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哲学、究極の問いに対する僕の答え

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 忘れもしない、4月30日の深夜、つまり29日をすぎてから二時間ほど経った時のこと。私は夜寝る前にトイレにいくのですが、そのトイレに入ったところで、はっと今までこの二年間ほど悩み続けてきた一連と問いに対する答えがひらめいたのです。
 まずその問いというのは、哲学の世界では「第一の問い」とか「究極の問い」とか言われるもので、どんな問いなのかというと、「なぜ私は存在しているのか」「なぜ私は生まれたのか」「なぜ私は生きているのか」といったものです。
これは根源的な問いで、いままで多くの哲学者が挑んできた問いです。いまだこれといった答えもない。またこれらの問いは、そのあまりのむずかしさや危険さから、「混乱を呼ぶ悪名高き問い」、「解答不可能な奇問」、「愚かな問い」、「問うことが危険な問い」などと言われて、敬遠されてきたというのも事実です。
 こうした問いは「形而上」であるとして、カントなんかは問うこと自体がいけないんだ、なんて断罪しているのですから、おもしろいものです。
 私も一時期この問いの魅惑というか、なんというか、この問いから離れられなくなっていた時期があって、もしかしたら自分は意味がないのではないか、生きることに意味はないのではないかとだんだん鬱的になってきていた時期もあったのです。ですが、それがなんとつい先日、ふっとわかったような気がしました。

 言葉で書くといかにもチープですが、私が達した答えはこうです。
 この問いが問えるようになった時点ですでに答えは出ている、というもの。
 補足説明しますと、「なぜ私は生きているのか」「なぜ私は存在するのか」といった問いは、その問いが生まれた時点で完結しているということなのです。
 手塚治虫が書いた有名な漫画『鉄腕アトム』にはこんな場面があります。アトムが人間のこころを持ちたいと願う場面なのですけれども、しかし、実はその人間のこころを持ちたいと思った時点で、すでにこころを持っているのです。
 私はこの一連の問いも、この問いが生まれた時点で完結しているのではないかと思うわけです。つまり、なぜ私が存在するのか、なぜ私が生きているのかという問いが生まれたということは、究極的な「私」の存在に気が付いたからなのです。
 もし、自分が他人とかわらずに、自分は歯車だ、自分が死んでも何もかわらない、他人と交換可能だという考えであったならば、おそらくこれらの問いは生まれてこないのだろうと思います。私は、この問いが自分のなかで生まれたというときにすでに、私は私であって、それ以外のなにものでもないということに気が付いているわけです。
 実にシンプルでありますが、しかし真実というものはこのくらいシンプルなものなのでしょう。私は私であって、代替不可能で、オリジナルでユニーク(かわりがないということ)な存在なのだということにやっと気が付けたのです。こんなことは、今迄ずっと言葉では聞かされて、頭ではなんとなくわかってきたことです。しかし、これが心のレベルではっとわかる。この感覚がきっとこの問いの答えなのだろうと思います。
 この数か月、私は自分は自分以外のなにものでもなくて、本当にユニークなものなんだ。こんなにすばらしいことはないと次第に気が付いてきていたのですけれども、それがやっと地についたというのか、翻って、この一連の問いと結びついたのです。

 なぜ私は存在するのか、なぜ私は生きるのか。これらの問いというのは、おそらく、その問いを問い続けていくことにはあまり意味がないのではないかと思います。もちろん、きっとこの問いを問い続けていっても、何かしらあるとは思います。もしかしたら、やはりまだ発見されていない何かがあるのかもしれない。
 しかし、私が数日前に体感したのは、これらの問いが問えるようになったその時点で、すでに自分は自分であって他人ではない、このあまりにも当たり前で、しかしそのためにみんな忘れてしまっている事実が、この問いの発生であるこの事実が、一番重要なのではないかということなのです。
 今回の体験は、言葉にすればこんな感じです。はっと頭のもやもやがゆっくりと晴れて行った感じ。こころのなかから少しずつ少しずつ湧いてくる、充足感、幸せのようなもの。
 私たちは、なぜ「なぜ」と問うのかということなのです。どうして、なぜ?と思うのか。実はこのなぜ?と問えるということ自体にかなり意味があるのではないでしょうか。
 どの授業でもそうですが、先生に質問出来る子というのは、自分の頭で考えている子です。ところが、自分の頭で考えている結果、なぜ?そうなるのかがわからない、というところがでてくる。自分の頭で考えることをせずに、ただ聞いてノートを書いているだけでは、なぜ?という疑問は湧いてきません。
 哲学の問い、とくにこの一連の問いについては、なぜ?と問える状態になった時点で、私は私であるということが本質的にわかったということなのではないでしょうか。
 もちろん、これは私にとっての私の答えなのです。ですから、これが全員に通用するなんてことは思っていません。おそらくこの文章を読んだからと言って、誰もが、ああそうかと納得するとは思えません。無理でしょう。ただ、この答えというのは、私にだけ意味を成すことであり、他の人に意味をなすとはとても思えません。ですが、まあ他人の思考の痕跡を見るということもまた、何かにはなるのではないかと思い、またこの感動を誰かと共有したく(おそらく無理ですが)、今回記事にした通りです。

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