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岡田斗司夫FREEex 『僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない』感想とレビュー

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 ―岡田斗司夫とは―
 岡田斗司夫といえば、オタキング。知っている人は知っているし、知らない人は知らない人だ。僕はオタキングを知っているのは当たり前の世界に住んでいるので、もしかしたらオタキングのことを知らない人のためにごくごく簡単な、知っている人からしたらどうしようもない紹介を少しだけしておこう。
 オタキングこと岡田斗司夫は、ガイナックスを立ち上げた人。ガイナックスって何?って人には、エヴァンゲリオンを作ったアニメーションの会社だよ!と教えておいてあげよう。そのくらいすごい人なのである。オタクの世界では知らない人はいないくらいの有名な人。ただ、僕の周りにはこの人の名前を挙げても知らないという人ばっかりだったので、世間の常識とやらを懐疑しつつも、自分自身の知識のほうが通用しないのだなということを痛感させられる。
 現在はガイナックスを退社し、フリーで活動している。様々な講演をしたり、執筆活動をしたりと、幅広い、「なになに」という決まった職業名では指し示せない活動をしている。
 ここがミソなのだ。この何をしているのかよくわからない、この働き方こそが、この本の内容にもかかわってくるので重要なところである。

 ―はじめに―
 さて、私のこのブログ記事の役割は、人々と本や作品との出会いのきっかけをつくることと、これ読んでみたけど、他の人はどういうふうに感じるの?評価するの?という二つの役割をもっている(もたせるように努力している)。
 本書のタイトルを見れば、人は「え?」と思うだろう。
 この本がとてもよかったので、友人たちに見せたのであるが、この反応があまりにも印象的だったので、きっと多くの人もこれと同じような反応をするのだろうなと思って筆をすすめてみたい。私の友人がたまたま大学四年生で、就職するということに、神経過敏になっていたことも反応にはかなり影響しているだろう。しかし、きっと多くの「日本人」が、この本を見たら、即座に「そんなのは成功した人だから言えること」「ごくごく少数の特別な人しかできないこと」「就職をしないという考え自体がいやだ」といった反応をすることだろう。私も「働かないでどうするの?フッ」と鼻で笑われてしまった。
 ここで私は、「あ~やっぱりな~」と思う訳である。この本にも書いてあるが、何も「就職」しないことが、「働かない」ことではないのである。つまり、反対から言えば、世の中の多くの人は「就職」すること、すなわち「働くこと」と考えているのである。「働くこと」イコール「就職」と考えているのだ。
 特になんの違和感も感じないだろうか?私は岡田斗司夫のような考えを持っている方であるから、この感覚が不思議に思えてならないのだ。というのは、別にこの本で岡田斗司夫は「働くこと」を否定しているわけではない。むしろ、岡田斗司夫は自分でも「昭和的発想」の人と言っているくらいだから、「働くこと」を肯定しているし、また働かなきゃいけないとも本書で書いてある。岡田斗司夫が言いたいのは、「就職」しなくていいのではないか?ということなのだ。これはどういうことか。

 私たちはついつい自分たちの感覚を疑いません。それが実際にはなんの根拠もないことなのにもかかわらず。
 まず今の「常識」から疑おう。本書ではこう書いてある。

 〈いまの僕たちは、「働く」というのは「どこかの会社に雇われる=就職すること」と自動的に考えています。
 でも人間が働くというのは、必ずしも就職とはかぎらないはずです。(中略)一九五〇年代の日本では、女の人はほとんど就職していません。女の人に就職口があまりなかった時代です。当時の日本の人口は八000万人。そのうち半分が「非・就職人口」だったのです。では残りの四〇〇〇万人の男は就職していたのか?
 定年はいまよりもっと早かったし、子供は就職できない。仕事の大半は「就職」ではなく家の田んぼや畑を耕す「家業」であり、そのほかは「工事の日雇い」「店の手伝い」など、いまで言うアルバイト的な雑用です。
 人口のほとんどが「働いている」けれど「就職していない」。
 じつは日本の人口の四分の一、二〇〇〇万人弱しか当時は「就職」していませんでした。もともと日本人の四分の一しか就職していなかったのに、いまは二十歳くらいになったら全員が大学に行って、全員が「就職しなくちゃ」と考えている。ちょっと異常な国家になってしまいました。
 (中略)「国民が全員、一度は就職を考える」という、かなり特殊で異常な国家であることをまずは念頭に置いてください〉

―自分の常識を疑え―
 私の専門は近現代の文学である。この近現代の文学を読み解く際に、今の感覚を持ち込んだら絶対に読み解くことはできない。例えば、漱石の『それから』という小説に代助が友達である女性に指輪を贈るという場面があるが、当時は現代のように指輪は婚約者に贈るもの、という価値がなかったので、そのような意味で読んでしまうと意味を読み違えてしまうのである。
 こういうことをしている関係から、現在我々が信じているこの感覚や価値といったものに対して、私は大変敏感になっている。私たちが「これが常識だ」と感じた時、いったいそれはいつごろ作り出された感覚なのだろうか、価値なのだろうか?ということを疑う視点を忘れてはいけない。それを忘れて生き続けるのも、ある種の逃避であり、それで生きやすいのならばそれでもかまわないが、多くの場合は人を不幸にする。
 「こうしなければならない」というのは、一体なにによってそう思わされているのか、ということをいったん考え、それに検討を加え、自分が本当に望んでいることを見出していくことは常に必要な行為だと思う。


―本書の内容―
 で、岡田斗司夫は言うのだ。今現在、我々が「就職しなくちゃ」と思い込んでいるのは、ここ数十年、高度経済成長期に作り上げられた価値であるということに。なぜそうなのかというと、それまではそんなに就職している人はいなかった、みんな今で行ったらバイトのような生活をしていたから、というわけである。

 そして、もうすでに、高度経済成長期に作り上げられた、みんなが就職しなければならないというのは、これから右肩下がりの時代においては無理なことで、現状に一致していない。だから多くの学生が就活で苦しい思いをして、なかなか就職できないのだ、と分析するのである。
 岡田斗司夫は、ではどうやってこれから生きていいのか?という問いに対して二つの答えを示している。
 そのひとつめが「愛されニート」というものである。
 本書で挙げられている例では、ある女性がいて、この女性のもとに弟が転がり込んできたという話が紹介される。この女性は家計簿をつけていて、自分一人で暮らしていた時と弟が増えた時を比較して、弟にどのくらいのお金がかかっているのかを計算したという。そしたらおどろいたことに、二万円、だというのである。すなわち、人一人が生きて行こうとすると、十万とか、二十万とかが必要になる。住居費、光熱費、食費、などなどにである。ところが、そこに人一人増えたからといって、二十万が四十万になるということはない。二十万であったならば、そこから二、三万しか増えないというのだ。当然のことである。住居費は増えるわけではないし、食費は増えるにしても、二人分でつくるからかなり無駄がない。光熱費もお風呂を二度炊くわけでもないし、二倍にはならない。
 愛されニートというのは、この姉のところに転がり込んできた弟のことを指すのである。
 漫画家にはメシスタントというスタッフがつくことがあるという。これも愛されニートである。メシスタントとはなんのことかというと、漫画家や漫画家のスタッフたちのメシ、御飯をつくってあげる人のことである。この人は何をしているのかというと、この漫画家さんたちに食べさせてもらいながら、食事の用意をするだけ。後はマンガでも読んでいるという生活をしているというのだ。
 つまりは簡単なことだ。
 これまで一人が一つの家を持つ。一家族につき、家一つ、という価値を捨てようというわけである。
 みんながシェアをしていけば、人一人につきかかるお金はずいぶん減るのであるから、その隙間で生きていくことができるようになる。それが愛されニートであり、より生きやすい社会なのではないか?ということなのである。

 もう一つは「仕事サーファー」
 これは、先ほどのメシスタントのような、ほぼ「お手伝い」と言われるような仕事ばかりをして生きる生き方である。いわゆる現在考えられている「定職」にはつかづに、多くのアルバイトで生活を繋いでいくような人のことである。岡田斗司夫は仕事を50くらい持とうと言っている。
 やや多すぎなのではないか?と私は感じたのであるが、それはごくごく小さいことであるようなのだ。例えば隣の家の芝生狩の手伝いとか、そういう「お手伝い」を50個ほど行う。そうするとどうなるかというと、お金を貰えるのもあれば、もらえないのもある。ただ、全てがお金に換算される必要はないと岡田は言う。すなわち、「お手伝い」をしていれば、その見返りとして、お金ではなくて、別のモノが貰えることがあるからだ。農家の手伝いをすれば当然その見返りは作物である。そういうお手伝いを沢山していれば、食べ物には困らない。そうしたことで生きていくというのである。


―本書の講評―
 本書は新書一冊分であり、ほかにも細かいことがいろいろと書いてあるが、ものすごく簡単に要約すると、今述べたような感じになる。
 私はこの本を読んで、しまった、先を越された!と思った。実は私もこの本の内容にかなり近いことを考え、それを書いていたからである。本の形態で書いたのであるが、無名の私である。どの社へメールしても、そういうのは受け付けない、ということで、お蔵入りになっていたものがあるのだ。だからすなおに、ちくしょう!と思った。
 だが、この本の内容は私も考えていた通りのことなので、そうだよな、ととても共感しつつ読むことが出来た。

 ただ、本書は著者が「岡田斗司夫FREEex」となっていて、これは一体なんだと思ったら、後書きで書いてあるのだが、これは岡田斗司夫本人が全て書いたというわけではなかったのだ。
 岡田氏の本は他に『世界征服は可能か?』という本を読んだだけだが、彼の本領は「はなし」で発揮されるものであって、文才はあまりないように思われる。だからこの本もかなり文章が下手で、読みにくかったのであるが、さらにその読みにくかった原因というのは、文才が御世辞にもあるとはいえない岡田斗司夫が書いたから、ということではなく、岡田斗司夫が主催するFREEexという組織に属する岡田斗司夫のファンみたいな人たちが共著していたからなのである。この本は岡田斗司夫が大学で行った講義をもとにつくられているらしく、それを文章に起こす作業をこのFREEexのメンバーが担当しているというわけである。岡田斗司夫本人も文章を起こしたとは書いてあったが、どれほどのものか。
 だからこの本は岡田斗司夫が汗水たらして書いた、ということではなかったである。そこはやはり本を読むことが本業の私としては残念としかいいようがない。

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