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『英国シューマッハー校サティシュ先生の最高の人生をつくる授業』辻信一 感想とレビュー

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はじめに
 このブログでも、何度も紹介している、現代を代表する偉大な思想家サティシュ・クマール。しかし、彼はその思想が実に慈愛に満ち、真に人間のことを考えた思想家であるにもかかわらず、彼は決しておごりたかぶったり、自分の力を誇示したりするということの全くしない人です。それは、彼がそういう思想の持ち主だからということもできます。まさしくサティシュは、支配したり、支配されたりしないという思想の持ち主だから、偉大なのです。彼は自分のことを偉大だなんてきっと夢にも思っていないことでしょうが。
 サティシュの主著は『君あり、故に我あり』という本です。この本は、それまで西洋の哲学が、デカルトの「我思う、故に我あり」という唯我独尊的だったのに対して、それではどこまでも人間は孤立し、孤独になってしまうとして、反対に君があるから、私もあるのだ、私もあるから、君もあるのだ、互いに依存しあっていいのだということを説きました。
私も大学進学に失敗して、いわゆるよりいい学校に行けなくなり、よい就職口もまあ無理だろうとなったなかで、どんどん自分のなかで何かが壊れて行きました。そして、自分の理想と現実の乖離のために、精神的に不安になってしまったのです。そんな時に、たまたまこの本に巡り合いました。先輩が紹介してくれたのですけれど。私はこの本を読みながら泣きました。そして、ああ、依存してもいいのか、それまでの生き方のほうに問題があったのかと悟りました。それ以来、私はサティシュ先生を生涯の師と思っていますし、彼が死ぬ前に是非会いに行きたいと思っています。

サティシュの紹介
 今回紹介する本は、そんなサティシュ先生とも交流のある辻信一先生が書いた本。辻先生は明治学院大学で授業をしていますけれども、彼は自分のゼミ生をつれて、2010年にサティシュが建設した英国にあるシューマッハー校を訪れます。
 そこでの7日間の出来事をできるだけ再現したのがこの本です。この本では、できるだけ自分もその場にいるという想像をすることによって、サティシュの大きな心に包まれているような安心ができます。
 この学校の名前にもなった、シューマッハーは、サティシュの友人でもあり、師でもあった人。それまでの右肩上がりの経済に意を唱え、仏教的な概念を取り入れつつ「スモールイズビューティフル」という、今迄にはない経済を唱えた人です。
 サティシュの基本となる考えは「E=4H」。EはエデュケーションのE.教育はとは、4つのHからなるということです。4つのHとは、ヘッド(頭)、ハート(心)、ハンズ(手)、ホーム(家)。なんということはありません。サティシュの考えは別段すごく斬新とか、新しいといったものではないのです。サティシュは、この「経済」という魔物が、コミュニティを崩壊、分断してきたために、今では考えられなくなってしまっていた、昔ならば当り前のことをしようといっているだけなのです。

一日目
 この本の利益の損害にならないように、できるだけこの本をみなさんにも手に取ってもらえるように、いくつか本書の内容をかいつまんでみましょう。
 この本は全体で7つの章、それぞれ一日、二日というように、サティシュと暮らした毎日が書き記してあります。
一日目にはこんなことが書いてあります。「全体食の衝撃」と題し、そこで振る舞われた食事の衝撃が描かれています。 サティシュはベジタリアンです。この学校でもお肉はでてきません。日本から行ったゼミ生たちは、私達とかなり近しい感覚の持ち主のはずです。肉が出てこない食事なんて考えられるか!?という感じだったことでしょう。ところが、どうにもおいしいらしい。写真も掲載されているのですが、とても美味しそうなクランベリー・ソースが映っています。私たちは普段肉を食べること、肉を調理することに意識を向けているので、野菜だけというと想像がつかないのでしょうけれども、きっとこの肉に費やすお金、時間、労力を同じだけ野菜に向ければ、きっと野菜というのはとても美味しくなるのだろうなと思います。

二日目
 二日目は自然の授業。
 「現代の産業社会では、自然界は「我々に何をもたらすか」という点でしか意味を持たない。もたらされる利益だけが重要というわけだ。富をもたらし、権力をもたらし、お金をもたらし、便利さをもたらし・・・・・・。」
私たちはどこで何を間違えてしまったのでしょうか。おそらく田舎に住んでいる人というのは、それほど資本主義に毒されていない、自由でいられる人なのだろうと思います。都会は便利、かっこういいところ、そうした幻想を資本主義は生み出してきました。そして、都市では、土はコンクリートによって隠され、山々はビルによって隠されるのです。そうでもしないと、自然ということを考えてしまうから。だれもが、自然を傷つけているのを見るには耐えないのです。ところが、利益を生み出すためには仕方がない。だから、都市に住んでいる人たちには、自然を見せない。そして、利益を生み出すための自然を、どこか遠くの国で搾取しているのです。
 サティシュは現在では当たり前でなくなってしまった、当たり前のことを教えてくれます。どうして、私たちは「所有」という概念をなんの疑いもせずに使用しているのでしょう。どうして私たちはただ生まれて、生きているだけで、国とやらにお金を払わなければならないのでしょう。どうして大家さんにお金を払わなければならないのでしょう。私たちは地球にむしろ住まわせてもらっているのですから、地球に対して税を払わなければならないくらいなのではないでしょうか?なぜ勝手に支配、所有している気になっているのでしょう。こんなことを言うと、じゃあお前はこれから様々な機関を使えなくなるぞ、敵がきても守らないぞ、なんて返してくる人がいるでしょうか。しかし、まあ、そういう発想しかできない人というのは、哀れですね。
 「現代人は、彼ら先住民を見下す傾向があるね。野蛮で、文明からとり残され、遅れた人たちだ、と。でも実際にはどうだろう。彼らの伝統的な考え方や生き方のほうが、社会の平和や自然との調和が実現できる。実は、今の私たちよりもはるかに優れていたのではないか」
 〈先住民といわれる人々の文化の中には、自分達の社会を持続可能なものとするための知恵が詰まっている。一方、現代の文明社会は、たった200年ほどで、自分たちの社会ばかりか、人類全体の暮らしを、持続不可能なものに変えてしまった。だから―とサティシュはいうのだ―もし人類がこれからも存続し、繁栄したいと望むなら、先住民の考え方から学ぶ必要がある、と。〉
 〈所有とは税金を払わせるための人口のシステムであるとすれば、それが自然なことであるわけがない〉〈そして所有を公に認めさせるために、証明書というものがつくられた。権力とはこの証明書のことだといってもいい。その権力を集めたものが、政府というものだよ。政府が所有を認め、そこから税金を取り立てる。そういう仕組みをつくり出してしまった。〉

四日目
「就職しない生き方」
 サティシュは「君たちには、雇用を追い求めないでほしい」と言います。「『雇用される』とはどういうことだろう。それは、丁寧に扱われる奴隷になるということじゃないかな。逆に、『雇用する』とは、企業が君たちを買うことを意味している。
 企業に雇用されている人は、その企業が求めることを強制される。強制されたら、『好きだからやっている』とはいえなくなってしまうよね。仕事に意味を見出すのも難しくなる。そして、したくない仕事もすることになってしまう」
 しかし、それでは生きていけないと人はいうことでしょう。私は他の辻先生の本も読み、貨幣をつかわないコミュニティがいくつかあることを知りましたが、それは私個人が逃げ道として持っておくぶんには構いませんが、多くの人にはそれは難しいことでしょう。サティシュはすこし抽象的ですが、働くことについて次のように述べます。すなわち、支配、被支配ではなくて、自分の才能や品格、創造力をつかって、仕事をする。仕事が自分自身になればいいのだというのです。これがどのような状態を表すのかなかなか難しいですが、起業ということでもないでしょう。それはあらたな支配を生みます。
 手芸や芸術や音楽をして、ほそぼそと生きていく生き方というのが、それに近いのかもしれません。サティシュは「仕事は遊びであり、遊びは仕事」であり、「仕事と遊びに明確な区別はない」と言います。

 幸福について、サティシュは非常に示唆的なことを言っています。
 〈西洋には「幸福の追求」という言葉がある。〉〈幸福は追い求めるものであり、常に幸福を追い求めてやまにその姿勢こそが幸せをもたらす、という考え方が広く共有されているといっていいだろう。〉それに対して、〈ヒンドゥー世界では、幸せは「SUKHA(スッカ)」という言葉で考えられるのが一般的だ。その意味は「苦しみの不在」だ。苦しい状態ではないこと。それはすなわち「幸せ」だというわけである〉〈スッカは追い求める対象などではなく、どこにでもある日常的でナチュラルな状態である。それはいつもそこにある〉
 「あれがなければこれがなければ生きていけない、あれをしないとこれをしないと生きていけない、と社会は僕たちに脅しつけている。でもサティシュがいうように、生きていくために必要なものは限られている。生きていくためには、本当にパソコンやテレビや自動車は必要だろうか?そうしたもののために必死に働かないですむのなら、人間にはまだまだ十分な時間があるはずだ」


五日目
 「強さとは、硬直した頑固さのことじゃないんだ。むしろ優しく、柔軟で、しなやかなものにこそ強さが備わっていると私は思う。岩は硬くて、重くて、柔軟ではない。一方で水は優しく、柔軟で、形を変えることができる。どちらが強いかは、いうまでもないね。そしてどちらのような人生を君たちが目指すべきかも明白だ」
 サティシュは純粋主義者ではありません。彼は自然と一体となること、自然とともに生活していくことを目指していますが、外来種をはぶいたりするということはしません。もちろん、外来種の与える影響にも考慮しますが、慎重にそれを見極めることによって、互いに生態系が壊れないようにすることはできると言います。
 強さとは、今日本が向かっているような方向ではないのです。近隣の国が攻撃してきそうだからという理由で、こちらもそれに応じようというのは、けっして強さではありません。むしろ、悪い意味での「弱さ」です。弱い犬ほどよく吼えるとはよく言いますが、これとおなじことで、日本は今、周りの国が怖いからという理由で、どんどん吠えています。

終わりに
 いくつか、私が感銘を受けた箇所を拾い読みしました。サティシュの思想からは、現代人が失ってしまった大切なものがいくつも隠されているように思えます。そして、私もこうした本を読み続けることによって、ようやく資本主義の幻想から解放されることができました。
 これからは、より地球にやさしく、そして人々が幸せを実感できるような世界になっていくことを願います。またそのために資本主義から「降りる」ことのすばらしさを広めて行こうと思います。

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