実写版『魔女の宅急便』 感想とレビュー いまこの映画を実写化する意義とは

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はじめに
 実写版の映画『魔女の宅急便』を見てきました。平日に映画館に行き、比較的小さな劇場ではありましたが、そこそこ入っているところをみると、大ヒットこそはしなかったものの、大きく外したということでもなさそうです。
 私は角野栄子氏の原作も読んでいます。ジブリ映画の『魔女の宅急便』はほとんどこの原作通りに描いているので、今この時期にこの映画を実写化する意味はなんだろうと不思議に思っていました。ジブリの『魔女の宅急便は』多くの人々が見ています。そして、その映画は原作にかなり忠実なのです。ですから、今この時期に同じ原作を実写化する意味というのは実に不思議で、私にはわかりませんでした。新しい解釈でもしたのかな、とも思って劇場に足を運んだのですが、特に新しい要素もなく、私は本当に不快な映画を見せられたと感じました。

原作、アニメ版との違い
 作品の世界観は少しアニメ版とは異なっています。主人公のキキが住んでいる町は、山間に作られた町で、どこかイランとか中東系の雰囲気が漂う街です。アニメ版が平地に住んでいたのと違って、どこか秘境に住んでいるという感じがしました。
 ジブリ映画では大きな時計塔のある町に住むことになるキキですが、実写版でキキが住むことになるのは瀬戸内海を彷彿とさせる島の一つです。
 そこからは、アニメ版と同じように配達をしはじめたりします。けれども、アニメと異なるのは、原作にあって、アニメになかった洗濯物を乾す場面。原作には、比較的初期の依頼で洗濯物を乾すのを手伝うという物語があります。これをアニメでは省いたわけですが、実写版ではアニメが省いた部分をうまくつなげたという感じです。
その後は原作やアニメ映画とは徐々に話が変わってきます。カバの子供との話がこちらの実写版ではメインになるのですが、これがじつにチープな話で、ちっともお面白くない。
 最初にキキは島の動物園に降り立ちます。そこで、カバの子供と仲良くなるのです。ところが中盤にこのカバの尻尾がライオンにかじられるという事件が発生します。時を同じくして、キキも魔女として人に呪いを届けると噂されたり自信がなくなってきて、魔法が使えなくなってきます。カバも徐々に衰退していき、作品の最後、フィナーレへむけて突き進みます。
 作品の最後は、大雨、大嵐がやってきて、大変な天候のなか飛べなくなっていたキキが、友達であるカバの子供を他の医者のいるところへ連れて行くという手に汗握る場面へと移ります。
 なんとかカバを他の島にいる行方不明になっていた動物医に届けるということで話は終わるのですが、その場面もなんだかチープなにおいを拭えません。これは個人的な問題ですが、私はどうも浅野忠信という男が好きになれません。役者ですから、イメージを作るというのは彼らの仕事なのですが、どうにも彼のちゃらんぽらんとした雰囲気が私の性に会いません。そんなちゃらんぽらんな雰囲気を持った彼が、偉そうに哲学を語るのですから、閉口ものです。
 カバの尻尾に時計を結びつけるという意味不明の治療をしただけで治ったという展開にも私はちっとも納得できませんでしたが、ひどいのはおあつらえ向きに付け足したかのようなメッセージ性とでもいうべき、説教です。キキが一体なんの病気だったのかと聞くと、浅野演じる動物医は、「中心喪失病とでもいう病気だ」と言い始め、自分のこころとからだの中心を見失ってしまう大変な病気だと言い始めるのです。そして、なんとなく自分もそうだったのかなと反省するようなキキ。一体こんなチープな説教がこれまでの映画史においてあったのかというくらい、記念的なお説教です。

視姦される身体
 物語の内容は広く人口に膾炙していますし、今さら何を描くのかと思ってみましたが、まったく内容がなかった。ぺらっぺらな作品であったのにはひどく残念に思いました。ところが、私はその程度ではなくて、この映画が本当は何をしようとしたのかということが垣間見れたような気がしたので、ひどく腹を立てています。
 というのは、今さらこの映画を実写化したところで、売れないことくらい誰にだってわかるはずです。私程度の文藝批評家きどりにわかるレベルですから、映画を制作している人間にはもっとよくわかることでしょう。物語の内容を売るのでもない。新しい解釈をするのでもない。とすると、何を売りにするのかということになります。
 この映画の売りは、まさしく主人公キキ役の小芝風花さんを見世物にしてお金を稼ごうということなのです。アニメ版でも、オソノさんの夫であるフクオという無口な亭主が登場し、ことあるごとにキキを見つめるという場面がありました。これは、魔女へ対する好奇な目線のようにアニメ版では感じられました。ところが、この映画は、魔女に対する珍しいという目であるというよりは、彼女の肢体をなめまわすような非常にエロチックな目線なのです。
 私達観客は一体どのようにこの映画を観るのかというと、このフクオ視点を借りて、あるいはそれに誘導されて、幼い少女の身体を見るのです。事実この映画では、これでもかというくらい、小芝風花さんのなまめかしい肢体が描写されます。部屋にいるときには、アニメ版でもそうではありましたが、まだアニメ版ではエロチックな感じはしなかった。ところが、この映画では、実際にキキが白い下着だけをきている場面など、とてもエロチックに描写されるのです。それに、黒い魔女の服をきている時でも、けっこうスカートの下が見えるような描写が多々ありましたし、この映画は小芝風花さんの少女の身体を視姦するための映画なのです。
 私は普段から資本主義との関係でさまざまな事象を分析しているのですが、そのなかでも資本主義が行った一番いけないことというのは、人間の身体性までをも資本にしてしまったことだと考えています。現代では、性のサービスも実に簡単に「購入」することができます。少女たちも自分の身体を一時的に売ることによって、援助交際といったものをするわけです。この映画も、合法的なレベルで、少女の身体を「売り」に出したわけです。
 ただ、私も全部が全部悪いというわけではありません。自分の意志で身体を売って、お金に換えている人を否定する気もありませんし、してはいけないでしょう。ところが、小芝風花さんは97年生まれ。この映画の撮影時には、15か16歳のころのことでしょう。とても、15,6歳の人間が自分の判断に責任を持てるとは思いません。彼女は未成年なのです。その身体性を勝手に売りものにして、それでお金を稼ごうとしている製作者たちの傲慢さが見え透くからこの映画は非常に不快感を観客に与えるのです。

おわりに
 私はだからといって小芝さんを否定するのではありません。彼女はとてもチャーミングでかわいいですし、元気をもらいました。彼女は役者として十分に自分の仕事を全うしたと思います。しかし、それを売りものにしようとした製作者たちの思惑がぷんぷん匂って来るのです。ですから、この映画に私は反対しなければなりません。
 作品自体をとっても面白くない。そして、その売り方があまりにも汚すぎる。だから、この映画を評価するわけにはいかないというのが私の結論です。

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