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ベジタリアンとまではいかないけれど、できるだけ暴力的でないものを食べる生活

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 最近は私もようやく資本主義の幻想から抜け出すことができまして、自然に帰らねばならないと思うようになりました。そして、革命は下から、一番弱いと思われているところから行うものです。自分が変えられない人間が何故他人を変えることができるでしょう。
 私は最近ガンジーに代表されるインドの思想などに触れ、いいなあと心から思いそれらを受け入れています。このブログでもよく登場するサティシュ先生もその代表ですね。
 そしてやはり私たちは「生きている」のです。言葉で書いてしまうとなんということもありませんが、私はここ数か月、やっとこのことに何か本質的に気が付けたような気がします。ああ、私は紛れもなく、この世界に生を受けたのだ。こんな奇跡的なことってないじゃないかと思い始めました。
 それ以来、自分はなによりにもまして特別な存在であり、代替不可能であり、ユニーク(ほかにかわるものがない)な存在であるということに気が付かされたのです。この自分がかけがえのない大切なものだと思うのと同時に、周りにいる人達もみな大切な、かけがえのない存在だということにも気が付きます。自分だけが大切というのは、エゴであって、それは本当の大切さをわかったとは言えないでしょう。

 私はガンジーの言った「非暴力、不服従」の精神が大切だと思っています。最近では、その思想がどんどん自分のなかに根付いてきて、食に対する考え方も変わりました。
 サティシュ先生は「全体食」ということを言っています。全体食というのは、たべものをそのままの形で食べることです。全体食というのは、仏教の「一物全体(いちぶつぜんたい)」という考えに拠っています。Wikipediaから引用すると、「生物が生きているというのは、丸ごと全体で様々なバランスが取れているということであり、そのバランスのまま人体に摂取することが人体内のバランスを取るのにも望ましいという考え方から、人間が食物を摂取する際、穀物を精白したり、野菜の皮をむいたり、動物の肉や魚を部分的に食用にするのではなく、できるだけ丸ごと食べるのが健康に良いとする考え方。 栄養学の観点からも、植物の皮や葉、小魚の骨は栄養が豊富である」というわけです。
 私はまだこの「全体食」にまではたどり着けていないのですが、しかし最近ではできるだけ暴力的につくられていないものを食べるように心がけようと思うようにはなりました。

 一時期ネットでフォアグラを作る際の過程が映された動画が話題になりました。かなり暴力的で、精神的な衝撃を与える動画なので、心の準備がない方は御覧にならないでください。
http://www.hopeforanimals.org/animals/foiegras/00/id=224
 私はこうした動画を見て、やはりこれは違うと思いました。何が違うって、動画が違うんじゃありませんよ。動物をこのようにして暴力的に、食べることだけに育成して食べるというのは間違っていると思うようになりました。
 フォアグラなんてなくたって私たちは生きていけるわけです。だからフォアグラにはノーを突きつけていく。みんなが食べなくなれば、必然、売れなくなるのですから作るのをやめざるをえない。暴力は少なくなります。
 そんなことを言ったら何も食えなくなるじゃないかと、多くの方は言うかもしれません。しかし、そんなことはない。
まず、私たちは穀物だけを食べて生きていくことなんて十分にできるのです。しかし、反対に肉ばかり食べるとなると、それは地球全体で考えても無理だということになります。現在地球には70億という、あまりにも増えすぎてしまった人間が住んでいます。しかし、なんとも地球は偉大なもので、これだけの人間が食べるだけの食料を大地はつくってくれるのです。ところが、これに足して肉をつくるとなると状況がかわります。1キロの肉をつくるのには、10キロの穀物と、水20トンになると言われています。世界中の人々が肉を食べるようになれば、あっという間に地球の資源は枯渇しますから、やはりどう考えても全体的にはどんどん肉から離れて行かなければならないということになるのでしょう。
 まあ、しかしそんな理論的な、あるいは壮大な話はやめましょう。こういう話をすると、どうしてすぐに地球と考えてものごとを考えるんだと人から言われるのですが・・・。私は地球と結びつけて考えないからこんなに乱暴なことを人間はしてきてしまったんでしょうといいたいのですがねえ、まあ喧嘩になるからやめておきます。

 それとは別に、もっとパーソナルな部分で、半径数メートルの話をしましょう。
 もし、心の準備が整った方はフォアグラの動画を見て頂ければより理解が深まるのですが、食用のための家畜というのは、本当に乱暴で暴力的につくられたものなのですね。できるだけ少ない餌で太らせようとするわけですから、運動もさせられなければ、満足な場所も与えられない。効率的でないからですね。
 さて、食用のための家畜を生産している現場では暴力に満ち満ちています。記憶というものが脳以外にも残るということが判明して久しい今日、そんなに乱暴に、暴力的に育てられたものを食べている人間がおかしくならないとはっきりと言い切れるでしょうか。
 現在社会というのは「科学教」という宗教が蔓延している世界です。この世界では、科学的に「正しい」ことが、すべてにおいて「正しい」のであって、仏教的に「正しい」とか、心理的に「正しい」とか、日常的に「正しい」とかいったことは、すべて「非科学的だ」といって軽んじられてしまいます。しかし、私は科学教の皆さんにとっては残念なことに、科学教の信者ではないのです。ですから、科学的に「正しい」と言われたことが、「正しい」ことだとは私は盲目的に信じません。科学的に正しいからといって、それがどうして私にとって正しいことになるのでしょうか。私はそれゆえ、非科学的なことは正しくないことだと軽んじることもありません。私は自分がよく理解できない数字上のことが正しいからといって、それを盲目的に信じるのではなく、より広い視野からものを見たいと考えています。いくら科学的に「正しい」からといって、それが間違っていたということが歴史を振り返ればいくらでもでてくるわけで、経験的にも、日常的にも、心理的にも照らし合わせてみて総合的に「正しい」ものを見出していきたいと思っています。
 科学においては、暴力的に作り出された食品を取り続けることによって出る影響というものを計測することは、仮に出来たとしてもまずこの数十年では無理でしょう。おそらく計測できないと思いますが。
 私はアニミズム的な感覚を持っているし、それが悪いことだとは、ナンセンスなことだとはちっとも思っていません。やはりモノにさえもこころは宿るものだと信じていますし、植物にも当然こころがある、ましてや動物にはもっとこころがあると思います。そうしたこころあるものを乱暴に、暴力的に扱ってできた食べ物を食べて、そして私たちが幸せになるはずがないと思うのです。
 多分影響は出てくると思いますよ。こんな話をいくつかの本で読んだことがあります。ネズミか何かだったかな、ある光を出して、その後に電撃を与えるという条件付けを行ったそうです。そうすると、そのネズミは光を浴びると痛い目にあうのをわかっているから、怯えた行動を取るようになる。そのネズミを殺して、もう一匹のネズミにエサとして与えたところ、条件づけ、光を浴びた後に電撃をくらったことがないネズミでさえ、光を当てたところ怯えるようになったという実験があるそうです。
 これは大変乱暴な実験ですし、またあまりにもよく出来すぎているお話なので、そんなにうまくいくわけはないだろうと思いますが、しかし、記憶が脳以外にもあるということはもう今日では自明の理なのではないでしょうか。骨にも記憶があるそうですし、内臓器官にも何かしらの記憶があるらしいということがわかりはじめています。それだけではない、きっと筋肉からなにからなにまで、おそらく記憶とまでいかなくとも、何かしらのものが残っているでしょう。それを私たちは毎日毎日体内に摂取するのです。
 本当に私たちは口にするものと身に付けるものだけは注意しなければなりません。
 そのような暴力によって生み出された動物たちが、自分の身体にどのような記憶を残しているかわかったものではありません。それを常日頃食べ続けることによって、私はきっと何かしら人間は罰を食らうとおもうのですね。

 ですから、最近ではできるだけ私はそうして暴力によって生み出された食べ物は食べないようにしています。もちろん、できるだけですから、出てきたら食べます。出されてしまったのに食べないということは、さらにその動物に対して失礼だと思うからです。でも、できることならあまり食べたくない。
 しかしベジタリアンというわけではありません。自然の世界を泳いでいてたまたまつかまってしまったお魚は食べさせていただくことにしています。これも養殖のものはあまり食べる気になりませんね。
 ベジタリアンといっても、何もそんなにおどろくものじゃありません。私たちはベジタリアンと聞くと、野菜しか食べてはいけないのかと思いますが、そんなことはなく、要は肉を食べないということだけなのです。ですから、ラーメンだって食べられるし、そば、うどん、パスタ、パン、御飯、いくらだっておいしいものはあります。今まで食べていた肉を減らすだけ。ぜんぜん難しいことじゃありません。別にこれを強要しているわけではありませんよ。ただ、私は最近そういう考えになってきているというのを書いているだけであって、みなさんにそうしなさいなんておこがましいことを言うつもりはありません。
 あとは、あまり科学的なものも口にしたくありませんね。科学的というのは、ひとつは農薬などです。もう一つは遺伝子組み換えという、あまりにも生命に対して乱暴なこと。これだけは私は許せませんね。そうしてもう一つは、自然的でない食べ物です。コンビニにいけばいくらでも売っている、一体なにからつくったのかわからないような食品。
 やはり食べることというのは、生きることの根本になると思うのですね。だから、生きているものを食べるということが、自分の生に直結する。ああ、自分はこうして、動物なり、植物なり、生きているものを食べて生かされているのだなと感じる。だから「いただきます」なのですよね。でも、それが何によって生み出されたかわからない、化学調味料をふんだんにつかったゼリーとかなんとかだと、ちっとも命を頂いている気にならない。ある意味気楽なのです。命を頂いているという罪を背負わなくていいので。しかし、それは一見すると気楽でいいですが、自分が生命を頂いて生かされているという、一番大事なことを忘れてしまうことになるのではないでしょうか。だから、なんで生きているのかわからなくなる。どんどん生命から見放されていくのです。
 きちんと食事をする際には、自分が食べなければ生き続けられたかもしれない生命をいただいているという感覚を持って、それをありがたいことだと感謝しながら、食べなければ失礼だと思います。最近はそういう基本的なことからどんどん遠ざかっているために、自分の生きている意味がわからなくなったりしてきているのではないかと考えたりしていました。

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Re: 2−3注意点

yokoblueplanet様、コメントありがとうございます。
とても参考になりました。全体食を目指したいものの、我が国では残念なことに農薬どころのさわぎではなく、原発、放射能の脅威が恐ろしい。本当にすばらしいコメントだったので、私しか見られないのは実に残念です。これからもこうしたコメントを是非お願いします。ありがとうございました。
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