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中島義道『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』 感想とレビュー  この誰もわかってくれない感覚

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 タイトルを古本屋で見かけたときに、「これだ!」と思わず叫ばずにはいられないくらいの衝撃的なタイトルだった。まさしく私がここ最近感じていたことを表している言葉だった。
 今現在、私は心療内科に通い、気分があまり落ち込まないような薬を飲んでいるので日常生活はようやくもとにもどってきた、いわゆる普通な生活を送ることができている。ところが、心療内科にかかるまでが大分長かった。心療内科という敷居がそもそも私には高かったのである。今では私の担当の先生とも、もっと早くにくればよかったのにね、と笑いあえる状況であるが。
 さて、私が心療内科にかかる少し前まで、私は哲学的にも思想的にも、精神的にも生物的にも、かなり危機に瀕した状況にあった。というのも、この本のタイトル通り、私は生きることも死ぬこともイヤだったからである。確かに体調がよくなり、普通の生活ができるようになって約一月が経とうとしている現在、こうした感覚が少し減ったというのはある。それほど絶望というか、ものすごい疲れに襲われることがなくなったからかもしれない。ただ、つい先日まではこの感覚はつねに私を捉えていたし、とても理解できる感覚であるし、なによりも人にこの感覚が理解されなくてものすごく苦しんだ覚えがある。

 私はさまざまな要因から生きる力や生きる意志というものがなくなってしまった。今ではその要因の大きな一つであった体調不良が改善したこともあって、やや生きることにそれほど絶望を感じなくはなったが、体調がひどいときはこの感覚もひどいものであった。では生きることがイヤだからといって自殺したいのかというと、そうではなかった。体調も悪く、本当につらいときなどは、このまま自分が死ねたら、眠るように死ぬことができたらどんなに楽だろうと何度も夢想したものであった。ホームに立っていて、ふっと体が軽くなるような感覚に襲われそうになる。それはふっとホームに吸い寄せられていくような力だ。あぶないあぶないとなんとか踏みとどまるような日々を送っていた。
 この本にも書いてあるが、このような悩みを持つ人の多くは、生きたくもないが、だからといって死にたいわけではないのだ。私も死にたくはなかった。ただ楽になりたいそれだけだったのである。
 私はこの生きたくも、死にたくもないという感覚をずっと抱いていたが、これを理解してくれる人は私の周りにはほとんどいなかった。どんなに気心のしれた友人でも、こういう問題に関してはとんと埒が明かなかった。こういう悩みというのは、同じような悩みを持っている人でなければわからないのである。
 生きるのも死ぬのも嫌な人というのはそんなにいないものなのかなと思っていたところ、この本にであった。私はとりあえずタイトルで気になった本を買っておいて、あとから読むというタイプの人間である。買ってから読むまでに時間がかかってしまったことが非常に残念だ。だが、今回読み終えていろいろと思うところがあった。それをこれから書こうと思う。


 まずは何と言っても自分と同じような悩みを持っている人たちがいるのだということ、そのことが何よりも嬉しかった。
あとがきにこう書いてある。
 〈自分のろくでもない人生にわずかに誇りうることがあるとすれば、私は「生きていたくもないが、死にたくもない」という呟きを押しつぶすことなく、むしろ大切にはぐくんできたことであろう。もちろん、いまでもそう思っている。この呟きを語ることは困難をきわめる。なぜなら、「まとも」であればあるほど、人々はこの呟きを全身で拒否するからである。いや、そう語る者を迫害するからである。だからこそ、「あなた」がもしこういう呟きに囚われているなら、私は自信をもってこう言いたい。あなたの呟きは「正しい」。だから、あなたはそれをごまかさずに、どこまでも大切にして生きるほかない、と〉
 私がこの言葉にどれだけ救われたかわからない。私はずっとこの悩みは私一人のものかと思っていた。Twitterなんかを見ていると、やや心が病んでいる人たちは、「死にたい死にたい」とつぶやいている。そういうのと一緒にされることが何よりも嫌だった。私は死にたいわけではないのだ。それは確かに、楽に死ぬことができるなら、眠るように死ぬことができるならそれにこしたことはないとは思う。だけれども、例えば積極的に死ぬということを私はしたくないのである。それと同時に、私は積極的に生きるということもしたくないのだ。
 私はもうだいぶ疲れ、疲弊し、ぼろぼろになっている。どうかこのまま静かにさせておいてくれ、というのが本音なのだ。だが、世間やら社会やら、親やら学校やらというものは、ことごとくこの私の切実な願いを打ち砕く。私が休養をしたいといっているそばから、あれをしろこれをしろとやかましく言い立てる。結果私は、仕方がないので積極的に何もしないということはした。そのことによって大分楽になったのである。
 私は生きることも、死ぬこともしない。働くこともしない。もちろん就活なんて意味がわからない。なぜ私は生きることも放棄しているのに、就活などというものをしなければならないのだろうか。
 しかしなんということか。最近ではNHKのクローズアップ現代が以前のように若者を厳しく糾弾するような論調ではなく、私のような思想にコミットしたような番組を放送するようになったり、最近では岡田斗司夫が『僕たちは就職しなくていいのかもしれない』とか、そうしたたぐいの言説がまだまだ少数とはいえ、メジャーになりつつあるのである。これに私は大分救われた。
 今までのほうがおかしくて、私達の少数の、しかしそれは実は少数ではなく、大勢の人が少なからず感じているはずのこと、そちらのほうがより正しい認識なのだということが判明してきたのである。
 そうした言説のなかにこの本も初期の言説としてあったのだろうと思う。2005年だから、かなり早い段階でそういう感覚に鋭敏にかぎついていたのだろうと思う。


 本書の内容は、私のような感覚を持った教授が、私のような若者四人を相手に対話をしていく形式である。そのまま文字に起こしたとは思われないほど読みやすい文章なので、たぶん校定が入っているのだろうとは思うが・・・。それとももしかしたらこれらはすべて対話篇のように、実在しない人達との架空のおしゃべりなのかもしれない。

 まずはC君の「生きていたくないといより、この虚しさをずっと抱えて生きることがとても辛いということです」という言葉に対して、「私は多くの大人が、人生の虚しさをどうにかして解消することが、どうしてもわからない。テレビでも、新聞でも、巷でも、いまのC君のような発言が飛び出すと、「自分にしっかりとした生きる目的がないからだ」とか「誤った教育のせいだ」とか「若者が希望を持って生きることができない社会だからだ」というような屁理屈をこねまわして、必死の思いでたたきつぶそうとするじゃないか。すさまじい暴力だと思う」という部分に共感した。
 ただ私の感覚はここに登場すう著者や若者たちと根本的に異なっているところがある。それは「虚しさ」である。私はそこまで「虚しさ」を感じることはない。生きることも死ぬこともいやであるが、それはどちらかというと、もう何も自分にかかわらないでほしい、ただそっとしておいてほしいということだけからやってくるような感覚のようである。私は生きることがむなしい、だから生きる意味がないという思想の持ち主ではない。確かに生きることはむなしいだろう。最後にはすべて終わってしまうのだから。
私はしばしば独我論的な考えを使用することがあるが、しかし独我論の根本である、私が死んだならば、それは世界の終わりであるという考えには、半ば同意しつつも、半ば反対している。確かに私の世界はそれで終わってしまうだろう。私と、私が認識するものすべてが消滅してしまうのだから、それはすなわちこの世の終わりなのではないか、ということはなんとなくわかるのだが、それと同時に私は自分をはるかにこえた人間の能力では認知できないような世界が広がっていると思うのである。
 私は人間は死んだら魂の海のようなものに戻るのだと感じている。私たちはその魂の海から、水を掬い上げて人形に入ったのである。だからその肉体が滅びた時、そこにはいっていた魂とよばれるものは、海のようなものにもどっていき、そこで他の水とまざり、また全体になるのではないかと漠然と感じている。だから、死ぬことによってすべてがなくなってしまうという独我論的なこの人達の虚しさとは私は無縁なのだ。
 ただこのような哲学の根本的な問題に対して、世間の人があまりにも暴力的であることは確かだと思う。どうして生きているのかわからない、生きる意志もない、だから働くつもりもない、ということを私は友人にも、親にも、先生にも行ってきたが、誰一人としてそのことについて真剣に考え、共感してくれるような人はいなかった。

 私はもともと哲学的なセンスを持って生まれてきたタイプの人間なのだと思う。だが、哲学的な人間というのは二通りあって、多くの場合が、哲学の教授をやっていくような、カントがどうしたとか、ヘーゲルがどうしたとか、哲学の知識を正確に理解し、それを議論させるような人々のことである。ところが私はこのタイプではない。残念なことだ。だから私は哲学科に入りたくても入れないのである。こういうタイプの議論ができないから。しかし私にはもう一つの哲学的な素養がある。それは、普段人々がなんという疑問もなくそういうものだと思って信じて生きているものにたいして、なぜ?と問いを発生できることだ。
 しかし私はその自分で発見した問いに対して、いつもその答えを見つけることはできていない。それはどうして生きるのだろうか?どうして私は私でなければならなかったのだろうか?といった哲学の根本的で、しかしこの有史以来だれもがこの問いにかかってきて、結論が、答えが出せなかった問いばかりが気になるからである。
 そのため、私は自分の中で生じた問いに対して、その答えをどこかに求めなければならない。私には論理的な哲学的思考ができないので、自分の問いに対してそれを答えるだけの力量をもっていないからである。だから問いは私のなかに生まれ続けるが、それにこたえを与えるのは、こうした哲学者の本にならざるを得ないのである。もちろんカントやらなんやらの哲学と言われる本が私の問いの答えになっていないのはいうまでもない。
 それでこの本を読んだわけであるが、共感できる部分と、共感できない部分があった。ああそれそれ、よくわかる、わかってるよこの人と思うところもあれば、なんだこいつはと思う部分もあった。だが、多くの部分で私の感じている感覚がこの人にも通じること、それがわかっただけで大分安心したものである。

 ただ、ここに登場してきた四人の若者に対して、私はあまりにも腹が立って仕方がなかった。こういう人たちはずっと苦しみつづけてればいいじゃないかと、そういう点、私は結構残酷なのかもしれない。この先生がここまで人嫌いなのにもかかわらず、この若者たちを救おう救おうとしているのが目に見えるが、この先生はなんだかんだいって、そこだけはやる人間なのだなと思った。

 この本にも書いてある通り、人を殺してはいけない理由も、自殺してはいけない理由もこの世の中には存在しない。べき論はなりたたないというわけだ。私もそこまでは同じ意見である。ところがこの先生は、教授という肩書きもあり、また周囲に自殺予備軍の生徒たちが集まってきてしまうという理由もあり、自殺はしてはいけない、生き続けろとメッセージを発している。
 このように見ると彼はやはりどこかで教師として、教員として、生徒たちの命を守らなければならないという倫理観のようなものは最後の砦として持っているのだろう。
 残念なことに私にはそうした社会的な責任のようなものもないので、確かに友人が自殺しようとしていたら止めはするが、積極的に止めようとはしない。もし自殺することがその人にとって一番いいこと、これ以上生きていることがどうしようもなく辛いくらいに仕方がないのであれば、私は自殺することや、人を殺すことをそんなに悪いこととはどうしても思えないのだ。これを人は倫理的崩壊だとかなんとか騒ぎ立てることだろうが、仕方ない。感じてしまうことは感じてしまうのだ。
 私は自分の肉体を傷つけることを極端に嫌う。だから、電車にはねられるのなんて、ものすごく嫌なのだ。刃物も絶対やだ。だが、そんななかでも、首をくくるのだけはどうしても魅力が私を離さない時期があった。いつもそれを押しとどめていたのは、自分の部屋を開けた時に、首をくくっているのを見る母の姿である。そんなものを母親に見せるわけにはいかないという、他者、そう、他者が存在するという理由によって私は自殺を踏みとどまっていたのである。


 今回この本を読んで感じたことは、自分のような感覚の人間が集まるところには集まっているのだな、存在しているのだなということがわかっただけでも安心したということである。やはり自分が悪いいみで特別なのではないか?自分だけが違うのではないか?という感覚は人を悪い方面へと押しやってしまう。
 そういう意味でこの先生がこのような内容の本を書き続けることには非常に重大な意味があると感じる。
 ただ、先にも述べたように私もすべてこの人の感覚が共感できるというわけではない。一部はとてもよくわかるが、ここはちっともわからないというような感覚もあった。特に四人の若者に対しては絶望的に理解できない人達であった。
 この本を読んで、似たような人達、生きることも死ぬこともイヤな人たちがいるのだなということがわかり、そういう人たちもこの社会で生きていけるような、そうした余白がある社会になればいいなと切に願う。そして考えたことは、私は私で、この人達とはまた別なのである。ある部分は共有でき、ある部分は共有できない。そこには何かしら私という一本の筋が通っているように思われる。この先生の筋とは角度がずれていたから重なり合う部分とそうでない部分が生じたはずなのだ。とすれば、私は私の筋をこの先生のように言葉にしなければならないと感じる。もしかしたらそれが私によく似た人を救うことになるかもしれないからである。

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そういう人たちもこの社会で生きていけるような、そうした余白がある社会になればいいなと切に願う。

強く共感できます。

この世を運営するとして採用されている今の方法の全ては最大単位で不完全でそれを無視する正当性は無いのが事実として強く認識しています


皆がこの世界の不完全さを口にしなければ皆の子孫もろとも当たり前のように苦しめられます
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