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『ぼくらの』 鑑賞メモ 2 七話から十二話

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第七話 傷
・五話からの脚本担当の与口奈津江という人はこれがやりたかったのか~!!(笑)ってくらい、全開の回数だった。ドロドロもいいところのメロドラマ。
・チズはものすごく悪女に描かれていたが、彼女がどうしてそうなったのか、という彼女の過去が描かれる。何の説明も導入もないまま話が展開されたが、ものすごくおもしろかった。というのは、与口さんという脚本家が、もともとこれをやりたかったからなのだろう。
・作画は、もしかして時間が足りなかったのか、あるいは演出なのか、セックスをする場面や、カメラをあばく場面など、やや雑なものが眼に映った。
・しかしこのアニメでセックスまで見事に描くとは、与口さんなかなかの強者である。おそらく制作時には、彼女のやりたいところと、テレビでできるところと、そうとうな駆け引きがあったのではないかと想像できる。

・ずいぶん嫌な女として描かれていたチズだったが、七話を見ることによって彼女の印象はぐっと変わる。と同時に、それまで嫌な女に見えていたのは、カコの視点から見ていたからにすぎないということに気が付かされた。カコの視点でチズを見れば、それは相当嫌な女に映るに違いない。そもそも男性には、自分の好きな女性が自分より、地位や容貌、名声、年齢などが上の人間に奪われるのを一番嫌う。もしこの記事を読んでいる読者は男性であれば、好きな女の子が先輩などと付き合うというのは、狂おしいほどに腹の立つことだと共感していただけると思う。
それがよりによって先生である。容貌はいざしらず、頭脳の面でも、地位や、金銭力、精神力、あらゆる面で自分よりはるかに高い次元にいる存在に好きな女の子をとられるというのは、そりゃレイプのひとつもしたくなるくらいには頭がおかしくなる話だと納得できる。
・ところが、いざチズの視点で物語を追ってみると、彼女がとても可愛らしく見える。ここのところは、与口さんの力量が最も発揮されているところだと思う。彼女はドロドロのメロドラマが書きたかったのだろうが、それと同時に批評性も有している。というのは、チズのことをカコからの視点でみるか、チズによりそった視点でみるかによって、まったく印象が変わってくるということである。ものごとはすべて、他の面からみれば、ぐるっとその見え方が変わる。それが実証されていてすばらしいと思った。
・チズはとても純粋でかわいい少女に見え、それはセックスをする段となっても、まだ純粋性が保たれていた。当然である。チズのなかには先生に対する純粋な愛情しかなかったからである。ところが、それが最後に反転する。もちろん、最初の三者面談の時から、この先生がチズのお姉さんを狙っているなということはばればれに描かれてはいたのだが、しかしそれは一端伏せられる。読者がお姉さんとのラインを忘れた最後になって、実はお姉さんとも密通していたということを読者はチズの目線で知ることになり、絶望に打ちひしがれる。純粋な愛情に満たされていた少女としてのチズが、最後にジアースのよどんだ空間の彼女にオーバークロスしてくる場面は、見事としかいいようがない。
・本当によくできた回だと思った。



第八話 復讐
・その名も復讐。メロドラマもこの四話で完結である。前回の最後に予告があるが、そのなかにチズがお腹に手を当てている場面がちらっとでてきた。ほんの少し先読みの得意な観客である私には、即座にそれが子供であることがわかったが、それを指摘しようとうずうずしていたら、最後の最後に全部ネタバラシされてしまった。鈍い観客への配慮だろうが、それはあれで十分にわかる表現をしていたので、皆までいわなくてもよかったかもしれない。
・思えばここにきて敵の形態が大幅に変わった。それまでは昆虫などに似た形態をしていた使徒(エヴァンゲリオンから命名してしまおう)だったが、今回は鏡のようでもあり、ファスナーのようなものがついた存在だった。いかにも弱そうな敵であったが、これはおそらくメタファーであろう。何のメタファーかというと、それは男性性、あるいは男性器ではないだろうか。ファスナーは、男性器を覆い隠しているズボンのファスナーを彷彿とさせる。この四話、特にチズは、性との問題が描かれていた。おそらくお腹には先生との子どもがいたであろう。そうすると彼女が復讐したいものはなんなのか。それはやはり自分をこのような不幸にした先生と、その性器なのではないか。とすると、この敵として現れたのは、先生の、と限定しないまでも、男性器であることに間違いないだろう。ここでチズは、自分と自分の子の命を賭して、先生と、先生の性器への復讐をしたわけである。

・ここにきて数合わせの問題が出てきた。チズの子供がここにかかわってくるわけである。それはいいとして、パイロットの数が足りないだの、一人生き残れるだの、なんだのと、けっこうややこしくなってきた。その数字の一つ、二つというのが大事であることは云わなくてもいいだろう。当然そこにかかわってくるのは、命の数なのである。数字化される命、モノ化される命、という意味で、この作品は極めて命を粗末に扱う、あるいは粗末に扱うルールを描いている。


第九話 家族
・ここにきてようやくこの作品のスタイルが定まってきたように思われる。一人一人を一回分を使用して描写するという形に収まってきたようだ。
・今回の主人公であるダイチ。私が最も好むタイプの登場人物である。初めてオープニングを見た際から、ずいぶん個性的なキャラクターだなという印象は受けた。無骨なタイプなのかと思ったが、無骨さを残しつつも、かなり洗練された、愛情に深い人格を有しており、この作品では一番の人格者なのではないかと思う。どこか禅僧めいたところがあるのが、私のお気に入りのポイントだ。仏教の大学に通っているだけのことはあり、私は禅僧が好きだ。自分の死さえも受け入れてしまうその精神力。あきらかに13歳とは思われない。

・エヴァンゲリオンにしろなんにしろ、アニメーションの主人公というのは、あきらかに設定年齢が低すぎる。この作品であれば、少なくともあと5歳は年齢をプラスしなければそもそも納得ができるレベルではない。あきらかにこの作品のテーマは、18禁レベルで、登場人物たちは18歳くらいでなければこのような行動はできないであろう。
ところが、日本のアニメーションというのは、なぜかはわからないが(日本には幼さや、初めてといったことが尊重される文化背景が関係しているとは思うのだが)、登場人物の若齢化が目立つ。そこには何か成熟することへの恐れといったものも感じないわけではない。
・登場人物が若齢化するとどうなるか。常識的に考えればそれらは当然保護者、というものに庇護された存在ということになってしまう。しかし、日本のアニメーションの不思議なところは、若齢化しつつも、保護者を排除するということにある。どうしても、幼さを保ったまま、自己を確立した人間像を求めるのである。これはなかなか高度な要求で、私など20歳を超えていても、なかなかこのような登場人物のようにはなれないなと挫折感を覚えるものである。
そんなことはいいとしても、若齢化していても親を排除するとどうなるのか。そこにアニメーションが作り上げた新しい人類像が浮かび上がるのである。すなわち、幼くも精神的には成熟している人間像である。特に今回の話は顕著であった。
・なぜそこまで親を排除しなければならないのかがよくわからないが、ダイチには親がいない。父親は失踪してしまっている。母親はどうした、といいたいが、その説明はない。
・今回のダイチは、失踪した父に二重の意味で重ねあわされる。まず一つ目は、ダイチと妹との関係が疑似的な夫婦関係になっているところである。幼い弟と妹を寝かしつけた後、ダイチが眠れずに起きて、それに気が付いた長女の妹と話している場面は、あきらかに子供二人を持った若い夫婦のそれである。登場人物を若年齢化しつつも親を排除すると、若年齢化された子供たちが、親になってしまうのである。そこにまず、第一の父がいる。ダイチが父親に重なっているのだ。
・第二の父は、失踪とかかわってくる。なぜダイチが、自分の死体を隠してほしいというかといえば、当然幼い弟や妹たちに自分の死を知らせたくないということが言えるだろう。果たして死を知らせないことが本当にためになるのか?とは思うものの、まだ死を受け止められない兄弟たちへの、それが一番の選択であるということは私にも納得できるところである。いずれ、大人になった時に死んだのだろうなということを受け止めるだろう。だが、この死体を隠してほしいという願望には、もう一つの意味が含まれる。それはすなわち、自分の父と同じような死を迎えたいという想いだ。この父がなぜ失踪したのかは、結局わからないが、ダイチは父の死を、なにかどうしようもない理由があってこうなってしまったのだ、と好意的に解釈しようとする。それは、自分の死、失踪を父の失踪に重ね合わせることにも表れている。

・禅僧めいたところは、座布団にあぐらをかく(坐禅のメタファー)ことにも表れている。

・今回は私が一番好きなタイプの登場人物だったので、愉しく鑑賞できたが、しかしおそらく一番リアリズムの観点からすれば、かけ離れた回であったろう。一端子どもになって、さらに親になっているという、二重に屈折した人物造形がなされているし、あまりにも精神力が高すぎて、はっきりいって誰も理解ができないレベルの悟り状態になってしまっている。


第十話 仲間
・今回の「仲間」とは何なのか、それは。母を中心とした人々のサークルのことである。
・母が売春婦であったという過去を持つ主人公のマコ。常軌や規範といったものに囚われない母を持ったことにより、自分が規範にとらわれるようになるというおもしろい構図である。母を愛しつつも、やはり誰とも知らぬ父を持つマコにとっては、それは許されないことだったのだろう。母を一面では愛しつつも、一面では憎んでもいる。しかし、母への愛憎は、翻って彼女を母と同じ道に歩ませてしまう。
・お客を取りたい、という衝撃的な要望を突きつけたマコ。おそらく母みこを愛しているであろう、みこの同業者のおじさんの取り計らいにより、マコは、おなじくみこを愛した男性に連れられて、母の店に到着する。そこで、確かに体を売っていたかもしれないが、社会的にそれが悪いことのようにたとえ思われていたとしても、彼女を知る人間はほんとうに彼女のその人間を愛しているという事実を知る。そのことによって、母への憎しみの部分がやわらぎ、精神分析の言葉を使えば、母へのアンビバレントな気持ちが愛情という一つの方向へと集約していく。そのことにより、マコはふっきれることができ、戦いへと赴くことができたのである。

・最初から私は15人の人間を描き切るのは大変なことだ、やめておいたほうがいいと思っていたが、ここにきて、やはりダイチ、マコの描き方に深みを感じられないようになってきた。その前のチズの人物造形からするとやはり薄さ、というか魅力を感じられない。おそらくこの調子で行くと、そう深くまで立ち入ることがなく殺されていく登場人物と、チズのように深めに描写される人物とに分離していくことであろう。それでメリハリが付けられるはずだ。
・だがしかし、そんなことをするのならば、人数を半減させて、最初から選ばれた7人くらいで物語を始めればよかったようなものを、と思わなくもない。


第十一話 命
・まんまエヴァンゲリオンじゃないか(笑)って思ってしまった。分裂する敵、コアが一つの敵というのは、エヴァのそのままであった。
・モジという人物はテレパシーを有しているという、特別な存在であった。
・今回の「命」は非常によくできた作品である。最後にドナーが見つかったという場面で、しかしそれが誰かの死であるということが語られる。それと同時に、モジはその直前に、心理戦をしかけたことによって、相手も心を持った存在であると発言する。その意味はつまりこうだ。相手もまた自分達と同じ存在であるかもしれないということ。それが「命」というタイトルによって、二重にかかってくる。こちらが生きれば、あちらは死んでいる、ということは、数々出てきたロボットたちにも、おそらくモジたち15名のように、「ゲーム」に参加させられてしまったかわいそうな人間たちが乗っているということだ。
・ここにきて、敵が大分強くなってきた。今まではほとんど傷さえつかなかったジアースであるが、この回ではあっさりと切られてしまっている。こうした無敵を感じさせるジアースのような存在を、マンガ的な身体というが、このマンガ的身体が徐々に壊されてきていると感じる。

・9、10、11話は西田大輔が脚本を担当している。
9話では、家族のため。10話では自分の母やその仲間のため。11話では、友人2人のために、それぞれ命を落とす主人公が描かれる。西田のこの三話のテーマは、「全体への奉仕」にあるといっていい。私は左翼的な人間であるから、こういう全体への奉仕というのも大嫌いなのだが、その全体が、自分の守りたいものに限定されている限りにおいては、美談として見ていられる。これが、まったく自分とは直接関係のない人々、例えば国のため、などということになったら目も当てられない状況になるだろう。

・さらに欲を言えば、ここで心臓移植を受けた友達が、しかし結局拒絶反応を起こし、助からなかったという展開になるとさらにおもしろい。万分の一の確率で完全に一致する、拒絶反応が出ない、というのはあまりにも出来すぎである。


第十二話 血のつながり
・今回からまた脚本があの与口氏になった(笑)。またメロドラマでも展開してくれるかもしれない(笑)。
・ところが、今度はあまりメロドラマというようではないようだ。ただ、泣ける話ではあった。
・やはり死を描くということは、生を描くことになるのだなと思わずにはいられない。前回の「命」もうそうであったが、パイロットの死というのは、それ以外の人々の生に直結している。そのことを抜きには考えられないだろう。

・たびたび親や子、ということを考えてきて、説明してきたが、見落していた点があった。親を排除することによって、子供が大人になって行動していると私は分析していたが、田中という軍隊の女性がこのこどもたちの親的存在になってきていることに気が付けなかった。この回をみて、ようやく寄り添っていたことに気が付いたわけである。とすると、精神的にささえてくれる指導者的な存在がやはりどうしても必要になるのだということになる。ただそれは、親よりは遠くなければならない。しかし、単に職場の上司、先生、といった立場では遠すぎる。ある程度自分があり、自由に行動できる大人だからこそ、このこどもたちのよき導き手になってあげられるのである。

・今回泣ける話であったのは、やはり新しい命の誕生だったからだろうか。これは私自身の問題であるが、つねづね生きるのに疲れてしまっている。だから、自分はもう生きるのが辛いな、大変だなと日々思っているわけだが、それでもどこかにこの世に希望を抱いている私もまたいるのである。で、私は、そうした希望を新しい命に盲目的に、希望観測的に勝手に抱いている。彼等、彼女等がもしかしたら私達の意志をついで、よりよい地球にしてくれるのではないかという希望がある。そうした希望を抱いているから、今回はややニュートラルな立場で観ることができなかったかもしれない。

・そして、与口氏。やってくれたのは、この敵地に飛ばされるということが、実は他の地球であるということだ。
最初私は、空間転移などができる作品であるから、並行世界の地球か?とも思ったがどうやら予告編を見た限りにおいては、どこか遠い宇宙の星らしい。であるから、並行世界というよりも、ものすごく遠いこの宇宙には、ほぼ現在我々が住んでいる地球と同じような文明、文化レベルを有した種族や星が存在するという、世界認識の作品だということがわかる。

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