安野光雅/藤原正彦 『世にも美しい日本語入門』 感想とレビュー こういう対談本ってどうなんだろう

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はじめに
 ちくまプリマー新書 2006 評価:1(五段階評価)二度と読みたくない。他人にも薦められない。
 私は国文学を専攻としていますので、日本語入門みたいなタイトルが書いてある本は一応目を通しています。私が信頼するちくまプリマー文庫に、この手の本があったので、意気揚々と読み始めたのですが、まあ酷い。私は考えました。一応私は自分が学んできたことを通じて、評価活動をしつづけているけれども、あまり悪い作品には触れてこなかった。良い作品を紹介するだけでそれなりに満足はしていましたし、わざわざ声をあげてこれは悪いと批判することもないのではないかなと。しかし、こういう本をやはり出してはいけません。この批評がよりよい本を生み出していくための何かしらの力になればと思い、願いながら書きます。ですから、安野さん、藤原さん、どうか怒らないでください。

対談本ってどうだろう
 そもそも前提として、私は対談をただ文字に起こしただけの本というのは、本としてどうなのだろうかということがあります。やはり、書き言葉と話し言葉は違うのです。どちらがいいとかそういう問題ではなくて、本ではやはり書き言葉の方が合う。話し言葉をそのまま書き起こして、そのまま読めば、きっと恐ろしくつまらないものが出来るでしょう。それに、会話中の言葉をそのまま書き起こすと、意外と気が付かないものですが、かなり論理的にも矛盾があったり、素っ頓狂な飛躍があったりする。話していると全くそういうことには気が付かず、ずいぶん難しく話しているなと自分では思っていてもです。
 もちろん、対話を一度文字に起こしてから、編集が入るわけですが、しかしいくら編集がはいったところで、やはり最初から意識して書かれたものではありませんから、どうしても、という部分がある。
 それに、この出版業界が不況な状況で、更に質の悪い本を乱発するということにもなりかねない。こういう対談の本というのは、ある程度有名な人がやるんです。そうでなければ売れませんからね。しかし、偉くなったら対談しただけで本を出せるというのは、実際どうなのでしょうか。世の中には埋もれている良い文章を書く人間が沢山います。この程度の内容の本が出版できるくらいであれば、そうしたまだ埋もれているいい人を探した方がいいのではないでしょうか。この状況からも、現在の日本の出版業界が、質ではなくて、売れる、金になる方向に動いていることがわかるでしょう。しかし、そうすれば余計に質が落ちる。すると、客も遠のくということで、悪循環になっているのです。しばらくは売れなくて大変な時期が続くかもしれませんが、やはり質の方向にシフトチェンジした方がいいだろうと私は思っています。

タイトル詐欺
 しかも、私が今回遺憾に思ったのは、ちくまプリマー新書という、中高生が読む新書でこの本を出してしまったことです。まだ他の新書で出されたのなら私もぐっと堪えました。しかし、だ。いい本を読ませてあげなければならない子供たちにこの本はいけません。
 そもそも何が「世にも美しい日本語入門」なのでしょうか。まず、この本の最大の問題は、タイトルにある「日本語入門」にまったくなっていない点です。私はこの本から、日本語ってこういうものだったのかという新しい知識は何一つ得られませんでした。ただの、老人が自分たちが読んできた本の自慢大会をしているようにしか見えませんでした。そして、何が「世にも美しい」のでしょうか。対談者の1人である、藤原正彦氏は、小川洋子氏と共に、「世にも美しい数学入門」という本を出していますが、これもどうなのでしょう。この本を読んだ限りにおいては、こちらの本を手に取ろうという気にもなりません。何が美しいのか。私はこの本を読んでいて、日本語って美しいなあとも思わなかった。まだ、リンボウ先生の『日本語の磨き方』の方がよかった。問題大ありの本です。

オールオアナッシング
 ここまでかなり厳しく批判しましたが、しかし、全体が悪いからといって、部分まで悪いのかというとそうではない。しばしば、私たちは西洋から入ってきた思想に毒されて、オールオアナッシングでものごとを考えがちですが、それではいけません。アリかナシかではなくて、ここはアリ、ここはナシという風な視点がこれから必要になります。そうでないと、これからの世の中生きていくにはかなり辛いことになると私は思います。
 例えば、何かに失敗する。就活とか、あるいは職場でとか。そうすると、オールオアナッシングの人は、自分の全人格が否定されたと思ってしまうのです。しかし、そうではない。就活に失敗したのは、それはいくらかは本人に責任があるかもしれませんが、しかし、それは本人すべての責任ではない。しかも、それはごく一面的なものでしかない。具体的に言えば、面接力が足りなかったとか、勉強がたりなかったとか。その人が持っている趣味や、知識、普段はとても優しくて思いやりがあったり、親の面倒をよくみたり、といったそういう部分はまったくもって、いつまでも素晴らしく、否定されるべきものではありません。職場でもそう。職場で失敗したからといって、その人すべてが否定されたわけではない。仕事なんていうものは、生きるためのツールにしかすぎません。道具の取り扱いで失敗したからといって、それまでの人生が否定されることもない。だから、ここは確かに悪かった。それは認めよう。しかし、別にそれだからといって、他の部分が悪いとは限らない、こういう柔軟な思考を持ってもらいたいなと私は思います。

評価できる点
 この指摘は重要です。「由々しき問題は、若者が美しい日本語、すなわち文学を読まなくなったことである」これはその通りだ。しかし、往々にして、こういう年配の人たちが「若者は~」という批評をしますが、現在では、そうした他世代(多くは上から下)への批評というのは、あまり意味がないことだと逆に批判されるようになってきました。
 価値というものが激変しているなかで、何十年も前の自分達の価値の押し付けにすぎないのではないかということです。私も老人が「若者は~」と言っているのは、何か違うよなあといつも思っています。が、この本を読まないという点に関しては、私もそう思う。特に美しい日本語、文学を読まないというのは、やはりいけない。私はそう思ったので、できるだけ周りの人や、兄弟に本を読むように努力しているのですが、これがなかなかうまく行かない。所詮人間は、人のいうことなんて聞かないものです。私もそうです。これをやってごらんよと言われたって、やらない。だから、そうした態度を改める必要も感じつつ、難しいものがあります。

 藤原正彦先生は、専門は数学のはずですが、大学では読書ゼミというのを運営しているそうです。そこでは、彼が選んだ岩波文庫の本を一週間に一冊のペースで読む。そのゼミは定員20名で、参加条件は、一週間に一冊の本を読む根性があることと、その本を買う財力があることだそうです。これはおもしろいですね。とてもいいことだと思います。
 私も大分本を読むのに慣れてきましたので、年間100冊以上は軽く読むようになりました。平均すると一週間に2冊ちょっとということになります。しかし、読書週間が身に付くまではやはりつらい。ましてや、本を読まないで育った今の若者にとってはかなりつらいことでしょう。しかし、どうしたってやはり本だけは読まなければなりません。
面白い例が出ていました。翌日に特攻に行くという人が、その前日にニーチェや万葉集を読んでいたというのです。さらにこんな指摘もしてあります。明治時代、大正時代は遅れた時代であって、今の自分達が一番賢いと、若者は思っているそうです。確かにその嫌いはあるかもしれません。しかし、この読書ゼミを通して、昔の人たちがいかに進んでいたのかを知ることによって、自分達が相対化され、何も知っていないではないかということになるのだと言います。ですから、読書の一番効果的に目に現れるのは、自分が相対化されるということだと私は思います。自分だけで考えていると、自家撞着になるか、自分だけの傲慢な考えになってしまう。風通しの意味も込めて、本に残された考えと相対することによって、自分を相対化していきたいものです。
何を読んでいるのか、リストがあります。
 新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』、岡倉天心『茶の本』、鈴木大拙『日本的霊性』、山川菊栄『武家の女性』、『きけ わだつみのこえ』、宮本常一『忘れられた日本人』、無着成恭『山びこ学校』
わざわざ藤原ゼミに入らなくても、自分で読んで勉強することはできます。ここで、この本を読んでみようと思うか、思わないかが、人間を大きく変えていくのでしょう。

漢字学習
 また、この指摘も素晴らしい。
 漢字学習についてですが、現在の学年別の漢字学習というのは、ほぼ単に画数の多い少ないで分かれているようです。「「目、耳、口」は一年で教えるのに、「鼻」は三年です。「夕」は一年で「朝」は二年、という具合」。確かにこれはおかしい。目、耳、口というようにパーツで覚えさせるよりも、せっかくなら顔というくくりで覚えさせたほうがいい。それなら、鼻を一緒に入れたり、頭、顔も一緒に覚えさせた方がいいかもしれません。そして往々にして、子供というのは大人が思っているほど、できなくない。難しい漢字を幼稚園でどんどん読んでいるというような子がたまにテレビに出ます。興味があれば、なんでも簡単に吸収してしまうのです。画数で大人が勝手に切り分けるより、有機的な関連性を重視して、顔のパーツは一年で教えたって、おそらく問題はないでしょう。

歌について
 他にも歌について指摘があります。ほぼ、昔を懐かしんで、唱歌をただ書き連ねただけの文章にはなっていますが、しかし、昔は歌で溢れていたのに、今は歌が聞こえないと言います。なるほど、そうかなとも思います。小学生は唄って帰ったものでした。しかし、現在ではどうでしょう。小学生たちが唄って帰っているところは、なかなか見られません。田舎にいけばまだあるかもしれませんが、私の近所の学校の子たちは唄っているようには見えません。
 しかし、歌が消えたかといえば、そうではない。むしろ、歌はかなりというか極めて深刻なほど増えているのです。渋谷に行っても、新宿へ行っても、少し人の多いところに行けば、音の洪水。私はいつもあまりにも音が入ってきて困るので、イアホンをしています。それほどうるさい。昔はきっと今よりは静かだったでしょう。ですから、子供たちは歌を唄えた。しかし、今は歌というよりも雑音が多いため、子供たちが歌を奪われてしまったということになっているのかもしれません。
 また、教育の現場に限って言えば、唱歌がどんどん削られて、新しい音楽、ビートルズ(すでにこれも古典となってしまいましたが)や、最近の歌手の曲がはいるようになってきています。それももちろんいいですが、やはり昔の唱歌というのが無くなっていくのは、若い私としても忍びないものがあります。どうしたらいいのでしょうか。唱歌も残して、現代音楽も残すというわけにはいきません。音楽の授業を増やすわけにもいきませんし、難しい問題です。

終わりに
 まあ、しかし、本当にこの本は本としてひどいなと思います。このような本に高い金を出す必要がまったく感じられません。私としては買う必要はないと思いますが、しかし、それを確かめて、批評するためには読んでみる必要があるかもしれません。

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