スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第百五十回芥川賞受賞作 『穴』 小山田浩子 感想とレビュー 残る「家制度」の香り 流れに組み込まれること

AS20140120000783_comm.jpg


はじめに
 一年に二度ある芥川賞は日本の新人純文学作家を発見することを主とした賞です。今回150回目を迎え、大きな節目になるということで、この賞を主催している文藝春秋では、大々的に広告を打っています。
 芥川賞選評などを読んでいますと、他の作品も面白そうだなと思われます。今回は小山田浩子さんの『穴』に決定しました。なかなか難しい小説ですが、一つどう解釈するか試みてみます。
 ネタバレがありますから、その点は気を付けてください。

ドライなあさひ
 まずこの小説を読んだ際に感じたのは、一見するととても平凡な、筆者と年齢がほぼかわらない女性を描いた作品だなということです。30歳という年齢が小説内には示されていますが、筆者の小山田さんも1983年生まれですから、ほぼ同じ。といっても、安易に主人公の松浦あさひと小山田浩子を同一視してはいけません。小説はフィクションですから、一端作品と作者は切り離して考えた方がいいでしょう。
 小説前半は、30歳の主婦である「あさひ」が、夫の転勤に伴い、仕事を辞めるという場面に重きが置かれます。そこでは、仕事に関する作者なりの批評があります。正規社員と非正規社員の対偶の差、それにもかかわらず、仕事の内容は同じ。
 しかしこれらの社会現状への批判は、あさひ自身の声ではなく、同じ職場で働いていた「非正規仲間」の女性からなされます。(また、芥川賞への一つの批判となりえるのは、その撰者たちも小説はある程度社会対する批評、現状を映し出しているといったドキュメント性を求めていると思われることです。別に現状をまったく反映していない小説でもいいではないか、という切り込みもできます)
 この小説の主人公となるあさひは、非常にドライな人間。この小説はあさひの視点にかなり近い視点で物語が描かれていますが、しかし、あさひの心情を探るのは極めて難しい。感情がないのではないかと思われるくらい、何を考えているのかわからない人物です。彼女は自分のことをぼうっとしていると表現していますが、それを信用するかどうかは読者の判断です。
 同僚の職員が仕事を辞めても経済的に厳しいことや、しかしだからといってこのまま働いていても非正規ではといった社会風刺をする一方、あさひは何とも思っていません。同僚の女性は専業主婦になるあさひのことを羨みます。彼女にとって専業主婦は夢なのです。そこにはまだ、女性でさえも家庭に入って何もしないでいることがすばらしいといった価値があることがわかります。

 あさひの視点はといえば、「私は別にどうしても子供が欲しいとかは思っていない。積極的にほしいとも思わない」というゼロ的な心の持ち主です。流されるままといえばそうですし、自分からこうしたいといった願望はないようです。彼女は何につけてもどうでもいいといった感じが見受けられます。それは仕事に対してもそう。また、夫の実家の隣で暮らすということになっても、べつにどうでもいいのです。別々の建物とはいえ、隣で暮らすことになれば、嫁姑の問題が生じてくるでしょうが、そのこともあまり関心をしめしていないように見えます。


ディスコミュニケーション小説
 また、この小説はディスコミュニケーションも表現していると言えます。誰でもできる読み方なので、読み方としてはつまらないですが、一応書いておきましょう。あさひの夫は、妻であるあさひを目の前にしながら、ずっと携帯をいじっています。これは、現在の人間関係を上手く描写しているのではないでしょうか。小説に携帯や最新機器が登場するかどうかということも文学を読み解く際の一つの鍵になりますが、この小説では、主人公の夫が携帯依存なのです。もちろん、本人はそう自覚していません。
 (今回の文藝春秋が面白かったのは、この小説の後に、樋口進という人が「中高生52万人を蝕む「スマホ亡国論」」と題して、ネット依存のことを書いていたことです。ちょうど小説と評論が同じ内容をテーマにしていました。編集者は何か狙ってやったのでしょうか)
 夫は常に目の前にいる彼女よりも、携帯のなかの友人と対話しています。
 「メールを打っているのか何かをインターネット上に書きこんだりしているのか、その内容を知りたいと思った時期もあったが今はもうそんなに興味はない。犯罪や、過剰に性的なことでないならば、私の知らない友人たちやコミュニティの中で夫が何を書いたり言ったりしているのかいちいち詮索する気にならない」
 このような部分からどう夫婦の仲を取るかは読者の自由ですが、私は相手に関心を示す気がなくなった、知りたいと思わなくなった時点で二人の愛はもう終わっているのだなと思います。知りたいと思わなくなったあさひもそうですが、それ以前に妻の前でずっと携帯をいじっている夫は、あさひのことを愛していないのでしょう。
 また、職場まで30分の場所に引っ越したと書いてありますが、夫の宗明はひどく遅くまで残業しています。そして、ずっと携帯を手放さない。妻に対してはほとんど見向きもしない。職場ではお菓子が食べられるという不思議な下りがありますが、誰からそういったお菓子を貰うのかという問いに対して、なんだか煮え切らない答えをしている。これらのことを総合して考えると、もしかしたら、夫の宗明には愛人かなにかがいるかもしれないという可能性が出てきます。

 本来あさひの視点で物語を語っているので、夫が何を携帯に打ち込んでいるのかはわからないことになりますが、例外的に一か所、何を書いたのかわかるようになっている部分があります。世羅の奥さんがみょうがを渡しに来たあとのことです。みょうがが何かをしらなかった夫がみょうがを食べ、まずいと言った後。「夫は別のおかずを口に入れながら、携帯電話を触った。今嫁にみょうがっていう糞まずいものを食べさせられたんだけど云々。私はため息をついた」
 もちろん、ここからは、妻が勝手に想像しただけと読むこともできます。ですが、何を書いているのか興味がないあさひが、わざわざ夫が何を打ち込んだのか想像するでしょうか。それよりは、語り手の視点が、あさひを一端離れて神の視点になったと考えた方が自然なのではないかと私は思います。

 他にも、姑は一方的に彼女の携帯電話の番号を知っていたり、周囲の人々があさひのことを知っているのに対して、何故かあさひは周りのことを知らないという、情報の一方向性が描かれています。これは周りが勝手に情報を交換しているということでしょうか。それとも非積極的なあさひが周囲を無視している(あるいは周りにそう捉えられている)結果生じたことなのでしょうか。


謎の義兄
 この小説は徐々に平凡な主婦の日常から、非日常的な小説へと様相を変化させてきます。この感じは村上春樹の作品に通じる雰囲気があります。文藝評論の用語では、マジックリアリスムと言って、日常を描いているのだけれども、どこか非日常と融合しているという作風のことを指します。
 また、村上春樹との類似点は、穴に入ることからも指摘できるでしょう。あさひは、不思議な動物、犬とも、たぬきともイノシシともつかないような黒い動物と何度か遭遇します。そして、この動物の習性が穴を掘ることなのです。あさひは最初その動物を追っているさいにその穴にはまってしまいます。胸まで入るような穴で、なかなか出られません。二度目にその動物と遭遇した際には、その動物は自分で掘った穴ではなくて、あらかじめある穴、古井戸に入ります。井戸と言えば、春樹文学の代表的なモチーフです。作風としても、現実のなかに非現実が入って来るという点で春樹に似ていますし、何かしらの影響を受けているということができるでしょう。

 さて、なかでも中盤から登場し、重要な役割を果たす夫の兄である「先生」と呼ばれる男性が問題です。近所に住んでいる世羅という家の奥さんは、雨の日にいきなりあさひの元を訪れてみょうがを渡しますが、その際にちらっとこぼしたのは、「松浦さんとこも、タカちゃんのこととかいろいろあったし大変だったと思うけど」とこぼし、タカちゃんが誰なのかということを尋ねると、別のことを話していたと言い逃れてしまいます。もしも、このタカちゃんというのが、「先生」と呼ばれる兄であったならば、兄の名前は少なくともタカが付く名前であることがわかります。
 この義兄ですが、「下半身は紺色か黒のズボンで、私はそれが中学か高校かの男子の夏制服に似ていると思った」という描写からもわかるように、中学か高校かで、実家を出てから時がとまっているということが匂わされています。彼は自分で説明しているように「二十年前に、僕ぁもうすっかり育った青年だったけれど断固通学をやめて、物置の、掘立小屋にベッドを運び込んでそこで暮らし始めた」のです。
 しかし、そのような生活をしていてお金がどこから出てくるのか。そうすると、先に登場した封筒から二万4千円ほどのお金が消えていたという事件も、義兄が抜き取ったのではないかという解釈も成り立ちます。しかし、当然最後まで読んだ読者であれば、義兄の存在がひどく非現実的な存在であることがわかります。もしかしたら彼は幽霊などに類する存在であった可能性が高く、実在していたとは読みにくいように書かれています。すると、封筒の2万4千円の件はどうなるか。少し無理な読み方ですが、本当にお金が足りなくて姑が戦略的に仕込んだ罠か、あるいは義祖父がとったかのどちらかということになるでしょう。
 しかし、そのルートは苦しい。やはりここだけは、一時的とはいえ実体に近い状態で存在していた義兄が取ったというルートがいいのではないでしょうか。

 義兄ならびに、彼のもとに集まる子供たちというのは、一体なにを象徴しているのでしょうか。あさひは最初にこの義兄と子供たちと、町にあるコンビニで出会います。子供たちは漫画を勝手に読んで、地べたにすわったりしていますが、そのようなことがあれば当然コンビニの店員は記憶しているはずです。しかし、終盤、あさひがそのコンビニでバイトをする際に、その店員は子供が来るだろうというあさひの問いに対して「そうでもないですね。この辺はもう、お子さんがいるおうち自体が少ないと思いますよ、高齢化で。学校かオフィスでも近所にあればね、また違うでしょうけど」と、子供がほとんど存在していないことを述べます。そうすると、義兄とともに町を歩いた際に突如現れてくる子供たちは一体なんなのでしょうか。
 単なる幽霊として考えていいのでしょうか。あるいは、夏の記憶といったものなのでしょうか。あさひは、自分が専業主婦になったことを、人生の夏休みと捉えている節があります。そうすると、夏休みという記憶がフラッシュバックされているという可能性も考えられます。

 タイトルにもある「穴」という象徴を考えれば、彼女は一度「穴」に入ることによって、自己の殻に閉じこもり、新しい家の中に入った「嫁」という存在になったということにもなるでしょう。すると、最初にその「穴」という殻に閉じこもった瞬間から、最後にもう一度義祖父と一緒に「穴」に入って抜け出すという行為を通すことによって、かつての自己と向き合っていたということになります。その間の空白の二ヶ月は、彼女は人生の夏休みにはいったのであり、そこでかつての夏休みの記憶をよみがえらせることによって、再び新しい自己へと変革していったのでしょう。


いまだ残る家制度
 あさひが家についた際に思い起こされる記憶に、仏壇の前にあった義祖母の写真が義母と似ていることを指摘した際のことが思い起こされます。しかし、義母は嫁いだ身ですから血縁関係はないのです。
 「しかし、見れば見る程写真の義祖母と姑は、頬の辺り、口元の皺などがそっくりだった。具体的にこのパツが、と言えないのに似ているところが何より肉親めいて思われた」というように、血縁関係がなくても、「嫁」という存在が似た風貌をもつことが小説の序盤から示唆されます。
 世羅の奥さんとの対話では、彼女は「お嫁さん」と呼ばれます。松浦さんと呼ばれていた職場での関係は終わり、家庭内では「あさちゃん」「あさひ」と名前で呼ばれますが、関係性を重視した他者からの視点を通すとあさひは松浦家の「お嫁さん」になるのです。「お嫁さん、と呼ばれる度に妙な気がした。お嫁さん、と私は今まで呼ばれたことがあっただろうか。働いている限り名前で呼ばれたし、そうでなくてもお嫁さん、と呼びかけられたことはなかった。(中略)世羅さんからすれば松浦さんと言えば姑の代の人を指すのだろうし、夫は息子さんになるのだろうし、となれば私はお嫁さんだ。私はお嫁さんになったのだ」
 ここから、他者の視点を通して自分をお嫁さんと認識するようになります。

 義兄が家からの逃亡を図った理由は、一緒に川に行った際に語られます。
 「でもただね。ねえ、家族って妙な制度だと思いませんか。一つがいの男女、雄雌ね。それがつがう、何のために、子孫を残すために。でもさ、じゃあ誰もかれもが子孫を残すべきなんだろうか?例えば僕は差し当たり親父とおふくろの子孫なわけだけれど、僕は次代に生き延びるべきほどの価値がある存在なんだろうか?そんな、価値があるんだかないんだかわからない僕を育てるために、親父は身を粉にして働いて、おふくろは血も繋がらない、しかも気の合わないバアさんと同居してまあ若死にはしたけれども看取って、死ぬのだって簡単じゃなかったんだよ。それだけのことを処理して、残った気難しいジイさんに仕えて。滅私奉公ですよ。嫁だの、母親なんて。そんなまでして、親父やおふくろがやろうとしていることは、ただ一つ、僕とい子孫をどうにかして次の世代に生きて残そうとしてるわけです。それが僕は気味が悪いんです」
 義兄が最も雄弁となった箇所です。ここでは、なぜ子孫を残さなければならないのか、子孫を残すと言うための莫大な生命力、それから逃れられなくする家制度というものを批判しています。
 「誰かがしんどい思いをするんだよね。その役目がお嫁さんに行かなきゃいいけどとは思うけど、でもお嫁さんは好きでこれを選んだわけだし・・・・・・」「これって?」「流れみたいなものに加担することにですよ。僕が逃げたそれからですよ」
 ここでいう「流れ」とは、先の引用箇所にあった、子孫を残すと言う流れのことでしょう。そしてそこから義兄は逃れたのです。彼は長男でしたから、妻を娶って後を継がなければいけない。その重圧に耐えかねて逃げ出したのです。
家制度というのは法律上でも禁止されていますが、しかし、実際にはまだその名残がかなり色濃く、無意識になったぶんさらに厄介になって残っています。
ここまでくると、すでに一人の平凡な主婦という末端的事象からはなれて、我々人間がどうして制度をつくって、その流れにのり、子孫を残しているのかという、大きな普遍的な事象まで視野に入れた指摘になります。

おわりに
 このような問い、なぜ私たちは生きるのか、子孫を残すのかという問いは、それ以前ではあまり生まれてこなかった。というのは、そうした問いを封じ込めるためというか、そうした問いを深めないために、様々なものが機能していたからです。特に土着的な宗教というのは、一族という意識を生み出し、そのなかで生死を繰り返しているという認識を与えました。ですから、自分は自分だというよりも、自分はながい年月続いている大きな家のなかの一部であって、そこから抜け出すなどといった考えには及ばなかったのです。しかし、形式では家は残りつつも、その家制度を解体してきたのが、ここ数十年のポストモダンと呼ばれる流れです。「家制度」を解体してきたものの、変に残ってしまった。そのことが、家制度に流されつつも、それに乗っている自分というものを発見し、どのようにすればよいのかわからなくなってしまったのです。
 そうした意味で、この小説は確かに、現代をいきる若者世代の感覚を、一人の主婦という視点から物語っている点で成功しています。
 芥川龍之介は「漠然とした不安」のために死んだのは有名ですが、当時芥川ほどの頭脳の持ち主が気が付いたことに、現代の私たちは多くが気が付き始めたのです。このままでいいのか?と思いつつも、しかしどうしたらよいのかわからない。そして、何かを積極的に行動しようという気概もない。そのようななかで、「生き辛さ」に繋がっているのです。
出口のない漠然とした不安を体現しているという点ではこの小説は成功しています。ですが、この小説の主人公は、穴という自己の殻に一端閉じこもり、そしてもういちどそこから出て来た時には、すでに家制度の中に収束された、没個性となってしまったのです。
 20世紀の哲学者エーリッヒ・フロムは主著『自由からの逃走』というまさしくそのタイトルと同じく、我々は自由を与えられると責任を負うことに恐怖を感じ、そこから逃げ出してしまうと述べています。結局家制度を解体してきたこの数十年でしたが、若者の世代のなかには、あえてかつての家制度のようなものに身を任せるという状況が起きているのです。
 最後の一文はこうなっています。
 「家に帰り、試しに制服を着て鏡の前に立って見ると、私の顔は既にどこか姑に似ていた」

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
154位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
13位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。