシャルDに登場する人物たちが峠で実際は50キロであろうが、80キロであろうが、どうでもいいのである。本人たちが速いのだと感じていれば速いのである。
 この作品はそれを表現したかったのだといってもいいと私は思う。

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No title

なんか勘違いされてますが、レッドラインでももう既にセル画なんて使ってませんよ。

セル画ってのはセルに絵の具塗っけて描いてるもののことであって、レッドラインなんかはセル画ではなくコンピュータ上で手描きでメカを1フレームずつ描いてアニメーションにしてるという状態です。

よって使用済みのセル画がほしい!となっても、レッドラインではセル画自体が存在しないので形として売ったりということができないです。
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