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アニメーション映画 『アフロサムライ』 『アフロサムライ レザレクション』  感想とレビュー アメリカからみた「日本らしい」アニメ

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 〈『アフロサムライ』(AFRO SAMURAI)は、岡崎能士の自費出版による漫画、またそれを原作とするGONZO製作のテレビアニメ作品である。
 漫画は1998年に出版され、アニメは2007年1月にアメリカ合衆国で先駆けて放送された。
 時代劇とヒップ・ホップやソウルが好きな著者が、アメリカ人が考えるような間違った日本観を逆手にとって創作した作品である〉
(Wikipediaより)

 この作品は、2007年にテレビアニメとして五回放送されました。五回の放送ですから、放送時間にしても約2時間。ほぼ同じ内容で映画化されております。こうした映画とアニメがほぼかわらない作品というのは、いくつかアニメーション作品にみられる傾向で、それは同じ内容でもアニメ、映画と両方で売り出さないと資金的に非常に厳しい状況にあるということです。また、最初から映画として制作するつもりで作られた作品もあります。有名な「マクロス」シリーズでは、『マクロスプラス』という作品がこのタイプに類します。テレビアニメとしては五回分。映画はそれに少し手を加えたもので、二時間ほどの映像になっています。

確立された他者の視点
 今回は映画版をテクストとして論じて行きます。
 さて、この作品が面白いのは、Wikipediaにあるように、作者が「アメリカ人が考えるような間違った日本観」を目指して作品を描いていることです。自己を客観視しているのです。自分はきっと他人にこうみられているだろうなというイメージを逆手にとって、相手のイメージに合う日本らしさといったものを創り出した。このことは、アニメーションを海外に売り出していくためにも面白い戦略の一つと言えるでしょう。(ただし、それを等のアメリカ人が見て、確かに僕たちのイメージしていた日本そのままだ、やっぱり僕たちは正しかったんだと、さらに間違った認識が深まってしまうという危惧は無きにしも非ずですが。)
 また、作品公開もアメリカで先になされるなど、制作当初からアメリカの人々に見られることを意識して制作された作品だということがわかります。ですから、この作品は日本人のためにではなくて、アメリカ人のために作られた「日本らしい」作品だと述べてもいいだろうと思います。
 そのようにして考えてみると、この作品を分析することは、すなわちアメリカの日本観をも分析することに繋がるでしょう。

 私は日本文学が専門なのですが、しかしだからといって日本だけを見ていていいわけではありません。時には日本を見るために、敢えて外国の視点を取り込まなければなりません。というのも、自己というのは、自分だけでは見ることができないのです。柄谷行人が『日本近代文学の起源』のなかで論じたのは、他者を発見することによって、自己が生まれたということです。それを彼は「風景」の発見だと言います。それまでは風景というものは存在しなかった。というのは、風景と自己とが区別されていなくて、連続していたからなのです。
 日本のアニメーションも同じです。それまでは日本だけでアニメーションを制作していればよかったのですが、日本のサブカルチャーが海外でも評価され(このことは多分にポストモダンが海外でも浸透していることだからだと私は思っていますが)、日本はサブカルを自ら売り出していくことによって、現在を生き残ろうとしています。ですから、それまでの自分達が欲しい、求めている作品だけでなく、より海外受けするものも制作していくことが求められるようになったのです。
 そうした一連の流れのなかで観ると、この作品が非常に重要な位置を占めていることがわかるでしょう。この映画は、初めてといっていいくらい、本格的に海外の視野を確立した作品なのです。

他者からみた日本らしさ
 東浩紀はその主著『動物化するポストモダン』で非常に面白いことを述べています(この本だけで記事を書こうと思っているのですが、それには少し時間がかかりそうです。この本は現在のサブカルチャー並びにこれからどのように個人の趣味が変遷していくかということを考えるためにも、是非読んでいただきたい名著です)。彼は日本はまだ敗戦というどうしようもない深手を負ったままだという主張から、ナルシシズムと結ぶ付けて論じていますが、結論だけを述べれば、日本のサブカルが日本らしいものと評価されるようになって、サブカルが「日本らしさ」をどこに求めたかというと、江戸時代だということです。
 日本はご存知のように明治時代とともにかなり急速な西洋化が始まります。それまでの鎖国状態を否定して、西洋に追い付け追い越せでなんでも取り入れたわけです。そうすると、現在の私たちから見ると、どうしても明治時代というのは、「日本らし」くない。では、私たちがこれぞピュアな日本だと考えられる「日本らしさ」をどこに求めるのかというと、その最も早い部分が江戸時代なのです。
 また、これは外国人にもそう映るようで、やはりこの百年は外国人からみても「日本らし」くないのです。彼等が日本に対して抱いているイメージは「サムライ」「ニンジャ」なのです。
 (余談ですが、文学の世界でも外国人が好む日本の文学というのは、偏りがあります。日本人が考えれば、やはり日本の近代文学、これは読んでおかなければと思うような作品は、漱石・鷗外となりますが、海外ではそうではない。というのは、この二人の文豪は海外の文学の模倣をしたにすぎないと彼らは観るためです。そこにはオリジナリティがない。なんだか自分たちの文学と似ているということで、あまりおもしろいとは感じないようです。ですから、彼らが好む、日本らしい日本文学というのは、三島、谷崎、川端になるわけです。日本では漱石・鷗外には劣るように感じられるかもしれませんが、三島はなんといっても、割腹自殺をしました。まだ戦後日本に武士がいたのかということで、外国人は武士としての日本をそこにみるのです。谷崎も日本らしい美的感覚を持っているとしてその文学は世界で読まれ続けていますし、川端も日本らしいと海外の人には映るそうです。ですから、彼がノーベル賞を受賞したのは、そうした理由があります。


さて、いよいよ作品に入っていきます。
 この作品は、エロ・グロといった過激な表現に溢れた刺激的な作品です。いきなり主人公の父親がアメリカ人っぽい拳銃を持った人物に殺されるという衝撃的な場面から始まります。
 この映画の面白いところは、アメリカ人から見た日本らしさを日本人が作っているということで、そこには同時に日本からみたアメリカらしさといったものもさり気なく批判として刷り込んでいるところです。こちらもアメリカの思う日本らしさを描くから、そのかわりにアメリカらしさも描いてやるといったように感じられます。
 主人公のアフロサムライと呼ばれる男はいつも無口。そのかわりに、アフロサムライに付きまとっているニンジャニンジャと呼ばれる男は始終しゃべりっぱなしです。
 この映画は、日本で制作された日本アニメなのにもかかわらず、全編英語になっています。しかも、声は『スターウォーズ』でメイス・ウィンドウなどを演じたことで知られるサミュエル・L・ジャクソン。
 かなりの大スターを起用しています。また、それと同時にサミュエルを割り当てるということは、製作者側にも彼にたいするイメージがあったことを指摘しておくべきでしょう。サミュエル・ジャクソンは、無類の日本好きとして知られていますが、同じく日本好きなジョージ・ルーカス監督の「スターウォーズ」シリーズに出演しています。「スターウォーズ」が日本の武士をイメージして制作されたことはよく知られたことですが、この作品では、さらに「スターウォーズ」で演じられたサミュエルの武士らしさといったものを逆輸入していると考えられるのです。1999年に『ファントムメナス』。2002年に『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』。2005年に『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』。エピソード2、3ではジェダイ最強の剣士として見事に戦いました。海外ではサミュエルといえば、メイスというイメージは広く印象付けられています。そのサミュエルを起用するということが、日本らしさを体現することにもつながるのです。

沈黙できなかった映画
 しかし面白いのは、日本らしさを目指していたこの映画は、ずいぶん「日本らし」くないのです。
 サムライとして登場するアフロは、そもそもアフロであること自体がアメリカっぽいし、飲み物は決まってレモネードです。
 アフロは日本のサムライらしさを体現するために、無口です(おそらく武士は寡黙であるというイメージがあるのでしょう)。ところが、この映画は二時間ほど無言でいるのには耐えられないのです。そのため、主人公の代弁訳としてニンジャという男が始終話すことになります。最初に見たときに、このニンジャというのは、どうもアフロだけにしか話しかけておらず、実態を持たない、アフロの妄想のような存在なのかなと思ってみていましたが、まさしくそうでした。サミュエル・ジャクソンはアフロサムライとニンジャニンジャ二人の声を担当します。
 後にこのニンジャニンジャの正体が徐々に明かされていきますが、しかし最後までよくわからない。時に実態を持っているような描写もされます。果たしてこれはアフロにとっての何なのでしょうか。
 一つの役割としては、アフロの代弁者であるということです。これはアメリカ人に見られるということを意識したからかもしれませんが、アメリカ人にとっては長い沈黙というのはどうも耐えられないといったイメージが日本人にはあります(たぶんアメリカ人も耐えられないのだろうとは思いますが)。それは、アメリカで流行るスポーツからもしばしば言われることで、サッカーのように、一時間のうちに一点入るか入らないかといったスポーツはアメリカでは流行りません。反対に、数十分のうちに何点も入るようなバスケットが好まれるというように、長いこと変化がないというのは彼等にとってはどうもあまり好む傾向にはないようなのです。
 しかし、日本らしい「サムライ」を描くとなると、黙らざるを得ない。ではどうするかということで、アメリカ人のためにニンジャニンジャというずっとおしゃべりしている人物を配したのではないでしょうか。

ニンジャニンジャの正体
 ニンジャの正体を考えたいと思います。今、映画内における意味を述べましたが、アフロにとってのニンジャの存在についてです。私は最初、彼の良心なのかとも思いました。アフロが黒で、ニンジャが白。この二項対比は悪と善のようにも見えます。アフロは人を平気で殺します。反対にニンジャは殺すなと言います。ですから、アフロにとっての良心、あるいは善的な存在なのかと思いました。
 しかし、どうもそうではないらしい。とすると何か、「迷い」ではないかというのが今のところ、一番近い私の考えです。これもところどころ整合性のつけられない箇所があるので、この解釈も不十分なのですが、アフロの行おうとしていることに反対している部分を見ていると、彼の心における迷いなのかなとも考えられます。あるいは単純に、天邪鬼でアフロと反対のことを述べているだけということも出来ますが。
 「迷い」であるという論の根拠となるのは、ニンジャは終盤の戦闘において消えます。それまでは、過去に縛られて自分の兄弟子であった仁之助、クマサムライに対して剣を抜くことができません。それは、自分に咎があり、仁之助をそのようにしてしまったのは自分のせいだと思っているからです。そして、ニンジャが居なくなると、やっと武器を持つことができるようになる。とすると、やはり「迷い」が消えたからと考えることができるのです。
 (ちなみにこのクマサムライ、呼吸音など、どう考えてもダースベイダーをイメージしているとしか思えません。)

 アフロサムライ レザレクション
はじめに
 『アフロサムライ レザレクション』(『AFRO SAMURAI RESURRECTION』!)は、『アフロサムライ』(2007)のその後を描いた作品として、2009年に公開されました。
 この記事は、前回の記事の続きとして読んでいただけると良いと思います。

 この映画は、なぜかはわかりませんが、「一番」のはちまきと「二番」のはちまきという不思議なはちまきをめぐる話になっています。このはちまきが一体どこからきたモチーフなのかはわかりませんが、おそらく帯といった「日本らしい」ものから来たのでしょう。
 「一番」のはちまきを付けるものはその名の通り、世界で一番強い存在であり、神の力を手に入れることができます。そしてその「一番」のはちまきを持つ者に挑むことができるのは「二番」のはちまきを持つ者だけ。「二番」のはちまきを持つ者に挑むことができるのは、誰でもということで、悲惨な殺害の連鎖が繰り広げられるのです。
私はこの映画を観ていて、繰り返される殺害という点で、どこか2008年のアニメ『黒塚 KUROZUKA』を彷彿とさせるように思いました。
 一番と二番しかないのかよと思っていたところ、前作の『アフロサムライ』のラストで、七番あたりまであることが判明します。いずれも一番に挑んで、神の力が支配しているような場所で死んでいます。
 アフロサムライの父親は一番のはちまきを手にしたものの、そのはちまきを使って神の力を得ることをしなかったのです。そのため、二番に負けてしまったということですが、このはちまきをめぐる争いは、いつまでも続きます。途中でその輪廻の世界にストップをかけようとして、はちまきを隠す者がいます。それはアフロの父がそうであったように、またアフロ自身もはちまきを使用しません。二番のはちまきは、アフロの師匠が隠したり、レザレクションでも男が隠していたりします。しかし、いずれもはちまきを求める人間によって殺されてしまうのです。
 どうして戦うのかということの理由づけのためにこの「はちまき」システムを製作者は考えました。そうでなければ、人間はいくら残虐な生き物だからといって、そこまで殺しをできるわけはありません。しかし、このはちまきのために、人々は戦いを求めるのです。レザレクションでは、それまでのアフロが殺してきた人たちの、兄弟や家族が描き出されます。人は複雑な関係のなかで生きていますから、自分がたとえば一人の男を殺したとなると、その人とかかわっていた多くの人の一部をも殺したことになるのです。レザレクションでは、アフロに殺された兄弟、家族がアフロを待ち伏せている場面があります。また、今作の適役であるシヲは仁之助の妹であり(この点は自分が孤児であると仁之助が言っていたことから、本当の妹というよりは義兄弟と考えた方がいいでしょう)、家族を殺されたとして、アフロに復讐心を燃やします。

 この作品は、独立した作品というよりは、ただ前作の補てんをしたような感じなので、この作品ひとつをとってあまり論じることはできません。
 ですが、最後に一作目で倒したはずのジョーカーらしき人物が復活したのではないかというところで、終了しているところはいかにもといったパターン。その後も話は続く、次作を匂わせる作品ですが、果たしてどれだけの人々が待ち望んでいるかは不明です。
 もう、話しの流れからして、そんなに面白い話はつくれなさそうな(そもそも設定が不思議すぎて、どう話を膨らましたらいいのか難しい)感じなので、どうなることでしょう。復讐の連鎖を物語としても、それはもう一作目、二作目で十分語りつくした感もありますし、この作品はもうこれ以上は同じことの繰り返しにしかならないような気もします。二作目では、二番のはちまきを隠していた男を殺しますが、その男が連れていた亡き友人(これもアフロサムライに殺されたことになっています)の子供が、その男がアフロサムライに殺されるところを目撃。そして、またアフロに対して復讐を誓うというパターンになるのです。これは、一作目の冒頭で、子供だったアフロが父の死に直面したのと構図はほぼ同じ。
 ですから、この二作目の最後で、再び一作目の最初に戻ったということにしておいて、輪廻するのだとしたほうが区切れがいい気はします。
 今後続編が作られるかはわかりませんが、アニメーション映画を追う者としては、常にアンテナを立てておくとしましょう。

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