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「ラファエル前派展」と「アンディ・ウォーホル展」の比較から読み解く、「心本主義」と「資本主義」の対立 感想とレビュー

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 現在六本木の森ビルで行われている、「ラファエル前派展」と「アンディ・ウォーホル展」に行ってきました。
 まず、「ラファエル前派展」は森アーツセンターギャラリー。「アンディ・ウォーホル展」は森美術館で開催されています。これややこしいのですが、実は同じ場所です。そもそも、六本木ヒルズと森ビルというのは、同じ建物ですし、その部位によって違うのか、どこが提供しているかということで違うのかよくわからないのですが、多くの人を迷わせます。森アーツセンターギャラリーと、森美術館は、一階だけ違う同じ建物内の美術館です。恐らくどこが提供しているのかということで、名称が異なったのでしょう。

ラファエル前派と心本主義
 今回の展示、森ギャラリーの方では「ラファエル前派」、森美術館のほうでは「アンディ・ウォーホル」が展示されていたのですが、この二つの展示はあまりにも象徴的、対比的でした。ですので、私はだれか頭の働く人がこの二つを同時期に同じ場所で対決させたのではないかと勘繰っているのですが。
 何が対比的だったのかと申しますと、「ラファエル前派展」は、「資本主義」に対抗した思想に基づいているということです。ラファエル前派というのは、1848年にジョン・エヴァレット・ミレイや、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハントなどらが中心になって結成された美術集団です。当時の美術界は、巨匠時代の1人、ラファエルに倣うことだけが良しとされた時代でした。すでにそこには、先人から学ぶという態度ではなく、単なる模倣をしつづける形骸化されたものしか残っていなかったのでしょう。少なくとも新進気鋭の若者たちが活躍できるような状況でなかったことは確かです。そこで、彼等はそのような形骸化され、古い因習に縛られている美術界と手を切って、自分達で新しい美術の地平を切り開いていこうとしたわけです。
 何もないところから生み出すというのはなかなか難しいものがあります。彼等が新しい美術を産み出すために何をよりどころとしたのかというと、それがラファエルよりも「前」の美術だったわけですね。だから、ラファエル前派と呼ばれるわけです。ラファエルは巨匠時代の人で、生きたのは1483年から1520年までです。なので、ラファエル前派という名前に惑わされて、ラファエルよりも前の時代の人なのかと思ってはいけません。ラファエル前派の人たちは美術の拠り所となるのをラファエルよりも前に求めたのであって、活動したのは1850年前後と、今からやく150年前のことです。
 私たちが彼等の活動から学べることは、すでに形骸化してしまった「今」を乗り越えるためには、それ以前の歴史を振り返り、それをよりどころとしたうえでさらに新しいものを産み出すことが可能だということです。彼等の活動は、当時の評論家たちなどによって厳しく酷評されました。それは保守的であり、先進的であったからです。新しいものというのは、保守的であり、懐古的であるというのは、言葉じりだけをとらえると矛盾しているように見えますが、矛盾していないのです。古いものに学びながら新しいものを産み出していく。歴史はつねにこれの繰り返しなのだろうと思います。もちろん、まったく何もないところから生まれたというようなものも中にはあるかもしれません。ですが、一見するとそう見えるものも、意外と昔のどこかから発想を得ていることはよくあることです。古いものを学ぶというのは、新しいものに活かせるということを彼らは身をもって私たちに教えてくれているように私には感じられます。
 また、ラファエル前派は、第二世代と呼ばれる人たちにウィリアム・モリスを迎えます。1850年前後と言えば、18世紀、1700年代の終わりから始まった、フランス革命、工業化社会、資本主義社会が爆発的な発展をしていた黄金の時代でした。そうした資本主義に対して、モリスは「アーツ・アンド・クラフツ運動」を始めます。
 アーツ・アンド・クラフツ運動というのは、「産業革命により機械化が進んだ結果、大量生産の安価で粗悪な商品が増え、労働の誇りや喜びが奪われたことを批判して、英国で怒った美術運動」で、「生活と芸術を一致させることを目指」す運動のことを言います。モリスは自身は画家でもあり、デザイナーでもありましたが、多彩な人で、詩人だったり作家だったりしたわけです。なかでも、こうした運動面では思想家や社会運動家としての顔がありました。
 形骸化した芸術に一端歯止めをかけ、さらに古い古典をよりどころとしつつ、芸術をもう一度再生した。その次の世代(年代的には数年の差しかないのですが)は、さらに芸術の復権と資本主義社会の批判を混淆させ、芸術を「芸術のための芸術」ではなく、生活とも密接した芸術にしようとしたのです。この点で、芸術を大衆化させたのではないかという批判もありますが、私はそうは思いません。芸術の大衆化というのが一体どういうことかというのは、次に論じる「ウォーホル展」を見ればよくわかるのですが、モリスが行った芸術を生活を結びつける運動というのは、生活のほうを改善することであるように私には思われます。それに対して、芸術の大衆化とは、芸術を貶めることです。

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ウォーホルと資本主義
 このようにして見ると「ラファエル前派」というのは、一見すると古典的であり、懐古的であり、保守的でありますが、しかし当時の「今」を打ち破り、新しい世界を切り開く力をもった、新しいものであったことがわかります。
この対比となっているのが同時期に、同じ個所で開催されている「ウォーホル展」です。こちらは打って変わって資本主義の権化、資本主義の神様的な存在です。
 私は先のウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に賛同していて、これを私が勝手に「心本主義」と名付けて読んでいるのですが、資本主義はまさしくこれと相反するものです。
 ウォーホルは「もしきみがアンディ・ウォーホルについてすべてを知りたいなら、ぼくの絵と映画、そしてぼくの表面を見るだけでいい。そこにぼくがいるし、その裏には何もない」と言います。これは、まさに至言で、彼の本質をついた言葉でしょう。つまり、中身はないのです。しかし、あまりにも圧倒的な情報量で表面をつくろうために、何か中身があるように見えてしまう。多くの人はその中身に寄せ付けられて彼を称賛し、近づいていったのでしょう。彼は中身はないのだということをこのように表現していますが、多くの人はそれでも中身があると思って彼の幻想を追い求めているのです。
 また、この構図はポストモダン的とも言えます。中身はないのだけれども、表面には多様な言説が散りばめられている。ポストモダン以前は文学にしろ作品にしろ、その背景となる何かしらのモノが存在していています。
 ウォーホルの作品群は、ポストモダン的に内容空疎であるけれども、表面を取り繕っているので、そこになにかがあるのではないかという予感がし、それを追い求めて多くの人が寄せ付けられるのです。しかし、私はウォーホル展を見ていて、非常に不快に感じたのと、さらにはあまりの虚無の深さに疲れてしまいました。そこには何かあるように見えていても、何もないのです。
 彼の代表作であるマリリン・モンローのポートレートも、同じ図版をなんどもなんども再生して、色だけかえて多様な作品として見せている。しかし、そこにはどれも、だれでもが作れるような質の低いポスターが並んでいるだけなのです。
 ウォーホルは1960年代前後のアメリカの大衆消費、大量消費社会を反映させた作品をつくります。ウォーホルの缶のイラストなどが大衆消費、大量消費をさらに促したということもあり、ウォーホルは単に大衆消費社会、大量消費社会を反映させたということだけでは言い切れない、彼もまたそれを助長した側の人間であると言うことができるでしょう。大衆消費社会や大量消費社会というのは、もうすでにその幻影にぼろがでつつある2000年代現在においてはもう手放しで認められることではありません。しかし、その社会に生きていた彼にとっては、それを批判することなく、むしろ増長したと言う点においては、現在の私たちは彼を無批判に賛美することはできません。
 ウォーホルは通常芸術家がアトリエとするような場所を「ファクトリー」と名付け、彼の作品の制作、同時代の作家たちとの交流の場として使用しました。この美術展では、その「ファクトリー」を再現をした部屋があります。ですが、この部屋は本当にひどかった。コンクリートのうちっぱなしで、何もない。無機質な箱です。こんな場所に居たら神経がどうにかしてしまいそうです。ところが、これが恰好良い、クールだと信じられていた時代があるのです。そして、まだ多くの人がウォーホルのことを恰好良いと思い、こうした無機質な部屋がクールだと思っているのでしょう。
 ウォーホルの作品のなかに、資本主義社会の負の側面を捉えた作品があります。自殺をする人たちをテーマにした作品や、スピード社会によって生み出された事故をテーマとした作品たちです。これだけをみると、そこから何か彼のメッセージのようなもの、資本主義やスピード社会に対する批判が見て取れるような気もしますが、しかしそれはほとんど皆無でしょう。たまたまそうした現象が目に入ったからという程度でそれらを作品として取り扱っただけのように私には感じられます。それらの社会を批判する作品群もその後まで続けられることはなかったことからもそれが裏付けされると思います。
 また、彼は芸術を大衆にひらいたということで、モダンアート、ポップアートの神的な存在と目されていますが、これはどうでしょう。私には、芸術を大衆(しかも資本主義社会における大衆)にむかって商品化したということで、むしろ芸術を貶めたと考えます。彼は「アート」も大量生産、大量消費するのだとして、一枚いくらと決めたポートレートを大量につくり、大量に売りさばいていくのです。こうしたことが「アート」であるとは、私は認めることはできません。
 どこまで彼が自分の作品を意識的に捉えていたのかわかりません。なかには、「$」マークを描いて、「記号」だと銘打った作品もあります。他にも、絵の具に尿をまきちらして酸化させただけという、「ふざけた」作品もあります。彼が芸術をどう捉えていたのかということがこれらの作品からわかるのではないでしょうか。

 おもしろいことに、ウォーホルは1968年に、彼の映画にも出演経験のあるフェミニズム活動家ヴァレリー・ソラナスに銃撃されます。資本主義、大衆消費社会の権化であるウォーホルが、マイノリティーを擁護する立場のフェミニストに打たれるというのは実に象徴的なことにように私には感じられます。おそらく、私も同時代に彼の近くにいたとしたならば、彼のことを否定せざるを得なかったでしょう。
 ですが、そのようなウォーホルも、死後に発見されたことですが、彼の寝室は神との対話ができるよう、実に宗教的な部屋になっていたのです。資本主義、大衆消費社会の権化として君臨していた彼も、その空虚さには耐えられなかったのでしょう。自室で神と対話しているときが彼を救った唯一の時間だったのではないでしょうか。だったら、最初からそうした作品を作っていれば彼はもうすこし長生きできたのではないかと私は感じますが。結局彼は58歳の若さで命を削るようにして死んでいきました。胆嚢の手術を受けたあと、心臓発作で死んでしまったのです。胆嚢や心臓といわず、彼の内臓、内面器官はそうとうぼろぼろだったのではないでしょうか。「ファクトリー」とよばれるこころ休まることのない頽廃的な場所で、頽廃的な生活を送る。空虚な作品を作り続けることが彼の内面や、身体にどれだけの負担を強いていたのかと私は感じます。

終わりに
 ウォーホルは、消費社会の権化になった人でした。その点、日本では高度経済成長期のメディアの寵児となった寺山修司にも通じるところがあると思います。寺山もスピードだ、一点豪華主義だと言っていましたが、結局若くして死にました。
 もう資本主義社会が破たんをきたしていることは目に見えているのにもかかわらず、いまだに多くの人がそれに代わるシステムがないからという理由だけで、その沈没しかかっている船に乗り合わせているのです。
 行き詰った時、どうしたらいいのか。ラファエル前派の人々が教えてくれました。資本主義よりも以前の社会を見つめて、そこから新しいものをつくっていけばいいのだということです。残念なことに、資本主義に反旗を翻したアーツ・アンド・クラフツ運動なども、歴史を見れば明らかなように、ウォーホルを見れば明らかなように、資本主義の波に飲み込まれていってしまいました。しかし、今もう一度資本主義以前の社会を見つめ、そこから学び、新しい資本主義にかわる社会をつくっていかなければならないのではないでしょうか。
 日本人はいまだに外国のモノをありがたがって無批判に受け入れる習性がありますから、ウォーホルの作品を見て、「すごい」と手放しに賞賛することでしょう。しかし、それではいけないのです。やはりウォーホルの作品からは何も生まれません。そこにあるのは虚無です。モノに溢れた社会ではなく、モノが少なくてもこころある社会に変革していったほうがいいのではないでしょうか。
 あるいは、この二つの展示会を見て、もっと資本主義を推し進めるべきだと思う人がいるかもしれません。私はそうした人達のことは知りませんが、私たちを巻き込むなと言いたい。自分達だけでやっていてくださいということです。

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No title

わたしは、かつて西洋絵画の画集を古代から現代まで、ざっと眺めたことがあります。

その大半は退屈なものでした。何百枚も見ていると、正直、どれも同じに見えてくるんです。

その中で、思わず手を止めてしまった絵が二点あります。

クールベの「世界の起源」と、ウォーホルの「キャンベルのスープ缶」です。

いずれも、「なんだこれは」という絵でした。

クールベもウォーホルも、それ以前にはクールベもウォーホルもいなかった、という観点からとらえるべきです。

それ以来、芸術も哲学も、本質は「タウマゼイン」であるとわたしは確信するようになりました。

ウォーホルで芸術が堕落した、と考える見方はありだと思いますが、ピカソの亜流みたいな絵が支配していた中に風穴を開けたウォーホルの価値は否定できないと思います。

その後のウォーホルの亜流みたいな芸術家たちの絵は、これまた退屈なしろものでありましたので、そちらには興味はありませんが。

Re: No title

ポール・ブリッツさん、コメントありがとうございます。
「資本主義」を批難するあまりに、かなり論調が激しかったので、反省していたところです。ポールさんの、冷静な(感情的ではない)、生産的なご意見をありがたく拝見させていただきました。

私は「資本主義」を否定するという「色眼鏡」でしか、ウォーホルの作品を見ることができませんでした。それを、停滞した芸術に風穴をあけるだけの力を持った「芸術」と見ることが出来なかった点、深く反省し、純粋に主義、思想などから一旦分離して、作品としてきちんとみるような視点も確立するよう努力いたします。

No title

お返事ありがとうございます。

ちょっとわたしもエキサイトしていて、お心を傷つけるような書きかたになってしまっていたかなあ、と反省しておりましたので、こうしてお返事を読めてよかったであります。

ラファエル前派の絵でも好きなものはありますよ。ハントの「贖罪の山羊」なんて、ひと目見て、「なんだこれは」とびっくりしましたし、すごい絵だと思います。

また寄らせてもらいます(^^)
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Author:幽玄

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