読書メモ 夏目漱石研究のいきぬき 石原千秋に疲れて


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 僕のこんななんのとりとめのないブログに眼を通してくれている奇特な読者さんに、またしてもこんななんのとりとめもなく、なんの意味のない文章を見せるのもなんだか悪いような気がしている。が、こんなものしか書けないのだからしたかない。そこはあきらめて、こんな僕でよければつきあってもらうほかない。
 今日は特にひどい内容だ。内容がないといったほうがいいかもしれない。今回は単なる愚痴なのだ。

 さて漱石研究者で有名といったら・・・という前提の前に、まず21世紀の現代においては、ほとんど大半の人間がまず文学を読まない。ということは、必然、漱石も読まない。1000円札の地位からも転落してしまうことが時代を語っているように私には思える。私のなかでは、漱石は一万円になぜならないのか?!と意気込んでいた時期もあったが、なるほど時代の潮流を見ていると、なんとなくもうそんな時代じゃないんだなということがわかる。
 現代の人達にとっては文学はさほど重要なものじゃないし、当然漱石も重要なものじゃない。とすれば、漱石を研究することなんて、二重にも三重にも重要じゃないもので、下手したら死ぬまでなんのかかわりもない人がほとんどのことなのかもしれない。

 まあしかし、僕みたいに現代社会で生きることがむずかしく、理屈っぽい文弱の徒にとって、文学は重要なことであるし、漱石は重要なことであるし、その研究もまずまず重要なことなのだ。
 僕は漱石によって精神的に助けられたと自分で思っているから、いつまでも漱石に頭があがらない。
 そんなこんなで僕は12月に卒業論文というものを提出しなければならないのだが、それを漱石でやろうと思って、今、必死になって書いている。(といっても、まだ書いておらず、資料に目を通している段階なのだが)。それがつかれてしまったので、今回はちょっと息抜きで愚痴をこぼそうというのだ。

 その前にひとつだけ漱石の魅力を語っておこう。もしかしたら漱石をこんな時代に読んでみようという気になるかもしれない。
 今漱石は秘かなブームになっている。というのも御存じかもしれないが、国語の教科書にそのごくごく一部が抜粋で掲載されている有名な『こころ』という作品が、東京大阪両朝日新聞社に連載されてちょうど100年の節目にあたるからだ。だから朝日新聞社では、『こころ』の連載を当時のように行っているらしい。それで秘かな漱石ブームが到来しているのだ。が、それほど大きなブームにもならないところをみると、やはりもうダメなのかもしれないと、失望してしまう。
 まあしかし、この21世紀に漱石を読むことは決して無駄なことではないと僕は考える。そんなことは多くの論者も言っていることで、ことに漱石研究では有名どころの小森陽一氏が2010年に発表した『漱石論――21世紀を生き抜くために』なんてものは、タイトルの通りに、今の読者が漱石を読むことの意味や意義について語った本である。
 僕なりに噛み砕いて言うと、例えば、宮台真司や大塚英志も言っていることだが、結局21世紀にまでなって、我々日本はいわゆる西洋の「近代」というものができていなかった。今から100年前に西洋化するんだ、近代化するんだと輸入したはずの概念が、実はぜんぜんこの100年間うまくいかずに根付いていなかったということが、こんどの3・11の時に露呈してしまったというのである。
 あの震災の時に、みんながそれボランティアだ寄付だ、それから少し時が経てば震災のことなど忘れ、しかし忘れようとしてもこころのどこかでは不安が残っているから、台頭する安倍政権へのだらしのないすがりつき。ナショナリズムの高揚。がんばれニッポン。宮台真司や大塚英志が『愚民社会』なる本を書きたくなるのもわかる。
 そうすると、我々日本は実はまだ江戸の続き、近世だったというわけだ。そこで、もういちど西洋のきちんとした近代。自分でものごとを考え、安易にはながされない人間、そういう人間像をつくりださなければならないのではないか?ということになる。そうなったときに、今から100年前、このままでは日本は欧米列強に呑み込まれてしまうと心配して、なんとか西洋の近代というものを取り込もうとしたのが漱石だったのだ。だから、彼が書いた小説の中には、多くの悩みつづける主人公たちが出てくるが、彼等の悩みというのは、今真剣にいかにしてきちんとした自我を持ち、自分の頭で考え、行動するか、ということを考えている人間の悩みと重なってくる。
 そもそも僕は100年という歳月をそんなに長いものとは感じていない。まあ時間の感覚なんて人それぞれなのだから別にそんなことはどうでもいいのだろうが。ただ、全体として100年という歳月を短いと感じる人は少ない、ということだけは感じている。だが、どうだろう。私たちは平均年齢が80歳を超えようかという時代に生きている。僕たちだって80くらいまでは平均で生きるのだ。下手をしたら90、100歳まで生きることになるかもしれない。今100歳の人というのは、下手をすると漱石が晩年胃病に苦しみながらなんとか文筆活動を続けていた、そんな時代に生きていた人なのである。とすると、100年なんてそんなに長いものではないじゃないかと、僕には感じられるのだ。
 100年程度では人間はさほどかわらない。良くも悪くも。しかも悩みの種が僕たちと同じ内容なのだから、漱石が今読んでもいきいきとしているどころが、一緒になって考えてくれているような感覚を催すのは、こうした理由があるからである。


 さて、では本題。といっても愚痴なのだが。
 漱石研究で有名というと、まずこの二人の名前が挙がる(少なくとも我々国文学の世界では)。それは石原千秋と小森陽一という人物である。この人達、90年代から00年代にかけて、漱石研究を一緒になってコンビを組んでやっていた研究者で、それまでの「読み」を覆し、斬新な読みを提示したりと、目覚ましい活躍をした名コンビだった。
 ところがどういうわけか、近年はとても仲が悪いらしい。我々国文学の世界では例えば『国文学 鑑賞と解釈』なんていう雑誌があって、大抵の研究者はここに論文を発表したりして活動しているのだが、最近ここに掲載される石原千秋と小森陽一の論文が、お互いの揚げ足取りばかりに終始しているのだ。しかもかなり論調も強く、下手をしたらバカだアホだという言葉が飛び出してきそうなくらいだ。それはそれで第三者の目から見ているととてもおもしろいことは違いないのだが。

 そんなことはどうでもいい。石原千秋が漱石研究において目覚ましい功績を残したことは間違いない。
 石原千秋の本を僕は大分読んできた。

・近代という教養 : 文学が背負った課題 / 石原千秋著 (筑摩書房 , 2013.1)
・教養として読む現代文学 / 石原千秋著 (朝日新聞出版 , 2013.10)
・『こころ』大人になれなかった先生 / 石原千秋著 (みすず書房 , 2005.7)
・漱石はどう読まれてきたか / 石原千秋著 (新潮社 , 2010.5)
・漱石の記号学 / 石原千秋著 (講談社 , 1999.4)
・謎とき村上春樹 / 石原千秋著 (光文社 , 2007.12)
・テクストはまちがわない : 小説と読者の仕事 / 石原千秋著 (筑摩書房 , 2004.3)
・ケータイ小説は文学か / 石原千秋著 (筑摩書房 , 2008.6)
・未来形の読書術 / 石原千秋著 (筑摩書房 , 2007.7)

 ざっと挙げてもこのくらい。あと一冊、二冊読んだ記憶があるが、タイトルがあやふやだから挙げないでおく。ここに挙げたものは一度はきちんと通読した。
 なかなか素晴らしい本もある。漱石研究に限れば、『『こころ』大人になれなかった先生』や『テクストはまちがわない』といった作品はすばらしいと思った。ただ、石原氏の仕事のなかにはやや微妙なものもふくまれる。こんなことを学部生程度の私が言うのは恐れ多いのだが。『漱石の記号学』は、頭脳明晰で論理的な文章を書く石原氏にしては、何を書いているのかよくわからなかった作品である。すっと頭のなかに文章が入ってこなかったのがおどろきだった。そして、今回この記事をかく一番の原因になった本が『漱石はどう読まれてきたか』だ。
 僕はそれまで石原先生の院生になりたい!と思うくらい彼のことを尊敬していた。『テクストはまちがわない』という本はタイトルもかっこよかったし、そこに収録されている論文もどれもレベルの高いものだった。ところが、この本を読んで興ざめしてしまった。
 氏はこの本で、優秀な科学ライターというのはいるという。科学のことがわからない人間に対しても開かれた言葉でわかりやすく説明する。そのような本や雑誌をあまり読まない人間なので僕はよくわからないのだが。だが、と氏は言う。文学にはそのようなライターがいないではないかと。文学というのは自閉しているのではないか。文學がわからない人間に対してわかるように、それを開かれた言葉で書かなければならないのではないか、というのだ。もっともである。研究の歴史をふまえつつ、それを一般の、いわゆる文学部に居るような人ではない人達にも開いていく。そういう意味で、漱石のそれぞれの作品を取り上げ、それがどのような研究によってどのように読まれてきたのか、ということを書いたのがこの本だったわけである。読みのパンフレットだった。大まかな研究の流れと、その作品がどう読まれてきたのかが分かるようになっていた。
 だが、その引用のなかに、あまりにも自分の論文が入り過ぎているのである。しかも、そのコメントもどこか自画自賛している感じがある。なかには自分の教え子の論文もあった。もちろん、自分の論文が入っているのはわからないではない。石原氏は漱石の読みを圧倒的に変えたのは事実だし、そうした流れを大事にするのであれば、最後に私はこのように読み解いた、という風に書きたくなるのもわかる。そういう書き方ならよかった。だが、この作品では、当初は自分の論文を多少卑下しながら出していたのだが、途中からまるで自分は石原ではないように自分の論文を挙げはじめた。ここにきて私はなんだか、石原先生に対して抱いていた幻想を破壊させられてしまったのである。
なんだ、結局自画自賛になっちゃったの?

 これだけずっと石原千秋氏の本を読んできて尊敬していただけあって、石原氏がそのようになってしまったのは残念である。やはりあまりにも氏が残した功績が大きすぎて、そこに自分で慢心してしまったのだろうか。

 そうして僕は、石原氏から少し精神的距離を取るとともに、彼と双璧を為す小森陽一氏のほうに肩入れしたくなってきた。(そんなことをしているとまた幻滅するだろうことは目に見えているのだが)
 小森氏を初めて画像で見た時は、なんだこのサルのような人はと思った。(誹謗中傷ではない。愛情表現である。)だが、最近では、憲法九条を守る会などでも積極的で、かなりかっこよく僕の中では映っている。
 まだ石原氏と仲が良かった時の対談記事などを読んでいても、石原氏は饒舌な感じがしてずっとしゃべっているのだが、たまに小森氏がしゃべって、それがなかなか鋭い指摘だと、おお、小森先生もやるぞ、と秘かに応援している。
 今回はこんなくだならない、何にもならない記事だった。ながながと我が愚痴につきあっていただきありがとう。

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