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『ぼくらの』 鑑賞メモ 1 一話から六話

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第一話 ゲーム
・以前から気になっていた「ぼくらの」を見始める。
・2007年制作で、話題になり、アニメとしてある程度の評価を受けてから、7年ものあいだ見ることができなかったことに多少のいらだちを自分に対して抱く。
・15人の少年少女が出てきて、まずすぐに思いついたのは、十五少年漂流記。いがいと古い、古典ものの系譜で捉えることもできそうである。

・また登場人物の名前が覚えられないが、中学一年生の、残虐性とでもいうようなものが描かれる。蟹を焼き殺す場面など。しかし、だからといって、彼女たちらが彼を「サイテー」と評するものの、決定的な関係の崩壊にいたらないのはおもしろい。批難しつつも、その批難は彼の心にはちっともとどいておらず、むしろ自分のおもちゃになって死んだ方がましだろうという強者の論理に集約されてしまう。その後議論はつづかず、決定的な関係の崩壊に至る前に次の場面に移行してしまう。
・15人それぞれの登場人物を描くのは難儀。あの「ワンピース」の小田でさえ、メンバー全員を描き切るのは難しいとして、いつもチームを二つか三つにわけている。どんなに力量のある作家でも、4,5,6人あたりが限界である。15人を一同に会するというのは、かなりの無理があるように思われる。まず、観客が覚えられない。
・15人を描くとなると、かなり時間的制約がかかる。ゲームへの参加をするために鉄板のようなものに触れるが、その場面でのキャラクターの描き方がややしらける。どうしてもキャラクターを特徴づけるためには、誇張的にならざるをえない。そうすると、リアリティが失われ、ラノベ的な典型的なキャラクター像に集約されてしまう。特に短髪の元気っ子や、おしとやか系のお嬢様、といった典型的なキャラクターは見ていてこちらが辛い。

・テレビのブラウン管を消したかのような映像表現。ぶつ切りであるという点がやや観客につめたい印象を及ぼす。もちろん登場人物と同じ目線ということになるが、あの切れ方には何か意図があるように思われる。意識のとぎれをどう表現するかというのは自由で、画面が真っ白になったり、真っ黒になったりすることもできたはずだが、敢えてテレビのように表現するのには、それがやはりどこかゲームと連動するように、画面を介したものであることを物語っているように思われる。

・エヴァンゲリオンを彷彿とさせる。特に襲ってくる使徒のような機械に弱点があり、それがコアのようなものであるのは、完全にエヴァンゲリオンそのままであった。
・しかし動かすロボットの機体は、どちらかというとガンダム系統である。この作品の後になるが、マクロスフロンティアに登場する戦艦とかなり類似する。この場合は、マクロスのほうが影響を受けたと言えるだろう。

第二話 ジアース
・二話目から突然重苦しい展開になってきた。
・2014年の読者である私たちには、すでにまどかマギカという作品がある。この作品により、この作品を見た後では、すべて異世界からの使者、マスコット的キャラクターは、純粋な眼では見られなくなった。すなわち、異世界のルールを有する彼等は、我々とは本質的に異なる存在であり、私達のルールがまったく通用しない相手として、むしろおそろしい存在に感じられるようになるのである。
・この作品では、コエムシと呼ばれる、パンダとクマの間の子のような存在がマスコット的キャラクターである。だが、幸いにもこのキャラクターは最初から外見が悪役である。とすると、単純なもので、案外そんなに悪くない奴、として描かれる可能性がある。きゅうべえは、外見が常識的にみればまったく良い奴のそれをしていたので、我々はその反転に驚かされたのである。最初から悪役面をしてくれていれば、時に悪いことをしてくれても、最後には実は良い奴だったといったオチが予見され、安心して見ることができる。

・この作品は完全に親を排除している。一応語られはするが、なぜかこの作品に登場する15人の少年少女は、「おじさん」と呼ばれる人物の元で、共同生活を送っている。「せかい系」と呼ばれる作品の意味がよくわかる作品である。
・今回は和久隆が主人公の回であった。やはり15人を描くのはむずかしい。一話、20分前後を使用して、やっと一人を描くくらいでないと、キャラクターに深みが出てこない。今回は隆の番であった。隆には父があるらしいが、この父との関係不和が隆の人物形成に大きな影響を及ぼしているのは間違いない。父に認められなかった少年として隆は描かれる。だから彼は別にネットやメディアで取り上げられなくてもいいのである。なぜなら彼の承認欲求は父という社会にあるからである。
・だが、なんということか、隆は最後に死んでしまう。これは妹をいじめる少年によるものに一見思われるが、いくらこの作品を見るのは初めてだとはいえ、このゲームと何らかの関係があることは確かである、と読者に思わせてしまう。最初にゲームの案内役となったココペリという男性がおそらく死んでしまっているであろうことは、彼の眼鏡が落ちているのを拾ったシーンでなんとはなしに感じさせる。
・まだ二話しか見ていないが、この調子でいくと、パイロットとして戦った人物は死んでいくのではないか?といやな予想を喚起させられる。


第三話 秘密
・このタイトルの秘密というのは、おそらく隆の死の秘密ということであろう。こういう作品にありがちな、特務機関のようなものも動き始めたし、いよいよという感じになってきた。
・三話目は、社会を描くことに終始している。二話めで完全なる「せかい系」の作品となってきたこの作品。一話休息をいれる必要が出てきた。ここできちんとそれまで描かれなかった「社会」が描かれているのには、きちんとした製作者たちの作品への意識が垣間見られる。エヴァンゲリオンを模倣しておきながらも、エヴァが描き得なかった「社会」というものをきちんとクローズアップしている点において、批評性を有した作品と言えるだろう。
・この三話目では、それまで現実ではありえない、こんなのフィクションではないか、と一蹴されてしまうような作品にリアリティを与えることに成功している。一話まるまるお葬式を描いた作品というのは、そうない。あったとしても、葬式の場面がほんのおあつらえ程度に5分ほどあるくらいである。この作品では、一話まるまるを使用して葬式を描き切るということをしていて、なるほどすばらしいと思った。
・誰だったか忘れたが、「ワク君、死んじゃったんだね」というセリフに、リアリティを感じられる。やはりどこかでこれは現実ではない、という意識が登場人物たちにもある。それがお葬式の最後になって、ようやく自分たちの友人が死んでしまったんだという現実が、やっとわかるようになるのである。

・ただ、一方で、親と子との関係がやはり希薄であると感じる。今回は全員保護者が登場するのだが、どうしてもその保護者とのディスコミュニケーションがいなめない。というか、親が登場しているはずなのにもかかわらず、親の存在は無い。まあ、あっては作品が成り立たないのだが。子供が主役になれないという意味において。にしても、この作品の保護者は便利すぎる。妹をいじめてしまう兄弟を引き受けた子の家が、なぜあそこまで大豪邸なのか。あまりにも非現実的な家庭環境を持った登場人物しかいないというのが多少気になる所ではある。

・また死者2000人というのも現実感がない。もし死者2000人であれば、もっと大変なニュースになっているはずである。3・11震災を経て、死者3万人を経験した私達からすると、この作品のニュース番組にはややリアリティを欠いたものがあった。また、その死者2000人の死を一度も描かなかったことに、やはり遠景(世界全体がかかった問題)、中景(社会の問題)、近景(自分達の問題)のなかの、中景が抜け落ちている感じがしてしまう。
だが、反対に考えれば、敢えて死をまったく描かずに、隆の死だけを描くということによって、死が、この作品においてどのようなポジションを占めているのかということが如実になってきてもいる。知らない誰か、の死をまったく描かなかったというのは、この少年少女たちの視点に立った時に見えてくる視点なのではないか、と私は思う。お葬式が終わるまで隆の死さえ認識できなかったレベルの認知度である。とすると、中景の知らない誰かの死が、彼等にとってまったく認知できないものとしてもわからなくはない。そうすると、いわゆる「せかい系」の作品というのは、かなり認知度の幼い登場人物の視点の物語であるということができるかもしれない。それは例えば夏目漱石の『三四郎』に準ずる認知度である。ただ、これが三四郎と大きく異なるのは、自分達の認識が即、=で世界の事象と結びつく点にある。


第四話 強さ
・四話目にして、ジアースがどのような原動力であるかが判明。人間の生命力で動くとのこと。だからパイロットは戦闘後にかならず死ぬ。予想していたとはいえ、この出口のない感じは嫌いではない。
・今回は登場人物一人格が曲がっているコダマが主人公になる。
・コダマは独我論的人間である。ちなみに私個人の感想としては、こういう小物、嫌いではない。こいつに対しては反感を抱くが、この考えがわからないでもないからである。人間だれしも少なからず有している感覚、感情、考え、というものを肥大化させた人物であるので、この人物に対する嫌悪感は、おそらく自分も有している感覚を言い当てられた時の気にまずさに似ている。人間だれしもこういう考えを持つものだが、それを持っているのは、生まれてこのかたの人生でなんとはなしにいけないことであると学ぶ。だからそれを持っていないふりを人間はするわけであるが、ふとした瞬間に出てきてしまう。それを肥大化させ、前景化したのがこの人物である。

・それにしても、ここに登場する人物の家庭の非現実さはすごい。コダマもまた一流企業の子息だったのか。
・車のセンスがあまりにもひどい。もし、コダマ父が乗っていたスポーツカーらしきものが現実に存在するとして、誰があのデザインの車に乗りたがるだろうか。戦闘ロボットを描くだけの製作者たちならば、人間が乗るマシーンに対してはそれなりに美意識を有してほしいものだ。

・コダマの独我論について。
人間は誰しも自分が特別で、不死身の存在であると思っている。そんなことはないと思っても、それはほぼうそだ。無意識なだけで、人間皆この感覚を有している。というのは論理的に考えれば簡単にわかることで、人間は誰しも自分の死というものを経験したことがない。そして、もし死んだとしたら、それは死の経験とはいわない。人間は決して自分の死というものを、死んでさえも経験することができない存在なのである。死を経験したことがないのだから、自分が死なないと思うのは当然のことである。
ここでこういう反論が来る。しかし我々は実際に他人の死というものを見て、だいたい死というものを理解していると。確かにそうである。だが、所詮他人は他人。結局他人というのは自分とはかけ離れた、その感覚を共有することのできない、絶対的な他者なのである。だから他人が嬉しがっていようがそれが自分に何の関係があるの?他人が怒っていようが、苦しんでいようが、死のうが、それが自分に何の関係があるの?という極めて素朴であるが、論理的にはまったく正しい疑問によって、すべては無に帰す。
そういうわけで、誰しも多かれ少なかれ、こうした独我論は有している。
だが、多くの人間は現実の感覚というものは、他者を見ることによって、なんとなく自分の立ち位置を確定し、他者との共存をしていくため、感覚をなんとなくこんなものだろうと、自分のなかにあるものを他者のなかに見出し、それを共感として生きていく。だいたいの人間はこれがうまくいっているに過ぎないので、コダマの独我論は、ある意味ではまったく正しいし、反感を覚えるとはいえ、なんら不思議なことではない。

・ただ、その独我論が、自分より強い者であり、自分の創造主である父親に求めたのが間違いだった。まだ彼は父親との関係を、信仰者が神に対するそれから脱していなかったのである。だから、彼にとっての父は、社会というよりは、神に近い存在だった。その父を自分で殺してしまう。これはエディプスコンプレックスよりも強烈な話で、神殺しに等しい。


第五話 弱さ
・第五話では、弱さがテーマになる。「強さ」がテーマであった四話も、強さを語ることはすなわち弱さを語ることでもあるので、同じ人間の弱さを描き続けているといえばそうである。だがAがBであるから、BもまたAかといえばそうではなく、弱さを描いているからといって、強さを描くことになっているかといえば、疑問符をつけずにはいられない。敢えて強さをピックアップするのであれば、パイロットになったら死ぬということがわかっていながら、合理的に受け入れることができた数名の精神力か。どうせ死ぬのであれば有意義に自分の命を使って死んだ方がいいじゃないかと、中学一年生で考えられる人間が数名いたというのは、おそるべき精神力で、それが強さといえば、そうであるかもしれない。
・この作品は、GONZO制作で、アニメーションの絵柄としては、小中学生が見ても楽しめるような絵柄になっている。が、そのギャップを使用したものであろう。五話では、なんとこの絵柄で性が描写される。単純にこの絵柄で裸を描くということではないが(一話目で水着を映した場面があった)、この性を彷彿とは一見させないような絵柄で性を描くことの衝撃がここにはある。2010年のカラフルを見た際にもこの感覚は感じた。主人公が恋心を抱いている少女が援助交際をしていて、おじさんたちと性交渉をしているということが、カラフルのあの絵柄で描かれるのである。その衝撃は忘れがたい。
中学一年生で、確かに親子の問題はあるにはあるが、それほど人間のエゴ、といっても四話のコダマ程度かと思っていたら、女子生徒が先生と性交渉をしているという衝撃の事実が明かされる。コエムシも、チズのことを「細見でいいからだ」という表現を使用していて、観客は否応なく、彼女のことをそう見ずにはいられない視点を強制的に確保されてしまう。

・大体こうした「せかい系」の作品というのは、特務機関などが登場するも、どうしようもないくらい体たらくである。が、この作品に限っては、この国防省の人間たちはなかなかやる大人として描かれる。ラピュタに出てきたムスカたちのようだ。特務の人間がこれほど頭が柔らかく、この現実に対応しているのを見ると、ほう、こういう描き方、無能ではない大人を描くことができるのかと感心する。(大抵において、ドラえもんに登場する大人のように、現実に対して理解できずにただ驚きを持ってしか対応できない、というワンパターンな描写が多いことを前提としている。)


第六話 情欲
・第五話から、このアニメのタッチで性を描いたのはすごい!という感想を持ったが、よくよく調べて見たら、五話から与口奈津江という人が脚本を担当していた。この人の担当はあと二話連続で続いているから、同じようなテーマが続くかもしれない。
・このタッチで性を描くのはすごいということだが、今回はさらに突き詰めて、極限状態でのレイプにまで描写が及んだ。幸い、というか不幸というか、実際にレイプするには至らなかったものの、あと少しでそれは叶っていたわけで、ほぼレイプをきちんと描いたと言えるだろう。しかもそれが水族館であるというところが、批評性を有しているのかもしれない。すなわち、水族館にいる男女のカップルなんて情欲の塊でしかないだろうという批判だ。
・極限状態になると、人間は自分の子孫を残したくなるという話は有名だ。病弱な人がたまに女性に好かれるのは、身体的に弱い人間ほど、潜在意識だか脳機能だか、はたまたホルモンか何か知らないが、自分の子孫を残さなければという状態が高まっているからだという話を耳にする。ジアースを操縦すると必ず死ぬとわかった今、操縦をするということはすなわち死である。自分から死にたくもない人間が操縦できるはずがないのであり、カコの行動は人間的であると言っていい。
・この死を忌避するカコがではどうやってパイロットになるのだろうと考えていたのだが、結論はパイロットにならずに死ぬというものだった。さすがにここまでやられると、哀れな、と思わずにはいられない。この作品の製作者たちは相当意地の悪い人達であることはもはや疑いようのない事実だ。

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