山脇由貴子『大人はウザい!』 感想とレビュー  「ウザい」という言葉をもう一度よく考えてみよう

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評価:5
はじめに
 (2010、ちくまプリマー新書)より。私がほとんど手放しで賛成できるのは、「ちくまプリマー」という新書。ちくま書房から出たものですが、プリマーとあるように、中高生が読者に想定されています。だからといて、決して内容が軽薄なわけではない。新書をばんばん書いているような研究者や有名な人が、できるだけ平易な文章でわかりやすく書いているのです。大人が読んでもまったく問題ありません。むしろ、大人が読んだうえで、是非これを子供たちに進めてあげられるようになるといいなと私は思っています。

「ウザい」ってなんだ
 さて、一口に「ウザい」といっても、そこには様々なうざいがあります。「最近の若者言葉は~」といったくくりでさまざまな解説や論評があるなかで、この本は本当に真摯にこの言葉について向き合った著作だと思います。私がいままで読んだ本のなかでは、こうした簡単な表現を使用することを通じて、彼等はお互いにアイデンティティを共有しているのだとか、こうした言語の後退化が、思考を弱体化させているとか、そのような大人からの目線でかかれたものしか読んできませんでした。この本は子供の視点から「ウザい」とはどういうことかを丁寧に読み取ったものです。
子どもたちの「ウザい」を読み解くことによって、子どもたちのことをより理解しすることができます。また我々大人の 反省する材料にもなります。この本はとてもよかったので、是非私の友人の教職をとっている人や親、大人に読んでほしいものです。もちろん、子どもにも是非読んでほしい。

「ウザい」大人たち
 子どもたちはまだ獲得した言語が圧倒的に少ない状態にあります。ましてや活字離れの現在において、自分の知らない言葉と触れ合う機会がめっきりへってしまっている。そのなかで、言葉という武器にも防具にもなるものを手に入れないまま中学、高校という場に進んでいくと、自分の感情をうまく表現できないということになります。そんな時に便利なのが、この万能な言葉「ウザい」です。これは私の勝手な解釈、考えですから、賛同できない場合は無視していただければかまいません。この「ウザい」という言葉は、漠然として、抽象的であるが故に有用なのです。なんでもとりあえず「ウザい」ということにしておけばいいからです。
 確かに、中高生が「ウザい」と使用する際には、単に門限が早いとか、お小遣いが少ないとか、授業がつまらないとか、無邪気な身勝手から出て来たものもあります。が、これは特に気にしなくてもいいでしょう。しかし、「ウザい」にはもっと重要な意味で使用されていることが多々あるのです。
 この本は、児童相談所で働いている著者のもとへ来た子供たちの体験を簡単にまとめたストーリーをいくつも提示しています。それぞれの「ウザい」は、同じ言葉であっても、その内容が全然違うのです。いくつか例を挙げて見ますが、例えば、友達の選択に口出しして来る親。友達を遊びに行くと言えば、その子はどんな子なのか、親は何をしているのか、どこに住んでいるのか、と質問攻め。なぜ親が子供の友人まで決めなければならないのでしょう。貧乏だったり、親が水商売しているからといって、どうしてそれだけでその子と付き合ってはいけないということになるのでしょう。しかし、そうした差別の意識をもった親というのは、いくらでもいるのです。それが、子どものことになると、子どもを守らなければならないということにばかり意識が集中して、自分が差別をしているということははっと忘れてしまう。
 他にも、茶髪であるだけで、付き合ってはいけない。大人はどうしても自分たちのルール、常識、社会という枠組みで子供たちを考えてしまいます。ですから、茶髪という社会に相容れない、反抗的な子というレッテルをあったこともないのに、あるいは話したこともないのに押し付けてしまうのです。
 子どもに自分のいうことを聞かせなければ絶対に気が済まない親。自分のようになれ、あるいは夫や妻のようにはなるな、といって勉強をやれ勉強をやれというだけの繰り返し。勝組にならなければならないとずっと言い続けたり。
正論は確かに正しいが、正論を振りかざしてずっと説教をしてくる人。います、というか、私がこのタイプの人間なので、本当に気を付けなければならないと思います。
 自分の非を認めようとしない大人。筆者はこう言っています。「大人は嘘をついていいのか。子どもには謝らなくていいのか。自分が間違ったこと、悪かったということを認めるのは、人間の基本だろう」まさしく至言。よく日本の教育は禁止を教え込むと言われます。あれをやってはだめ、これをやってはだめ。人様に迷惑をかけるな。あそこには行くな。こうなったらどうするんだ。
確かに、リスク管理という面では日本ほど優れている国はありませんから、確かにある程度の意味はあります。しかし、あまりにも禁止が多すぎると失敗したときの恐怖が大きくなり、何もできなくなってしまうのです。日本が斬新なものに恐怖を抱いたり、あるいは初めの一歩を踏み出せないのはこのためかもしれません。しかし、大事なのは、あれをするなこれをするなという禁止ではなく、もし失敗してしまったらどうするかということです。きちんと自分が失敗してしまったことを認める。謝る。そうしたことを教えなければならないと思います。

著者の重要な指摘
 著者は大事な指摘をします。いつも口うるさかったり、怒りをまき散らしたりしている人は、確かに「うざい」かもしれませんが、そうした嫌な人のことは、いずれ無関心になるか、流してしまうようになります。子どもが親や先生に「ウザい」と思う時は、そういう側面もあるかもしれませんが、それ以上に、「子どもの落胆や怒りや悲しみといった感情が実はたくさん含まれている」のではないかということです。本当は、自分の親だからこそ、あの先生だからこそ、決めつけたり、ただ叱ったりするのではなく、大人としてきちんとしていてほしい。それなのに、という思いがそこにはあるのではないかというのです。確かに、私たちが失望したり、絶望したりするのは、本来そうではないと思っていたからです。
 また、大人、特に教師は「こうあるべき」という思い込みが特に激しい(反対から見れば正義感のある人間ということになりますが)、のでどうしてもそれを子どもに押し付けてしまうのです。
 筆者の重要な指摘は、大人には大人の社会やルールがあるように、子どもには子どものルールや社会があると述べている点です。「いじめ」問題について、いくつかの例が挙げられています。筆者の結論は、「いじめ」について教師があまり勝手につっこんでいってはいけないというもの。最近のいじめはとくに陰湿で、昨日の友は明日も友とは限らないようなかなり不安定な状況でいじめる相手を変えたりと、いまだかつてないような状況にあります。そして、子どもたちのなかには、様々な暗黙のルール、ルールとまでもいえないような、雰囲気とでもいったようなものがあります。これを、教師がづかづかと入り込んできて、大人の正義をふりかざしてめちゃくちゃにすると、事態は余計に悪化することになるのです。
 では大人はどうすればいいのかというと、子どもが決してこれはやってほしくないと言うことは決してやらないことです。クラスのホームルームで問題にしたりしてもらっては、誰かがちくったということになり、余計にいじめはエスカレートします。ですから、自分や大人たちの勝手で考えるのではなくて、子どもたちの一緒にどのようにしていくか方法を探っていけというのです。ですから、素早い解決というのは難しい。大人は忙しいですし、いじめなんてものはすぐにでもなくなってほしいと思ってしまいますが、大人が介入することによって余計に悪化するということが往々にあるということを考えて、じっくりと行動しなければなりません。

 「ほめられる機会がない子どもは、どうすればほめられるのかを学習する機会がない。だからほめられるべき行動を獲得できない。そして叱られてばかりいる子供は、叱られる時しか大人から関心を向けてもらえないので、もっと関心を向けてもらいたいと思うと、さらに叱られる行動をとるしかなくなる」
 「掃除をしていたら「なんだ今日は珍しいな」ではなくて「お前が掃除してくれると助かるよ」」
 著者はこのような関係から、子どもは大人を信頼し、きちんとした人間に成長していくと言います。大人は子どもを、子どもとしてではなく、一人の人間として真摯に向かい合っていくことが大切です。子どもの秘密を勝手にばらしてしまったりするのはアウト。「お前」と呼ばれれば誰だって腹が立ちます。大人がそんな口を聞いていいのでしょうか。大人は自分の過ちを認めません。特に学校現場においては、教師はそれが生徒たちに馬鹿にされたととってよけい依怙地になる人もいます。
 そして、子どもは子どもたちなりに忙しいのです。それを省みず、勉強しろ、ニュースを見ろ、新聞を読めとこれではいけません。別に子供のころ社会情勢に詳しくなくても、そんなに問題なにのではないかというのが筆者の意見です。
 大人はまず何か子どもが言ってきたら、決して叱ってはいけないといいます。なぜなら、どうしようもない恐怖や感情をなんとかしようとして親に打ち明けたのですから。それを悪いことだからといっていきなり叱ってはいけないのです。まずは共感をしろといいます。共感して、そうだったのかと一緒に感じた後、だから、もう行ってはいけないよ、やってはいけないよという段になるのです。

終わりに
 今の中高生の現状はかなり悲惨な状況があると私は思います。そして、それは決してその他の世代の人間が、自分達の感覚で判断して批判したりしていいものではありません。ケータイと共に育ち、Twitter、LINE、プロフなどをコミュニケーションの一部としてきた世代の感覚とは決定的に違うからです。だから、やめろといったりするのは全くの検討違い。香山リカ氏は、様々な著書のなかで、ケータイやネットは彼らの居場所の一部になっていると述べています。身体の一部になってしまっているものを、それは危険が多すぎるからという理由で切り取るというのは、かなり暴力的なことです。そうした電子機器のことについてはまた別の機会に考えるとして、子どもたちが大人たちを「ウザい」という時、これをよく考えて、大人は大人としての行動をしなければならないと感じました。

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