竹宮恵子『地球へ・・・』 感想とレビュー

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 竹宮恵子の『地球へ・・・』を読んだ。この作品を知らない人のために一応念のために書いておくが、「地球へ」は「テラへ」と読む。もちろん漫画である。
 この漫画は1977年に連載が始まり、一躍話題となった。当時はSFは少年漫画の代名詞とも言える存在だったのを、少女漫画でSFを描いて見せたということが、一番読者の目を引いたのだろう。内容もおもしろいと当時の読者には受けたようである。
 私が今回読んだのは、2007年にスクエアエニクスから三巻同時に発売された漫画本である。やはり一応有名どころは押さえておかなければならないという義務心からこの漫画を読んだ。私は以前、数年前に1980年の劇場版を鑑賞している。その時はなるほど確かにすごい作品だという感想を抱いたことは覚えている。が、どんな内容だったのかはぼんやりとしてしまっている。今回は新しい作品を読むような感覚で読ませていただいた。

 まずはこの竹宮恵子神話を解体するところから始めたい。1977年当時にすごかったのはわかる。これが一世を風靡したということもわかる。確かに今読んでもそん色ないし、おもしろいといえばおもしろい部類に入るだろう。だが、この漫画本に収録されている、2005年にアニメ化する際に作成したであろうアニメ監督のヤマサキオサムと、ジョミー役の斎賀みつきという人のインタビュー記事はどうだろうか。あまりにもこの作品がすごいすごいということだけに終始していて、まったく内容のつたわってこない内容空疎な賛美するだけの文章ではないか。
 すごいものは確かにすごいのである。だが、それをまったく批判的な目を持たないで、かつてすごいとおもったからすごい、すごいと言われているからすごい、というようになってしまっては思考停止である。すごいのはわかったが、何がすごいのかをその場合は示す必要がある。そして結論から言えば、確かにすごいとは思うが、同じようなテーマをもって描いていると私が勝手に思っている宮崎駿の『ナウシカ』などと比べれば、確かに時代の先見性はあったかもしれないが、そこまで神のように奉るほどのものではないと思うわけである。

 書籍ならばまよわず線を引いていくのであるが、さすがに自分も絵を描いていたりした時期もあり、マンガに線をどんどん入れられはしない。たとえ入れたとしても黒ではわからないから赤とか青のペンになりそうであるが、余計に心理的に抵抗感がある。ということで気になったところには付箋を貼るようにしているのであるが、この本のテーマや重要な部分は一巻目、二巻目で出尽くしているように付箋の数からみて思われる。三巻目はそれまでに提示されたテーマや謎解きといったところだろう。最終決戦へ向けて話がまとめられていくので、それ以前の部分がこの本の本質をよく表していると言える。

 『愚民社会』という恐ろしいタイトルで一部ネットを騒がせた評論家の大塚英志と、社会学者の宮台真司の共著がある。この本の紹介を兼ねたニコ動で彼らはこんなことを対話している。大塚は世間の人々の底上げをできると思って今まで頑張ってきた。対して宮台は一部の優秀な人間によってよりよい社会をつくろうと頑張ってきた。結局3・11後の人々の動きがあまりにも旧時代的すぎてこの二人は日本人に絶望してしまったようであるが、それはさておき、竹宮恵子は宮台の思想に近いように思われる。俗に言われる選民思想というやつだ。ヒットラーに通じる危険な思想ではあるが、理想主義的な人にこの思想は多いように思われる。かくいう私もこの思想の1人ではあるが。
 彼女は一巻目の巻末インタビューで、「集団としての人間はなかなかいい方向へいかないんじゃないか」とこぼしていて、一部の選民によって地球は導かれるべきであるという感情をわずかではあるが、ここに示している。確かにこの作品には、集団や全体といったものが有能に描かれることは少ない。ビップやエリートといった選民、選ばれた種族だけが注目されている。それのよしあしは別として、竹宮にはそのような思想的なクセがあるということはきちんとまずは指摘し、押えておくべきことであるだろう。それを盲目的にすばらしいすばらしいと言うのはどうなのかと私は思う。

 この作品が書かれた1977年。1970年のほうの学生運動から数えると、竹宮は1950年生まれであるから、学生運動に20歳で出会い、27歳の時にこの作品を描いているということになるから、いろいろと説明しやすくなる。彼女は選民思想に加えて、ややというかかなり左寄りな思想の持ち主であることがわかる。別にそれが悪いといっているわけではない。むしろ私も左寄りの人なので、かなり共感して読んだわけであるが。
 この作品のなかで描かれる重要なテーマとして体制批判というものがある。地球軍のエリートであるキースは、三巻目の冒頭で「人間が介在しない自然ほどバランスのとれたものはない」とこぼしている。あのキースにさえこのように体制批判の言葉を語らせるのである。キースとは相反する存在であり、彼を作品内で相対化してくれたシロエという登場人物はいわずもがな。彼のお蔭でキースは体制に対して批判の目を持つことが出来た。ミュウ側のシンは言うまでもない。彼は最初から地球のマザーとマザーシステム、教育システムが悪いんだと本質をついています。これはもう隠喩とか暗喩とかそういうレベルではなくて、そのままダイレクトにその当時の、それから現代にいたるまでの教育批判や政府批判になっているということができるだろう。そして、当時学生運動を経験した人々や、まだ日本がやや不穏な空気につつまれているなかで幼少期を送った人々にとって、この批判の目というのは、ものすごく実感を持って共感しえたことなのだろうと想像できる。
 これが、1990年代以降に生まれ、バブルもはじけおわったあとに生まれてきた、右下がりの時代しか見ていない私達の世代になるとどうなるか。おそらく私の友人がこの漫画を読んでも、ふ~ん、で終わってしまうと思う。この作品には確かに人類は今のままの古い価値を捨て去り、新しい存在になり得るのだろうか?といったより壮大で普遍的なテーマを扱ってはいる。だが、その前景にあるのは、体制批判や選民思想などである。私はたまたま左寄りの学生だったのでこの漫画に共感をもって読むことが出来たが、左や右ってなに?という世代がこれを読んでも、おそらくピンとこないことだろう。それよりかは、ダイレクトにメッセ―ジを描いている宮崎の『ナウシカ』のほうがわかりやすいだろうと思う。

 この漫画に掲載されているインタビューで、三者とも若者には難しいかもしれないとこぼしているのは、つまり今私が指摘したことなのだと思う。だから、一面ではこの作品は普遍性を獲得しえてはいるけれども、やはり時代に束縛されているというか、いい意味でも悪い意味でも時代から離れられていない部分があることはきちんと押さえておくべきだろう。だからこの作品が手放しにすばらしいと言ったところで、若い読者にはなんで?となるわけである。

 ラストなども、劇場版ではなんとかわずかに希望が残るような終わりになっているが、この漫画では最後は相打ちのような感じで、地球そのものが崩壊してしまうような悲劇で終わっている。
 新しいミュウでさえもまだだめで、さらにその後に何百年、何千年と経ったあとの人類に希望を託しているようなものなのである。そこに辛うじて竹宮は救いを見出したわけである。私は人間はどこまでいってももうどうしようもないくらいに愚かしい生き物だとなかば諦めているが。しかし竹宮の気持ちはわからなくはない。何千年かの後にもしかしたら私達のような愚かしさを乗り越えた人間が登場してくれるのではないかという希望は私にもある。まことにそれを望む限りではあるが、その論理だと私たちは早々に滅びなければならない。

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No title

おはようございます!
ああ、地球へだ!とブログのトップページで見て反応したはいいものの、内容にいやーびっくりしちゃいました。
ぼろぼろの当時のマンガが母の本棚にあり何度も読み返した&近年のリメイクアニメもみたくらいにはファンだったんですが、こんな解釈があるとは、考えもしませんでした(*´∪`*)

Re: No title

nittiさん、おひさしぶりです。
私のつたない解釈でnitti さんがふたたびこの作品を考え直す機会ができたのなら幸いです。
世代が違うので、私のようなものからは、おそらく当時の読者が感じた、これだよこれ!といった共感はうすくなってしまうのは仕方のないことだと思います。
考えるための材料になったのならうれしいです。
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