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石巻のボランティアに参加して ~当たり前が当たり前でなくなるとき~

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 7月の22日から26日にかけて、石巻のほうにボランティアに行ってきました。その感想がやっと、これだけの期間を開けて少しは書けるようになったので、雑多な文章ですが、今の気持ちを素直に書きました。
 ボランティアチームに提出した簡潔な感想文にさらに書きたいことを付け足したひどい文章です。


 今回私は高校生のボランティアに大学生として参加させていただいた。女子高生にまぎれて異質な存在だったと思う。私はかねてより中高の恩師が被災地にボランティアに行っているのをFacebookを見て知っていた。3・11の日、私はちょうど高校を卒業してから数日のことだった。まだ知らぬ大学は一月以上休学となり、まさしく私はなにものにも属さないちゅうぶらりんのなか、震災後の不安な3月、4月を過ごしたのである。
 高校生でもなく、大学生でもない、何者でもない時期に震災を受けたということは私にとって大きな意味を持つようになった。高校生や大学生であれば学校側の指示を受けていればいい。が、何者にも属さない私は誰からもああしろこうしろという指示を受けなかった。高校生として、大学生として震災に向き合うのではなく、一人の人間として震災と向き合わざるを得なかった。
 帰属するもののない人間として震災と向き合うことは予想以上に困難だった。私が震災後初めて被災地に行けるようになるまで三年以上の月日が必要だった。
 何とかしなければならない、被災地の状況を見ておかなければならないと思っていたもの、何をしたらいいのか、どう動けばいいのか、まったくわからなかった。そんななか佐藤先生の活動を知って、これも何かのめぐり合わせだと思いボランティアに参加させていただいた。

 被災地の方には大変失礼だと思うが、私は被災地に入った一日目、なんだそんなに目を覆うような姿ではない、復興してきているんだと、極めて楽観的な視点でその場その場を見てしまった。まだガレキも撤去されていない、そんな場所だろうと思っていたからである。しかし後になるにつれて、その認識がいかに誤ったものであったかがわかってくる。
 ガレキは無い。一見するとどこにでもあるのんびりとした田舎の風景である。田んぼが海風にそよいでいい心持ちだ。だが、今草花が生い茂っている場所は、かつては住宅街、商店街だったのだということを知ると、自分は一体何を考えていたのかということが恥ずかしくなる。
 被災地は一見するともう被災地には見えない。素人の私が何も知らないで行けば、もうそこは被災地であると認識することさえできないのである。ガレキはなく、かつて人が営んでいたところは草木でおおわれてしまっている。津波の恐ろしさとはこういうことなのかと私は感じた。たった三年で、素人が見ると被災したともわからないくらいになってしまう。東京で、あるいは被災しなかった他の土地で言われる「風化」と、被災地で使用する〈風化〉という言葉には、言葉では言い表せないほどの感覚の違い、言葉の違いがあるということに気が付いた。

 今回のボランティアでは夏休みということもあり、現地の子供たちと遊ぶ機会を多くいただいたのだが、子供たちも同じことである。一見すると東京の子供たちよりも元気がよく、被災した「可哀想な」子たちという視点で行くと何も見えてこない。ああ、なんだこの子たちは普通の、いや都会以上に元気な子供たちだ、と安心する。すると、そこでまた自分の認識の甘さを感じさせられることが起こる。例えば子供たちから「お兄ちゃんはどこから来たの」と言われると、はっとする。
 そうだ、私は確かに今この瞬間子供たちと楽しく遊んでいたが、しかし私が住んでいるところはここ石巻ではなく、東京なのだ。私は飽くまでも東京からボランティアに来たお兄さんでしかない。
 被災地の子供たちと遊ぶ前に、何度も生徒を連れてボランティアを行っている先生や、他の大人たちから次のようなことを聞いた。例えばあるボランティアは「お姉ちゃんのまたねは信じていいの?」といった言葉を投げかけられたそうだ。他にもそのような言葉でなくとも、ボランティアの人達は一度来たきりで戻ってこない。そのことに子供たちも気が付いているから子供たちが暴力的になるのだそうだ。
 何故かというと日常生活で被災地の子供たちは仮設住宅のなか、非常に抑圧された生活をしている。今回仮設住宅を見に行くことができたのだが、本当に粗末な、江戸時代のあばら家のようなものに感覚としては捉えられた。マンションや団地といったレベルではない。ちょっと「トン」と足音を立てただけで大人たちから子供は叱られるのだ。人間にはある程度の距離が必要である。それがあまりに近すぎて、閉じ込められているとだんだん人間がおかしくなる。何日間も食べ物、飲み物がなかった後、食料が運ばれた時、大人は我先にとぞっとするような行動をとったと聞いた。それをみていた子供たちは当然ショックを受ける。そしてそのようなことを大人たちがやっているのだからと自分達も真似をしたり、あるいは大人たちからの一方的なストレスの解消にどなられたりといった環境の中で、どんどん抑圧されていく。
 そこに一回限りのボランティアがくる。ボランティアの人たちは自分たちの生活は安定した人達だから彼等からしたらまともな大人なのである。その時にようやく子供たちは「まとも」に戻ることができ、安心するのだそうだ。そして抑圧された分、ボランティアに来てくれた人たちと「本気」でその時その時一瞬を遊びつくすために、暴力的になる。
 一見すると、子供たちはとても元気なのだ。それこそ東京の子供たちよりもずっと。しかしそれは何故か?という背景にまで立ち入らなければならない。それを見ずして表面だけをなめてくると、ああ、もう被災地は「復興」しているな、と勘違いすることになる。
 そうした背景というのは、私は日常生活のなかではまったく見えてこなかった。あまりにも新しい情報や知識が多すぎておどろいた。ニュースは見ている。が、ニュースではそのような背景は語られない。もし語っていたとしても、自分のことと思ってみていないから、ふーんそうなのかで流れてしまう。しかも、ただ被災地に行っただけでは決して気づき得なかったことである。この三年間断続的に行っている先生や、三年間その先生と一緒に活動をしている現地の人達の言葉がなければ気が付けなかった。なんと了見の狭い世界で生きて来たことか、また被災地をそのような限られた視点でしか見れてこられなかったことか、つくづくと考えさせられた。

 私はボランティアから帰ってきて、しばらく自分は一体何をしてきたのか、この体験を通じて私は何をしたのか、ということを悶々と思い悩んだ。
 今、私達都会に住む人間が「ボランティア」で思い浮かぶようなことはもう必要とされていない。例えばガレキ撤去。私はこれをするものだとばかり思って行った。そんなものの必要はもうほとんどないのだ。この三年間で大勢の方がもうそれをしてくださった。今必要なのは、もっと長期的によりそった形のボランティアなのではないか、私はそのように感じられた。
子供たちと遊んで確かに楽しかった。子供たちも楽しんでくれただろう。だが、私はこのボランティアを通じて子供たちを傷つけてしまったのではないか?と悩み続けた。
 子供たちと遊んだ時間が楽しければ楽しいほど、私はすぐに現地にまた戻ることができるような状況ではない(体力的にも、金銭的にも、時期的にも、他様々な理由をつけたがる精神状況についても)。もしつぎまた行くとしても、今年の冬か来年の春かに、また一週間程度であろう。しかし今被災地の人たちが必要としているのは、そんな一週間程度で来て、すぐ帰ってしまうというようなボランティアではないのだ。
 もっとその地に住んで、住民として関係を築き、買い物の手伝いをするとか、子供たちの相手をするとか、そういう段階に移ってきているのである(と私には感じられた)。
 私は一週間でやっていってしまう、そして二度と来ないボランティアのお兄さんの1人として、また子供たちを傷つけてしまったのではないか?そしてそれは、私の被災地を見ておかなければならないという、自分一人の勝手なエゴから生まれた行動だ。
 私はまた自分のエゴによって他人を、しかも一般の他人ならまだしも、被災地のさらに子供を!傷つけたのではないか?と自問した。

 夏休みに大学の先生と話す機会があったので、私は自分の先生として、教員の先輩として、人生の先輩として、このことを打ち明けてみた。その時の言葉が今も胸に刻まれている。
 文学の先生なので、流石に引用してくる言葉が違う。
 広津和郎『散文精神』より
  「みだりに悲観もせず、楽観もせず」
 この言葉を引用しつつ、「子供たちのたくましさを過小評価してはいけない」と活を入れられた。教職に関わるものは、過小評価も過大評価もしていけないと。「ああ、こんなに自分は駄目なんだ」というのは、それでもまだ自分に甘えている、傲慢だからなせる技だと指摘された。
 確かに私は自分のエゴで子供たちを傷つけてしまった、と思い込むことによって思考を停止しようとしていた傲慢な人間だったようだ。

 ボランティアに行って、それを否定するのは私を遊んだ、私とかかわった人達を否定することだ。ボランティアに行ったことは行ったのだ。過去は変えられない。それを肯定しすぎるのもまたいけない。ああよかった、満足だというのは傲慢である。が、それを否定するのも傲慢である。
 もし私の代わりに他のボランティアの人が行ったとしても、ボランティアがありつづけるということは変わらない。もし私が行ったとしても、他の子供たちと遊ぶことになったかもしれない。私がたまたまそこに行って、そこの子供たちと出会えたこと。その縁、「えにし」を大切にしなさいと、その先生から言葉を頂いた。
 私はここでようやく霧が晴れたように感じられた。私がボランティアに行き、そして現地の子供たち、あの子たちと会えたことは紛れもない事実なのだ。それはもうどうしようもない、変えることのない事実なのだ。だったらば、それを大切に、そこで巡り合えたことを大切にしなければいけない。


 私は幸いにもこのボランティアの少し前まで、母校で教育実習を行わせていただいていた。中学三年生に『黒い雨』の授業をさせていただいた。その授業を通じて私は、70年も前の戦争をいかに自分達と結びつけて考えられるかということをテーマにしていた。この震災も同じことだと私は思う。つまり、いかに自分の問題として考えられるか、ということではないかと。
 折しもこの感想を書いている時期、原爆投下や終戦記念日に重なった。テレビの中から流れてきて心打たれた一つの言葉がある。それは「戦争の話を聞いたなら、その話
 を物語として後世に伝えるのではなくて、その話を聞いた時にどのような心情になったのかという、自分の気持ちを伝えるようにしなければならない」といった主旨であった。
 はっきり言ってまだ気持ちの整理がついていないし、感じたことももやもやしていて上手く言葉にできない状況である。だが、私にできることはあるはずだ。私は東京にいた。地震は確かに感じだが、津波や原発といった意味では被災していない。被災地の話を物語、ストーリーとして他の人にも伝えるのは私の役割ではない。私はその被災した方々のストーリーを聞いた時にどのように感じたのか、それをこれから東京に、あるいはこの震災を自分の身近に感じることなく過ごしている人たちに伝えていかなければならないと思った。

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