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名探偵コナン 異次元の狙撃手 感想とレビュー

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 コナンの映画18作目となる『異次元の狙撃手』鑑賞。
 もはや謎解きというよりかは、スナイパー同士の戦いといっていい。戦争映画になってしまっているような気もするが、ひとつのテーマでこれだけやってきたコナンにそんなケチをつけてはいけないだろう。
 東京スカイツリーとそっくりな建物が本作では、東京ベルツリータワーということになって、またまたアニメではよくありがちな、超大金持ちキャラ、その子の、鈴木財閥の建物ということになっている。
 コナンを久しぶりに見て思ったことであるが、アニメーションは必然読者、視聴者が低年齢層になりがちなため、主人公たちも低年齢層にならざるをえない。別に大人を描いてもいいはずなのだが、そこはアニめ製作者たちもアニメ=子どもという呪縛から抜け出せていないのかもしれない。で、何が言いたいのかというと、子供たちが主人公になると、その子供たちを活躍させるためには、できるかぎり子供たちを束縛する存在を排除しなければならないということになる。そのため、多くのアニメには親という存在が欠如しているのである。
 しかも、内田樹等が指摘しているように、現代資本主義においては、子供は貨幣というシステムを通して大人と対等にわたりあえるようになっている。とすると、その体質というのは、貨幣というシステムがなくても、通用しつつあるように思われる。すなわち、このアニメでは、一応コナンや灰原等は大人、というくくりに入るが、子供化して子供と同一となっている彼等は、この物語のなかでは子供に徹していなければならないのにもかかわらず、FBIのジョディ先生等と対等に渡り合っているのである。
 もちろん、FBIのジョディ先生たちはコナンの正体をすでに知っている、という認識なのだろうが、子供目には、子供の仲間であるはずのコナンが、なぜかはわからないが大人たちと対等に渡り合っていて、しかもそれが恰好良いという、万能感を与えかねない。実際一回の高校生である工藤新一にしても、FBIの特務警官たちと対等に渡り合えるはずもなく、よくある戦闘アニメで、どんどん敵が強くなっていって、しまいには国家や、世界規模の戦いになってしまうごとくに、コナンもまた、身辺の探偵ごっこではすまずに、個か規模の謎に高校生が介入するという、きわめて変質的な作品になってきてしまっている。

 もちろん、このような作品にそうした現実世界のリアリズムを持ち込むのはご法度だろう。これは、こういう世界観なのだということを承認したうえで楽しまなければならない作品と言えよう。
 今回は、警察やFBIが然程無能には描かれない。一昔前のコナンは、このFBIの有能な警官たちが出てくる前ということだが、そのころはコナンが全て解決していた。しかしそれではあまりにも無理があろう。この作品では、最終的なことはFBIの警官が行っているということもあって、リアリズムでは計り知れない作品ではあるけれども、作品崩壊のようなコナンだけが活躍するという作品ではなくなっている。
 そのぶん、コナンの謎解きがほとんどなかったというのは、この作品の欠点かもしれない。が、コナンが解決しなくとも、徐々に謎が明かされていくという作品構造を持つので、観客は作品に身を任されていればいいのである。
 私は推理力もないし、こうしたミステリーものに特有のルールらしきものもよくわからない。なので、自慢ではないが、コナンの謎解きは一度たりとも当たった試しはない。反面、私はコナンの謎解きは、ミステリー好きでも解けないような、難解、というよりかは、めちゃめちゃ、なものだと思っているのだが、どうだろうか。

 今回はタイトルにある通り、スタイパー同士が戦う、というそれだけに限る映画になっている。その点で、手に汗握るような緊張感も少しはあり、成功していると言えよう。
 かつて私は京都が舞台だったコナンの映画が一番面白かったように記憶しているが、今回も舞台をきちんと設定しており、その点ではご当地映画とも言えるだろう。今回の舞台は東京浅草である。東京bルツリーなるタワーが登場したあたりからあの下町が舞台だということは分かっていたが、エンディングで流れるその舞台となった場所の実際の映像を見せることによって、作品に極めてたかいレベルのリアリズムを付与させることに成功している。これはちょっと卑怯な技と言えるかもしれない。
 コナンはリアリズムではありえない設定なのにもかかわらず、なぜかリアリズムであるかのように描き、そして多くの観客を騙し得ているという点で成功している、きわめて不思議な映画である。特に作品のリアリズムを支えているのは、こうした舞台となった建物の描写を写実主義のように描写することや、登場する車を現実のものと一緒にすると言った工夫である。私は車が好きなので、車の型をよく覚えている。このアニメに登場する車はことごとく現実にあるもので、そのために、車の外見を見れば大抵の年代を私は特定できるのであるが、その車を忠実に模写していてくれるかぎり、コナンの映画がいったいいつごろのものかということは、即座にわかってしまうのである。
 ただ、欠点もある。そのように年代とともに大きく変容する車をリアリズムのためとはいえ作中にもちこんだために、永劫回帰的な時間軸のない作品に現実の時間軸が挿入されてしまったということだ。コナンはきくところによると、連載十何年をつづけていて、作中の時間はまだ一年も経過していないようである。にもかかわらず、このように車を描写することによって、やはり十年前の映画と、今年の映画とでは、かなり作中の時間、年代の描かれ方が異なってしまうのである。
 ドラえもんやクレヨンしんちゃん、サザエさんなどがこれだけロングランで作品をつくりつづけておきながら、なんとか崩壊の憂き目を逃れて来たのは時代に迎合しなかったからということが大きい。クレヨンしんちゃんの場合は時事ネタをいれてきたりするので、2、3年経った後に見てわかるかどうかという問題が残らないではないが、少なくともスマホ等々を作中に出しはしない。ところがこの作品ではスマホが平気ででてくるのである。あと十年経ったとき、やはりスマホは過去の遺物になっているであろうから、こうした時代性に耐えられるかどうかという点ではやや怪しい側面が残る。

 それにしても、もはやアメリカの軍の事情を持ち込まれてしまっては、コナンたちの活躍する場がなくなってはこないかと心配せずにはいられない。ことがあまりにも大きすぎるような気がするのだ。もう少しミニマムな謎くらいにしておいたほうが私としても安心して見られるのだが。
 それにいくらコナンが名探偵だからといって、今作ではあまりにも命の危機に晒されすぎている。世良と呼ばれる謎の探偵少女がいなければコナンは死んでいたわけで、そこまで命の危険にさらされていながら、なにが名探偵だと突っ込まずにはいられない。本当に名探偵なら、自分の命を危機にさらすことなく探偵してみろといいたいのだが・・・。

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