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アニメーション映画 『ストレンヂア 無皇刃譚』 感想とレビュー 「日本らしい」アニメを目指して

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はじめに
 〈『ストレンヂア 無皇刃譚』(ストレンヂア むこうはだん/Sword of the Stranger)は、松竹より2007年9月29日に公開された安藤真裕監督の時代劇アニメ映画。PG-12指定。〉(Wikipediaより)
 原作はボンズ (アニメ制作プロダクション)で、それを松竹の出資により映画化されたようです。アニメーション業界では、ジブリだけが有名になってしまっていますが、これからはボンズのような素晴らしいアニメーションを制作している会社も、社会的に認知されるようになるとよりアニメーションの地位獲得ができると思います。

アニメの強み
 R12指定というように、このアニメーションは非常に暴力的です。いわゆるスプラッターといわれるような、グロテスクなシーンに溢れています。
 私は個人的にグロテスクな表現がだめなのですが、この映画はなんとか耐えられました。
 「安藤自身がアニメーター出身の演出家であることから、動かすことによって楽しむことの出来る作品にしたいという思いがあったからであ」ったという旨がWikipediaにあるように、このアニメーションはまさしくアニメそのものがもっている、「動き」というアニメの強みを生かした作品になっています。
 アニメーションというのは、アニメであって、実写ではない。このことをよく考えますと、「らしさ」「ぽさ」が求められるわけです。実写はどんなに、それっぽくても、一応現実を映すわけですから、あまり空想的なことはできない。もちろん、CGを使用して全く別のものを描くのは可能ですが、やはりどうしてもまだCGという新しい技術は観客に違和感を覚えさせるようです。それに対して、アニメーションはすでに半世紀以上も我々が馴染んできたため、違和感を覚えない。アニメの強みというのは、実写やCGでは描けない「らしさ」や「ぽさ」を表現できることだと思います。
この映画のみどころは、なんといっても戦闘シーン。ほぼ戦闘シーンだったのではないかと思われるほど、戦闘シーンの多い作品です。

主人公は?
 この映画の主人公とよべるものは、少し難しい。仔太郎であるとも言えますし、「名無し」であるとも言えます。冒頭から仔太郎視点で物語が展開していきますから、そのまま見ると仔太郎が主人公のように見えてしまいます。しかし、仔太郎はこの物語のキーではありますが、彼自身はまだ子供で、自分では戦闘をしないのです。専ら戦闘をするのは、ひょんなことから雇う、雇われるという関係になった、「名無し」。
 この映画は今までの物語の王道とおなじように、強敵がいて、それと渡り合うというものです。ですが、その渡り合う人物が、通常は物語視点となるはずですがこの映画は違う。物語視点(映画がどの視点から描写されるか)という点に関しては、あくまでも仔太郎なわけです。
 この映画が公開された2007年という年代を考えると、私が勝手に作り出した言葉ですが「傍観する主人公」という枠組みが適応できなくはない。2003年から発表されている『涼宮ハルヒの憂鬱』に代表されるように、主人公は専ら傍観、物語を見続けるだけで、戦っている人物は物語視点人物とは異なるということです。今までの物語は戦う人物の視点で物語が描かれることが多かったのですが、この十年、二十年ほどは、戦う人物の視点で描かれるということが少なくなってきていると私は分析しています。
 ですから、「主人公」という言葉自体がそれ以前の物語の構造で作られた言葉ですから、物語の構造が異なってきた現在ではそのまま使用することができません。それに、主人公は誰だと決めつけたところで、そんなに物語の解釈に有用であるとも思えないのです。物語の視点は、仔太郎ですが、専ら描写されるのは、「名無し」だということができるでしょう。
 この「名無し」ですが、まさしくその名前が示しているように、素性のわからない人物です。名前がないのだから、主人公になりえない。ところが、仔太郎という人物が「名無し」を見続けることによって、「名無し」は名無しではなく、一人の人物として描写されるのです。このことは、「名無し」と仔太郎が一端わかれる部分でも象徴的に表現されています。仔太郎はお寺で育っているので、読み書きができます。そして、坊主の特権として、名前をあげることができるのです。仔太郎は名無しに「名前が欲しくなったら自分のところへこい。名前を考えてやる」と述べます。この構図は、一人の個として存在しえない中途半端な存在である名無しを、きちんとした一つの個とすることができる仔太郎の視点で作品が進んでいくことと重なっていると私は思います。

時代設定
 時代は不明ですが、おおよその時代はわかります。というのは、赤い服をきた「唐土(もろこし)」と呼ばれる集団が、明国から来たということが作品内で語られるからです。
 明王朝が存在したのは、1368年から1644年。約300年間です。さらに舞台とされる日本らしき国では、終盤、赤池国の領主が時間稼ぎのために人質となっていますが、それをその領主の重臣であったはずの虎杖将藍(いたどり しょうげん)は簡単に殺します。それをみて、武装集団の羅狼(らろう)は、この国では中国の皇帝と違い、自分達の上にいる人物はそんなに重視されないといったことを口にします。このことから考えて、下剋上をすることがそんなに躊躇われなかった時代ということが憶測されますから、1600年に近い時代、1500年代あたりが舞台となっているのではないかと考えることができるでしょう。また、架空のお寺、万覚寺がたびたび映画のなかではその鳥瞰図のような描写がされますが、この伽藍の配置から何時代だと特定することができるかもしれません。この部分は私はよくわからないので、指摘だけにしておきます。

不老不死
 この作品のモチーフとなるのは、不老不死の薬。武装集団を組織した人物でもあり、こんかいの作品で描かれることの原因となるのは、白鸞(びゃくらん)と呼ばれる老人です。この老人は、皇帝に不老不死の薬を作る命を受けて、日本と思われる国にきて、百年に一度という少年を探します。この百年に一度生まれるという少年の血を込めて作れば不老不死の薬ができると考えていたそうですが、この部分がいかにもありそうなので、この作品は成功しているのです。
 ここであまりにも突拍子のないことが物語を動かす原因になってしまうと、現実感が無い、「らしくない」「ぽくない」ということになってしまいます。ですが、日本には、八尾比丘尼のお話があり、そして中国には、歴代の皇帝が不老不死の薬を探し求めていたという話を学校などでならって知っているものですから、この作品も違和感を覚えずに鑑賞することができるのです。
 もしかしたら、本当にありそうかもという、「らしさ」や「ぽさ」を表現できたため、この作品は高い評価を得ることができたのです。日本ぽい、武士の世界。侍の世界を描きつつ、そこに中国っぽい、不老不死の薬を組み合わせた。この重ね合わせが、らしさやぽさに力を与えているのです。

 現在の科学が発達した我々から見れば、そんな馬鹿なということになり、いくらなんでも不老不死の薬は、あの少年の血くらいでは作れそうにないと思います。しかし、この作品で登場する明の武装集団は、痛みを感じない薬を作ることに成功しており、現実的には麻薬か何かだと思われますが、なかなか説得力を持っています。

終わりに、ラストシーン
 ラストシーンは意味深長です。この作品で最も強い羅狼(らろう)との決戦を終えてぼろぼろになった「名無し」。その名無しをなんとか医者のいる村まで届けようというところでこの映画は終わります。背中に名無しをおぶり、馬にのってかける仔太郎。
 しかし、最後の場面では、名無しの顔からはどんどん表情がなくなっていき、死んだともとれるような描写になっています。しかし、生きているともとれる。仔太郎は最後のやりとりで、泣きそうな非常に複雑な顔をしますが、それはもう死ぬということがわかっていたからでしょうか。このラストシーンは死んだとも、死んでいないともとれるような、絶妙なさじ加減になっています。

 この映画は、アニメの強みである、「らしさ」「ぽさ」を上手くいかし、さらにアニメ=日本という認識を強めるために、武士の世界を描いています。同じく2007年に公開された武士を描いた『アフロサムライ』と同様、日本のアニメーションを世界のアニメファンに強く示したという点で、この映画はおそらく今後も語りつがれることとなるでしょう。

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