渋谷昌三『自分がわかる心理学』 読書メモ 感想とレビュー

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 渋谷昌三の『自分がわかる心理学』を読んだ。渋谷昌三と言えば、心理学系の本を沢山出している著名な人である。私は心理学系のことにも興味があるので、Bookoffなどに行った際には、とりあえずタイトルがよさそうなものを買ってきている。渋谷昌三の名はそうした場面でよく目にする。彼の本を私はたぶん読んでいたとして一冊くらい。どんなことを書いているのだろうかと思って読み始めた。
 内容はというと、タイトルの通り、自分がどういうものなのか、を知るための一歩となる内容だった。
 これだけ著名な人であるからもう少し高度な内容を期待していたのだが、比較的入門的な要素が強く、私としてはやや浅かったように感じられる。この本の出版は1993年。なんと私が一歳の時だ。手に入れた本が1999年増刷だったが、ずいぶんきれいな状態だったので、もっと新しい本かと思っていた。自分が生まれた時代がどんな時代だったのかは、完全に知る由がないけれども、1990年前半である、きっと「自分探し」など、世紀末的な雰囲気のなかでさまざまなものが流行していたのだろう。この本は自分ってなんなんだろうという素朴な疑問を持ってしまった一般的な読者に対して記された、いわばきちんとした、怪しくない良書だったのだと思う。

 そのように一般的な読者を対象に書かれているためか、内容は浅い。つい先日『面白いほどよくわかる社会心理学』という心理学の一部分を取り扱った本を読んだが、これと同じ感じだ。今回の本は、自分を知るために有効な心理学の一部、といってもかなり膨大なのだが、それを網羅的に、広く浅く触れた感じの本である。
 紙面も限られているので、ひとつひとつの問題にはほとんど深くは立ち入らない。なぜそうなの?という疑問には答えてはくれないが、こんな分野にこんな研究があるよというのはわかる。全体像を見るためには良い本だろう。
面白い指摘もある。いくつか引用しよう。

 〈眠っている間に深層の願望が目覚め、それが夢になって具体化されます。しかし、このときでも、意識のコントロールがまったくなくなったというわけではありません。だから本当の願望は、自分が思い出しても支障がないように姿を変えた夢になる場合が多くなります。つまり、私たちが思い出す夢は、本当の願望を巧みにカモフラージュしたものということになります。言い換えれば「どうしても思い出せない夢」とは、本当は、「思い出したくない夢」だとも考えられるわけです。逆に、よく覚えている夢は、本当の願望が姿を変えた夢か、あるいは、自分に都合がよい夢である可能性が高いわけです〉
 この指摘などは、なるほどと思ってしまった。ただ、論理的な飛躍というか、そう言い切れるのか?解釈によっては別のことも言えるな、という感じはする。が、それは置いておいたとして、なるほど楽しめる内容ではある。私もフロイトが言ったように夢というのは自分の願望の反映であると、大方思っている。なので、夢は覚えていられる範囲でメモをしている。時には人には言えないが、ああこれが自分の願望なんだなと思うような内容のものもある。が、そうでないものももちろんある。自分が恐れていたことが夢になったりすることもあるので、ここに書かれてあることが全てに当てはまるというわけではない。そんなことを言ったら何も言えなくなるので、私の批判はあまり意味のないことではあるが。

 ストレスの部分では、そういわれれば当たり前だが、このような指摘がなされている。
 〈こうした心理的なストレスは、人間関係を改善しようと考えたり、自分自身の生活態度を変えようとしたり、仕事のやり方を工夫しようとしたりする際のきっかけになるはずです〉
 〈ストレスは、私たちに、「自分の心身が危ない。しかるべき防御をせよ」とのサインを送っています。〉
 言われてみればなんということはない、当たり前のことである。けれども言われるまでなかなかこういう発想に至れない。ストレスは無い方がいいなと思ってしまうものである。人間はよくもわるくもストレスとつきあっていくほかないわけである。ストレスが全くない、ということは、無刺激ということになってしまう。刺激を極端になくした実験があるが、それによると人は徐々に情緒不安定になっていってしまうらしい。ストレスってそもそもなに?ということもあるが、例えば日光に当たることは、こうして今私がキーボードを売っている指先の感覚もストレス(刺激)なのだとしたら、無くすという考えよりも、上手く生きることに着眼した方がこれからの社会、生きて行きやすくなりそうだ。

 こんな面白い研究も紹介されていた。ABCそれぞれの人が30問の問題を解いた。Aは最初15中10問正解してから、あと15問中5問正解。Bは最初15問中5問正解、あと15問中5問正解。Cは30問中あったり間違ったりしながら15問正解。いずれも30問中15問、同じ正解率なのだが、人はこのABCを見た時に異なった評価をするという。ここには〈「ある人についての最初の評価を途中で変えると、他人を評価する自分自身の能力を否定することになる」〉という心理が働いているようだ。すなわち、同じ正解率にもかかわらず、A、C、Bの順で知能の優劣があると人々に思わせてしまうのである。なんだ、こんなことなら最初に全力を出して、おお、こいつはなかなかやるぞと思わせておいた方が、最初手を抜いてあとから頑張るよりいろいろと得かもしれない。
 こうした認識のゆがみというのは、日々私たちが気が付かないなかで起こっていることであり、この程度のことならば話のタネにできるが、しかしこれが会社での成績や、何か選抜する際の指標に影響していたりすることを考えるとぞっとする。それを評価する側がこういう本を読んで、自分の認識のゆがみに気が付けていればいいが、これを読んで知識として知っている私でさえも、こうしたゆがみからは自由になりがたいのである。正確な評価を他人に期待するのは難しいかもしれない。

 この本にはこうした認識のゆがみの問題もいくつか書かれている。
 こういう本を沢山読んでいると、もしかして正しい認識やゆがみのない認識よりも、むしろ歪んだ認識のなかで生きているほうがよりいいことなのではないかと、一週逆転して思えてしまう。少し言葉が足らなくて意味がわからないかもしれないので説明する。
 私は普段から人間はありとあらゆるバイアス(先入観)のなかで生きていると思っている。同じことが人によって見え方が異なってくるのはこのためである。で、私はできるかぎりそうしたバイアスに囚われない、真っ直ぐで純粋な眼でこの世界をありのままに見つめたいと思っている。
 しかしそうしたいと思っている私の思想には、根底としてバイアスに囚われなければ、ありのままの姿が見える、そもそもバイアスに囚われない姿、ありのままの姿があるという仮定のもとになりたっている思想である。しかしもしかしたら、この世の中にはバイアス(仏教では「色))がついた状態でしかモノは存在していないのではないか?バイアスをきれいに完全に取り除いたらその時は何も認識できないのではないか?という素朴な疑問も生じるのである。
 とすると、こうした認識のゆがみは、一般的にはないほうがいい、あるいは注意しなければならないものとして考えられるけれども、むしろそうしたゆがみのなかに生きていた方がより自然なのではないか、よりよいことなのではないか、と思えてきてしまうわけである。
 認識をめぐる冒険には果てしがない。さて、どう考える・・・。




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